情報依存症

先日新聞に、現代の若者は「はずれ」を極端に嫌う、という記事があった。店に入るにも必ず「あたり」の店に入りたい。旅行に行くにも「あたり」の宿に泊まりたい。そこで事前にしっかり情報を集める。現代はネット社会である。ガイドブックだけの時代と違い、ブログなどからすでにその店や宿に行った人の感想も簡単に入手できる。意外性は求めない。評判の店に行き、評判どおりの味を楽しみ、評判どおりだ!と感じられれば最高なのだ。ふらりと出かけ「勘」に頼って店に入ることなど、彼らにとってはとんでもないリスクらしい。

インターネットの普及にともない、世間に飛び交う情報量は飛躍的に増大した。その中から必要な情報を得るために、検索エンジンは今や生活必需品となっている。実際に現場に行って良いものを探すためには、良し悪しを見抜く力が必要だが、検索エンジンを用いた情報収集ではそうした能力は必要ない。検索のスキルが高い人、つまり辞書を引くのが早い人ほど短時間で目的の情報を探し出すことができる。ワインのおいしいレストランを見つけるのに、ワインの味がわからなくても良いのである。しかし検索される側も、検索に引っかかりやすくなるようにあの手この手を使って工夫している。本当においしいワインを提供するかどうかは二の次なのだ。結局、検索した本人は豊富な情報を駆使してワインのおいしいレストランを見つけ出したかのように錯覚しているが、実は非常に限られた情報に誘導され、選ばされているだけなのである。

情報への依存は、何も個人レベルのことではない。現在、あらゆる業界でマーケットリサーチを行い消費者のニーズを探っている。しかし、最近はヒット商品が出てもすぐに飽きられてしまうという声をよく耳にする。一方で1950年代のデザインがもてはやされているという。当時はマーケットリサーチなど無縁で、企業は知恵を絞って自らのこだわりを製品にぶつけていた。もちろん、思い入れが空振りし、「はずれ」に終わった例も多いだろう。しかし当時の商品に込められた作る側の思いの強さは、今の商品には決して求められない魅力となっている。情報に頼る現代の企業は消費者の飽きやすさを嘆く前に、自分たちの商品に、はたしてどれだけ思いを込めているか反省すべきではないだろうか。

情報への依存度が高まると、情報が作り上げた社会を次第に本物の社会であるかのように思い込むようになる。世界各地で起こっている温暖化による砂漠化も、内戦による苦しみも、実際にそこに行ったことがないのに知っていると錯覚する。今、世界中の人々が、そうしたバーチャルな社会に住むようになっているのである。ゲーム依存の人が現実とゲームの世界を混同するように、バーチャルな社会では自らの能力を見誤りやすい。どこかの大統領が、誤った情報におどらされ、まるでゲームのように軽率に他国に攻め入ったのも、またマネーゲームが泥沼のようなサブプライムローン問題を引き起こしているのも、社会のバーチャル化を象徴しているように思える。情報は安全を約束する保険のように思われてきたが、情報への過剰な依存は逆に世界を不安に陥れているのである。

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