宗教画との出会い

先日、プラド美術館展に行ってきた。ベラスケスやゴヤなどの作品が特に目立たないほど名作が目白押しで、久しぶりに絵画がもたらす独特の充実感に浸ることができた。

ところで、ヨーロッパ絵画はキリスト教抜きには語れない。今回の展覧会でも多数の宗教画が出展されていた。しかしキリスト教になじみが薄いものにとって、宗教画にはなんとなく苦手意識がある。作者にとって、聖書から題材を得たその場面を描くことにどのような意味があったのだろうか。もちろん絵画なのだから、それを観てどう感じるかは鑑賞者の自由である。だからと言って、十字架を背負ったキリストの絵を、ゴッホの「ひまわり」を観るのと同じようには観られない。宗教画は作者の信仰心と深くかかわっているからである。現代人は宗教が苦手である。昨今、大ヒットしている「ダ・ヴィンチコード」でも、ダ・ヴィンチの有名な宗教画にある、カトリックの常識から外れた多くの「謎」には注目しているが、画家の信仰心などには全く触れていない。「信仰」を避けてキリスト教を文化として語ることは最近の流行のようである。しかし、謎解きが絵の核心に近づく道だとは思えない。幸いなことに、この展覧会におけるある絵との出会いが、宗教画への眼を開かせてくれた。ムリーリョの「貝殻の子供達」である。

幼子姿のイエスが、やはり幼子姿の洗礼者ヨハネの口元に、水の入った貝殻を近づけ、それを子羊が下から見上げている。ヨハネはその水を口に含みながらも、左手でもった十字架形の杖の先に注意を集中させ、今にも次の行動に移ろうとしている。いかにも幼い子供が無心で遊んでいる様子が伝わってくるが、良く見るとヨハネは非常に聡明そうで、イエスはイエスで後ろに控えてはいるが、その目はまるで我が子を見守るかのようにおだやかで確信に満ちている。そして見れば見るほど、彼らの姿勢や仕草、そして動きはすべて調和に満ち、一部の隙もない。さらに、イエスやヨハネのいかにも幼子らしい純真さが、そうした完璧な調和が「生まれながら」に備わっているものであることを無言のうちに伝えている。僕は静かなその絵のなかに、崇高な熱気が渦巻くのを感じ、しばしそれに焼かれる思いで絵の前に立ち尽くした。同時に、僕のような俗な人間が今後どう生きようとも、こうした世界には決して到達できないだろうという思いが湧き起こり、胸が一杯になったのである。

会場の出口で、この絵のポスターを買ったが、実物に感じた感動は蘇らなかった。本物の柔らかく深みのある質感は、作者の精魂込めた微妙な筆のタッチに支えられており、それを印刷で再現するのは無理そうだ。改めて、作者の驚くべき技術の高さと、それを細部に至るまで注ぎ込ませた作者の心の世界を感じないわけにはいかなかった。

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