意思を育むものとしての生命

 生物を特徴づけるものに合目的性というものがある。ヒラメの表面が海底の砂地とそっくりの模様に変化して自分の身を守ったり、楓の種がヘリコプターのように宙を舞ってできるだけ遠くまで自分を運ぶ巧妙な仕組みを見ると、あたかもそうした生物達は、生存に有利になるように自らの「意思」でそうした機能を身につけたように見える。

 しかし、脳のない楓に果たして「意思」などあるだろうか。もし「意思」があったとしても、自分の体を改造することなどできるのだろうか。もとより進化論は、そうした「意思」を真っ向から否定する。あくまでも突然変異によりある機能を備えるに至った生物が、たまたま他の生物に比べて生存に有利であったがために生き残ったというのが進化論の主張である。現代の分子生物学も進化論の主張を裏付ける。遺伝やたんぱく質合成の仕組みなど、細胞内で起こるさまざまな現象はすべて物理化学的に説明でき、そこに何か物理法則を超えた「意志」のようなものが介在する証拠も必要性も見つかっていないのだ。

 だが、このような進化論や分子生物学の考え方を延長していくと、人間の行動にも「意思」が入り込む余地はないということになる。シェイクスピアがマクベスを書いたのも、アインシュタインが相対性理論を創り出したのも、単なる物理法則の結果ということになる。もちろん、脳の発達した人間の行動は複雑だ。だが、脳といえども細胞からなり、その働きは物理的な原理に従っているはずであり、そこに「意思」が介入する余地はない。人の行動が「意思」によるものであるかのように見えるのは、それを見た人がそう感じるからであって、「意思」という何か実体があるわけではない。人間の「意思」も楓の「意思」も、そういう意味では変わりはないのだ。

 では、自分の「意思」はどこから来るのだろうか。自分はさまざまなことを「意思」によって決めている。時には不屈の努力を続け、苦渋の決断をしているではないか。しかし、客観的に見れば、そうしたことも脳細胞の働きによるということになり、「意思」の出番はない。自分の「意思」を客観的に導き出すことはできないのだ。客観的に導き出すということは原因と結果の問題になることを意味し、そこに「意思」が入り込む場所はないのである。従って、自分という生命がある限り自分に「意思」があると無条件に認めるしかない。

 人は生命に対して特別の思いを持っている。「生きている」という言葉には、科学を超えたものが感じられる。それどころか、科学と相反する響きすらある。それは、「生きている」ということが「意思」と密接に結びつき、生命を単なる客観的な対象から区別しているからに他ならない。

 近年、分子生物学の進歩に伴い、生命の研究はますます分析的になりつつある。しかし、「意思」を育むことが生命の本質であるとすれば、ますますその本質を遠ざけることになる。分析全盛の今こそ、「意思」を見直すことが求められているのではないだろうか。

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