学歴社会

最近、ゆとり教育の反動で、高校も急速に受験教育に舵を切り始めている。だからと言って、都立高校に通う長女の話では、大学に行ってからのことや、就職を考慮してどの学部を選択すればよいかというような話は、やはりほとんどないと言う。教師たちの目は受験までで止まっていて、その先を見る余裕などないのだ。

かつて、学歴偏重が学生に強いる過酷な受験勉強を緩和しようと、高校入試に学校群制度が導入されたり、ゆとり教育が試みられてきたりしたが、結局、変わったのは高校の偏差値地図くらいのもので、相変わらず東大の威光が衰える様子はない。高校入試や小中学校教育をいくらいじっても、最後に控える大学入試がそのままでは何も変わるはずがない。そもそも国には学歴社会を本気で変えようとする気などないのである。

大学入試は、学歴社会を支えるために入念に準備された制度である。全国の生徒を一つの基準で判定する制度は他に類を見ない。全員が参加することは、一見公平に見えるが、そこで下される判定は、受験する本人に対しても、世間の眼に対しても、否が応でも序列の意識を刻み込む。小学校から高校まで、毎日のように勉強しろ!勉強しろ!と言われ続けたのも、ひとえに最後に入試が控えているからなのだ。

勉強ができる人を「頭が良い」と言う。そして本人も自分は頭が良いとか悪いとか思い込んでしまう。頭の良し悪しは学校の勉強だけで決まるわけではないのに、知らぬ間に勉強ができない奴は劣等生だとレッテルを貼られてしまうのである。学校教育の現場では入試と呼応して、子供の心に着々と学歴意識を植え付けているのである。

美術や体育などの教科は、英語や数学のような受験科目に比べて一段下に見られる傾向がある。これは、それらの教科が入試に組み込まれていないからである。実生活では、芸術鑑賞や健康の重要性は、英語や数学より劣るとは思えないが、記憶力と理解力を主に評価する大学入試には美術や体育はなじまない。一旦、受験科目からはずされてしまうと、そうした科目は無言のうちに差別され、軽視されてしまうのだ。

一旦、学歴社会ができると、親は子供を受験勉強に駆り立て、その子供が受験によって序列化されることによりますます学歴信仰が強まるというスパイラルが出来上がる。こうして学歴社会はますますゆるぎないものとなっていくのである。

学歴社会が生まれる背景には、権威に弱い日本人の国民性が透けて見える。自分で価値判断ができないから、お上が決めた価値観に従うのである。こうして見ると現代の学歴社会は、意外にも戦前の軍国主義教育の時代と、さほど変わっていないのかもしれない。

ゆとり教育が挫折し、再び復活の兆しが見える受験偏重教育。結局のところ、学歴社会を抜け出せないのは、単に教育制度の問題ではなく、東大ブランド以上の価値観を見出せない日本の社会の貧しさを象徴しているのではないだろうか。

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