生き方さがし

 最近テレビで、世界に飛び出して活躍する日本人や何か手に職をつけた人を特集した番組が目につく。仏像の番組も多いし、書店には宗教本のコーナーも目立つ。どうやら、世代によらず、多くの人が生き方を求めてさまよっているようだ。

現代は科学の進歩により経済が飛躍的に発展した時代だ。かつて人々に大きな影響力を持っていた宗教や道徳といったものは力を失い、世界中が経済を中心に動くようになった。確かにこうした経済的な発展はかつての貧困や病気の恐怖から人類を開放し、人々の暮らしを豊かにしたかもしれない。しかし、経済が発展すればするほど、その代償を払わなければならない。競争だ。そして競争を勝ち抜くためには、より経済に力を入れざるを得ない。こうして気がつけば人類は経済に支配されてしまったのである。

ところが日本のような先進国は、中国やインドなどの新興国の台頭により、このところ競争力の低下が著しい。経済成長に陰りが見え始めたとき、それまでの競争に対して疑問が芽生えた。だが、それに代わる確固とした価値観もない。経済が全てではないと口では言ってきたが、まじめには考えていなかった。多くの人が生き方を見失い、さまよい始めたのにはそうした背景がある。

経済的な状況が引き金となっているとはいえ、経済的な弱者だけが生き方に悩んでいるわけではない。かつてのオウム真理教事件では、その異様さ、不気味さが世間を戸惑わせ、犯人たちは厳しく糾弾された。しかし、オウムに入信した人たちは、自らの生き方を求めて行動を起した人たちであり、何もしない人に比べれば生きることに真剣だったとも言えるのである。しかし、彼らは社会から一方的に拒絶され、単なるカルトの脅威として片付けられてしまった。だが、今日の状況を見るにつけ、こうした対応は実は社会の未熟さの表れではなかったか。今、多くの人が生き方を見失うことになった本質的な問題は、経済的な発展に比べて未成熟なこの社会に隠されているように思えるのである。

 もちろん、生き方に対して悩むのは今に始まったことではない。生きる意味についてはあらゆる宗教家も哲学者も昔から悩んできた。それは人間にとって根源的な悩みなのだ。しかし、今、生き方に悩んでいる人々の状況は少し異なっている。かつての宗教や哲学は、少なくとも人々に自らと向き合い生き方を見つめる「場」を与えてくれたが、今の人たちにはそれがないのだ。人々はどうしてよいかわからぬまま、漠然とした不安に苛まれているのである。

考えようによっては、生き方に悩むなどということは人間だけに与えられた特権である。経済成長に陰りが見えるにせよ、食べるものもない貧しい時代も、悩む間もなく働き続けた高度成長時代も終わり、生きる意味について悩むことができる時代がやって来たのである。生き方を見つけるために生きている、そう自覚できれば、また悩み方も見えてくるのではないだろうか。

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