村上春樹の世界

ベッドに横になり、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいるとき、「これは作り話なんだ」と言い聞かせつつ、同時に「だが、人はいつかは死ぬ」と呟いている自分に気がついた。村上春樹の世界は、一見、非現実的見えるが、「死」を連想してみるとそのリアルさが浮かび上がってくる。死は誰にでも訪れる現実なのだ。

世の中、わかりやすい話が通りやすい。犯罪者を善悪だけで判断するのもその典型だ。殺人者がいかに悪い人間であるかを暴き立てれば、世間はすぐに受け入れる。しかし、人の心はそう単純ではない。そうした態度は、人間の本質を隠してしまう。しかし、へたに口を開けば誤解されかねない。わかりやすい話を恐れる村上氏にとって、多くの紙面を費やせる小説は、自らを表現するための唯一の手段なのだ。

村上氏の小説の主人公は共通して何か悩みを抱えている。うまく行っていると思っていた妻が突然家を出て行く。誠実に生きてきたつもりなのに、知らぬ間に人を傷つけ、遠ざけてしまう。自分には何かが欠けていると自覚しているが、それが何なのかわからない。しかし、彼は自分を変えるつもりはない。これまで自分に正直に生きてきたのに、それを変える理由がないのだ。

こうした主人公は皆、共通したライフスタイルを持っている。きれいに片付けられた部屋。きちんとアイロンのかかったシャツ。ビールやウイスキーには有り合わせの材料で手早くつまみを用意する。音楽の趣味は非常に広く、常にプールやジムで体の鍛錬を怠らない。しかし、これらは何も作者が自らの趣味を自慢しようとしているわけではない。こうした生活は、来るべき試練にそなえて、主人公が意識を研ぎ澄ませ自己を確認するために必要不可欠なものなのだ。

戦闘準備を整えて彼はじっと待つ。だが、彼には策は何もない。彼にできるのは偶然に身をまかせることだけなのだ。解決策は見えぬまま、さまざまな出来事が彼を翻弄し追い詰める。だが、結末に至っても、結局、明確な答は出てこない。彼の苦労は徒労に終わったのであろうか。そうではない。何かが変わった。彼は確かに何かを乗り越えたのである。

村上氏の作品を読んで行くうちに、日頃から「何とかしなければ」と思っていた無数の悩みから自分が少し開放されていることに気がついた。生きていれば判断に苦しむことが無数に起こる。生きるということは次々と葛藤を抱えていくことなのだ。そうした中ですばやく決断できる人が優秀だと称えられる。しかし、社会はそれを求めても、人間にとってそれが理にかなっているとは限らない。恐らく僕は、判断できないことは判断しなくてよいということに無意識のうちに気がついたのだ。

今や世界中で広く受け入れられている村上文学だが、これまで多くの誤解にさらされて来たに違いない。しかし、誤解を恐れず挑戦し続けたからこそ、今や同じ誤解に悩む多くの現代人が彼の世界に救われているのだ。村上氏の勇気を称えたい。

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