モーツァルトの魅力(1) 「即興性」

先日、旧友と話をしている時、ふと「モーツァルトとの出会いは僕の人生にとって最大の事件だった」という話を始めた。普段はそんな話をしても誰も乗ってこないのだが、彼は関心は予想外に強かった。

中学の頃、僕は突如としてクラシック音楽を聴き始めたのだが、当時、その友人は僕がなぜそんなに夢中になっているのか不思議でたまらなかったらしい。さらにそういう僕に対して一種の羨望すら感じていたと言うのだ。そして、それから40年間、彼にとってクラシック音楽に情熱を燃やす僕の存在は大きな謎だったのである。

彼の疑問はシンプルだった。モーツァルトのどこがそれほど面白いのかということである。かつては自分の音楽の趣味について、誰かれかまわず熱く語ったものだが、そうしたことがなくなって久しい。その機会が思わぬ形で再び巡ってきたのである。彼との間に深い縁を感じつつ、同時に熱い情熱が蘇って来た。

これまでも、何度かモーツァルトについて書いたことがある。しかし、音楽の魅力を言葉で語ることは難しく、何かのエピソードを交えた解説のような文章になりがちだった。友人はそんな通り一遍の説明ではなく、僕自身の生の思いを聞きたがった。それならばと言うことで、無理を承知で独断と偏見に満ちたモーツァルト論に挑んでみることにした。

モーツァルト好きにとっては異論がないと思うが、彼の音楽の最大の特徴はその「即興性」にある。モーツァルトといえば淀みなく耳に心地良い音楽というイメージが強い。だが、実際には彼の音楽は飛躍に満ち、予想できない展開の連続なのだ。天気のいい日にピクニックにでも来ているようなうららかな主題で始まったかと思うと、なんの前触れもなく、突如、深刻なメロディーに変わっているといった具合だ。

だが、そうした飛躍が不自然な感じをいだかせることは決してない。聴く者の感情は確かにその突然の変化に反応しているのだが、それを当たり前のこととして受け入れている。急な変化があったことにすら気がつかない。気まぐれな展開がまるでマジックのように自然につながって行くのだ。恐らく人間の気持ちは本来気まぐれなものだと言うことだろう。モーツァルトはそうした人の心の本質を知っていた。正確に言うならば、彼は音楽によってなら人の心を自在に表現する術を知っていたのである。

気まぐれというのは、決してでたらめということではない。そこには感情を支配するある種の必然が貫いている。苦しみがあればそれを乗り越えようとする。喜びは周りの人への愛となることで成就する。また、不幸を受け入れることで人の心は澄わたっていく。その息もつかぬ変化の連続が、聴く者に鳥肌の立つような感動をもたらすのだ。

だが、彼の即興は即興では終わるわけではない。即興的な展開は次第に壮大なドラマに発展していく。そしてそれが堅牢で完璧な姿を現した時、われわれは初めてその即興の意味を知ることになるのである。

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