ゼノンの矢

ゼノンは今から2500年ほど前、ギリシャの植民地であった南イタリアのエレアで活躍した哲学者である。彼はいくつかのパラドックスを考え出し、若きソクラテスをはじめ当時の人々を大いに混乱させた。

いくつかあるゼノンのパラドックスの一つに、「飛ぶ矢は動けない」というものがある。空中を飛ぶ矢は、どの瞬間にも一つの場所に静止している。従って矢は動くことができないというものだ。矢は実際に飛んでいるのだから、何をバカなことを言っているのだと思う人も多いだろう。しかし、このパラドックスは永年に渡って多くの人を悩ませ、現代物理学に対しても時間と空間の本質について問いを投げかける難問なのである。

 物理になじみのある人なら、時間を変数として位置が決まる関数によって矢の運動が記述できることを知っている。時間を連続的に変化させていけば、矢の描く軌道を得ることができる。さらに、ある時刻で矢の位置を時間で微分すれば速度が求められる。ニュートンの考えたこのモデルによって運動の問題は完全に解けたと思われた。

ゼノンの矢はある瞬間に静止していたが、このモデルでは速度を持っている。では矢は動けるようになったのだろうか。瞬間の速度というのは、動いた距離を時間で割り、その時間を無限にゼロに近づける操作で得られたものである。つまりそもそも矢が連続的に動くイメージが前提となっている。このモデルは、あくまでも動く矢を数学的に説明するために考え出されたものであって、矢が動くことを証明するものではないのだ。

飛ぶ矢を物理的に観測する場合、矢が「いつ」「どこに」あるかを測定する必要がある。だが、一瞬の切れ目もなく連続的に測定することは不可能である。測定は常に不連続なのだ。人類は連続的な運動を捉えたことなど一度もないのである。にもかかわらず、一旦、ニュートンが連続的な関数で矢の運動を表すと、いつしか誰もそれを疑わなくなった。客観的な観測に基づいているはずの物理学も、知らぬ間に主観が忍び込んでいるのだ。

ニュートンから200年あまり経ち、原子レベルのミクロの世界では彼のモデルは破綻する。代わりに唱えられた量子力学では、連続的な軌道というものを想像してはならないということになった。原子レベルのミクロな矢は、軌道を描くことが許されないのだ。では矢はどのように動くのだろうか。ある量子状態から別の量子状態に突如ジャンプするのだろうか。一体、どうやって...。ゼノンが聞いたら、とても納得するとは思えない。

かつて哲学者は、自然の中に法則性を見出せば、その本質、その意味についてどこまでも考えようとした。しかし、客観的な事実を重視する科学は、法則の意味については踏み込まないよう注意した。確かにそうした科学の方法論は画期的で、人類の飛躍的な進歩をもたらした。しかしその成功は、次第に人類から本質を追及する力を奪い、気がつけば、現代のような結果オーライの薄っぺらな社会をつくり上げてしまったのではないか。

空中に静止するゼノンの矢を目にしても、今や気に留める人は誰もいない。

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