時の流れが生む出会い

先日、高校の同窓会があり、35年ぶりにある友人と再会した。同窓会だからそうしたことは珍しくないが、彼とは幼稚園から高校まで一緒だったという特別の事情があった。

中学の頃まで、2人は毎日夢中に遊び、しばしばバカもやった。常にライバルとして意識し合っていて、互いに非常に身近な存在だった。しかし、それは当時まだ世間が狭かったからで、高校に入るともともと考え方の違うわれわれの関係は急速に疎遠になった。お互い、自分のことで精一杯だった。卒業後、彼は医学部に、僕は僕で物理の道に、それぞれ目指す道に進んだが、かつての関係が戻ることはなく、それきりになってしまっていた。

35年も経つとすっかり見掛けが変わってしまう人も多い。彼の場合も、髪の毛がなくなり僧侶のような風格が備わっていた。しかし、それがまた彼らしく一目見るなり彼だとわかった。彼も、親しげに話しかけた僕の白髪頭に一瞬戸惑った様子を見せたが、ちらりと名札を見るなりすぐに納得したようだった。

さらに彼独特のこだわりのある話しぶりに、たちまちかつての印象が蘇り、まるで2-3年ぶりに会ったかのような錯覚に陥った。が、同時に僕はある種の驚きに打たれていた。「彼はこういう人間になったのだ」と。

彼は非常に意志の強い人間で、一度やると決めたら決して投げ出すことはなかった。かつて僕はそうした彼に感服し、とてもかなわないと感じていた。その意志を貫き医師となったわけだが、その後、思わぬ波乱が待っていた。大学で教授と大喧嘩をし、そこを追いやられてしまったのだ。自ら課した困難に立ち向かう際には、道を切り開く大きな武器となった彼の強い意志だったが、自らの主義に反するものが立ちはだかった際には、キャリアを棒に振ってでもそれに背を向ける力として働いたのだ。

 人生に挫折はつきものだ。自分の主義に反することはできない。自分を偽って生きることもしたくない。だが、壁にぶつかったとき、我々は何らかの選択をしなければならない。自分を貫いたからと言って納得できる道が開けるとは限らない。時には大きな犠牲を伴うこともある。しかし、そういう時こそ、その人の本質が現れるのではないだろうか。

挫折と言うのは、成功への道筋が頓挫することではない。自分のやりたいことをやる際にかならずぶつかる壁のことなのだ。その壁は外的なものばかりではない。自分の内にも容易に乗り越えられない壁がある。しかし、それは成長に不可欠な壁なのだ。自分の本質を理解し、自分が本当の自分になるために何度も潜り抜けなければならない試練なのである。

 中学の頃、僕達はベートーヴェンの音楽に心酔していた。その圧倒的な感動は、今でもはち切れんばかりに僕の心に響いている。彼の目も溶岩のように生きている自分の中の感動を語っていた。時を経ての思わぬ再会は、2人の体内に今だに渦巻く熱気を確認する機会となった。これまでの人生を糧に、本当の自分を見つける旅はこれからだ。

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