父のテープ

 先日、荷物を整理していたら、父の声が録音されたカセットテープが出て来た。僕が高校3年の秋、当時46歳だった父が担任の先生との進路面談に臨んだときのものだ。

 録音された直後、冒頭の数分間だけ聞いてやめたのを覚えている。通して聞いたのは今回が初めてだ。しかし、すでに34年の歳月が流れているにもかかわらず、改めて極度の絶望感に捉えられ、1週間ほど抜け出すことができなかった。

 当時の僕は父に対して全く拒絶状態で、まともな会話は成り立たなかった。そんな父が担任の先生と勝手な話をし、それを元に説教されるのは想像するだけでも耐えられなかった。当時の成績では良い話が出るはずもなかった。この録音は、そうした状況で僕から父に頼んだものだった。

 話題の中心は成績と進路のことである。冒頭から、出来の悪い息子の成績について、担任からいかに深刻な状況であるかと切り出され、ひたすら恐縮する父の姿に、こちらも思わず赤面し額に汗がにじんでくる。父には、多少成績が悪くとも受験校でもあるし、何とかなるのではないかという期待があったのだとおもう。しかし、そんな楽観はたちまち吹き飛ばされてしまったのだ。しかも、勉強をやらないというならまだしも、「本人はまじめにやっているようなのに、なぜこんな成績なんですかね」と、先生も半ばあきらめを諭すような口調なのだ。

 この面談を待つまでもなく、僕には自分が置かれている状況が良くわかっていたし、その原因、つまり自分の成績がなぜ上がらないのかもある程度はわかっていたのである。しかし、それを解決する手段となると自信がなかった。当時、僕が望んでいたのは、そうした自分の状況を冷静に判断し、的確な助言を与えてくれることだった。しかし、面談は出口がないまま、僕からすれば全く的外れな議論に終始した。何とか体勢を立て直すヒントを期待していた僕の期待は完全に裏切られたのである。当時、このテープを最後まで聞くことなど到底不可能だったのだ。

 その後、僕は浪人し、自分のやり方でゼロから勉強しなおした。もちろん思い通りに行ったわけではない。しかし、自分だけの力でやるだけやったことが何よりも大切だった。それは確かにその後の人生で大きな自信となったのだ。

それにしても、今回改めてテープを聴いて感じたあの絶望感は何なのだろうか。大学以降も確かに僕の人生は平穏ではなかった。しかし、自分で撒いた種は自分で刈り取ってきたつもりだった。にもかかわらず僕の心には未だに強烈なコンプレックスが染み付いているのである。恐らく僕の生き方には何かまだ肝心なものが欠けているのだ。

 この録音の後、父は5年を待たずにこの世を去り、僕が父に対して心を開く機会はとうとうなかった。しかし、今や同じく高校生の親となった僕には、このテープから息子への愛情とそれゆえに翻弄される父親の気持ちを汲み取ることができる。父に対するコンプレックスからは少しずつ開放されつつあるようだ。

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