生物における「合目的性」

1965年にノーベル医学生理学賞を受賞したフランスの生物学者ジャック・モノーは、有名な「偶然と必然」という著書の中で、次のように言っている。「生物学が科学として成り立つためには客観性が必要だが、一方、生物は明らかに合目的的性格を持ち、それが生物であることの証でもある。そこに生物学が内包する矛盾がある」。ここで言う、合目的的性格とは、生物の振る舞いには、常に何からの目的があるように見えることを言う。

例えば、卵子と受精する精子は、頭部から生えた鞭毛を螺旋状にし、スクリュウのように回転させて前進するが、その螺旋の形状を流体工学的に調べてみると、精子が最も速く進める形状(ピッチと振幅)になっていることがわかる。卵子と受精できるのは何億もの精子のうち1個だけであるから、精子は出来るだけ早く卵子に到達しようとするわけである。さらに、卵子にたどり着いた精子は、一転して鞭毛の動きを回転運動から平泳ぎのキックのような前後の運動に変える。これについても流体工学的に調べてみると、今度は進む力が最も強くなる泳ぎ方になっているのである。卵子にたどり着いた精子が受精するためには、卵子の細胞膜を破って核に侵入しなければならない。そこで、もっとも推進力が得られる泳ぎ方に切り変えたのである。

精子に限らず、昆虫の行動にも、植物の種子を飛ばす方法にも、「なんと巧妙な!」と驚かされる振る舞いをしばしば目にする。そうした、「合目的的」振る舞いは、生物にしか見られないものであり、生物を非生物から区別するものと考えられてきた。

一方で、物理学に代表される現代科学の手法においては、客観性が重視され、分析的な理解を目指す。生物のあらゆる振る舞いや構造は、基本的にすべて物理法則に帰することができると考え、「目的」のような主観的な見方は極力排除しようとする。

20世紀に入り、量子力学が登場し、物理学が次々と自然の仕組みを解明していくなか、モノーの時代には、まだ、「生命」にだけは、物理学では説明できない何か形而上学的なものが隠され、それが生物の「合目的的」な振る舞いの起源ではないかという期待があった。しかし、その後の分子生物学の急速な発展は、そうした期待を次々と退けていった。結局、生命現象といえども物理学に矛盾するものは、何もみつからなかったのである。

しかしながら、生物の行動が単なる物理的な帰結だとすれば、何故その振る舞いは「合目的的」に見えるのか。分析的な方法は、永久にその疑問には応えてくれそうにもない。しかし、逆に、ア・プリオリに「合目的性」を仮定してみると、巧妙に物理法則を利用し、進化を続ける生物のしたたかな姿が見えてくる。宇宙さえも、実は生物に進化の舞台を与えるために生まれてきたのかもしれないのである。

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