受験

受験生とその親にとっては、目の前にそびえる受験は、あたかも人生の勝ち負けを決する天王山である。最難関の大学に合格すれば、何物にも代えがたい優越感が得られ、逆に落ちた者には、容易に回復できない劣等感が刻み付けられる。しかも、こうしてできた序列は一生消すことができない。そうした思いがひたすら受験生を駆り立てる。

しかし、受験は本来、あくまでも大学の選抜試験であり、それ自体が最終目標ではない。むしろ本人が優秀なら、どこの大学に行っても活躍できそうなものである。もし気にするなら、大学の研究環境、つまり教官の質や設備の良し悪しなどのほうがずっと重要ではないだろうか。しかし、受験生やその親の関心は大学の中身ではなく、あくまでも合格の難易度なのである。難しい大学に合格することにより得られる満足感は、大学で何をやるかということより遥かに重要らしい。なんとも奇妙な現象であるが、そこに受験の受験たる所以がある。

それにしても、そうした難関に合格することは、果たして世間で思われているほどのステイタスがあるのだろうか?今や昔のように、有名大卒の看板だけで一生飯が食える時代ではない。世の中はすでに実力主義の時代で、かつてのような学歴に対するこだわりはなくなりつつある。特に大企業でその傾向が強い。有名大卒の看板に、まだ黄門様の印籠のごとき輝きがあると思っているのは、全くの幻想と言ってよい。

もっとも、もし受験勉強が将来非常に役に立つものなら、競争心をあおり学生を必至に勉強に駆り立てる受験は、それなりに意味があるだろう。国民の能力向上のために、心身ともに成長する時期に適切な教育を施し、将来の飛躍の基礎を身につけさせることは理にかなっているし、そのためには競争も必要だろう。しかし問題は、受験勉強そのものに、そうした効果があるかということである。これには色々な意見があるだろうが、僕の考えでははなはだ疑問である。例えば、よく言われるように、受験英語は実践では通用しない。これを受験関係者は、受験勉強は基礎だから、将来、会話の勉強をすればよいと言うが、しかし、アジア諸国の中でも、大学生がろくに英語で議論もできないのは日本くらいのものである。世の中の急速な変化にもかかわらず、基礎だから、という理由で、旧態依然とした受験教育を続けることは、将来を担う若い才能を潰しかねない。

こうした難題を抱えた受験にどう臨むかは、当事者である子供だけでなく、その親にとっても大きな課題である。受験生の親が、自分の子供にどういうアドバイスができるかは、親がどう生きているかを試されてもいるのである。

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