柔軟な発想への挑戦

 毎年、正月の休みが終わり、明日から仕事かと思うと気が重いものだが、今年はちょっと違っている。何かワクワクしている自分がいるのだ。

 昨年はピアノの弾き方で画期的な進展があった。今からちょうど1年ほど前、ずっと超えられなかった壁をひょっとしたら超えられるのではないかと直感的に思った。その直感を信じてあれこれ思い切った工夫をしてみるうちに急に世界が開けてきたのだ。

 そうしたことは他のことでも起きるかもしれない。永年、人生で難しさを感じてきたことは他にもいろいろある。それが次々と解決していけばこれほど痛快なことはない。

 もっとも自分では大発見だと興奮しているが、ある程度ピアノが弾ける人にとっては僕の「発見」など当たり前のことで、ことさら騒ぎたてるようなことではない。また、ピアノでは生徒の欠点をよく理解した先生の手厚い指導があったわけだが、他のことではそうはいかない。果たしてそんなうまい話が転がっているものだろうか。

 僕はもともとあまり理詰めで考えるタイプではない。バカや冗談を言っているうちに様々な考えが浮かんで来る方だ。ただ、一旦あることにこだわり始めるとそこから抜け出せなくなる傾向がある。妥協せずに考えを巡らし、何とか弁証法的な解決を見つけ出そうとする。良かれと思ってやっているので、そのこだわりを捨てるのには強い抵抗がある。だが、そのこだわりこそが自分から発想の柔軟性を奪ってきたことに、最近ようやく気がついたのだ。

 「柔軟な発想」とはしばしば使われるフレイズだが、実際にそれを行うのは至難の技だ。「押してダメなら引いてみな」という程度で問題が解決すれば苦労しない。いくら発想を変えようとしても、所詮、小さなコップの中でぐるぐる回っているだけに終わる場合がほとんどなのだ。だが、ピアノの事件は僕の目から鱗を落とし、自分が陥っていた罠から抜け出すためのヒントを与えてくれた。柔軟な発想をする際に何が重要なのかを指し示してくれたような気がするのだ。

 まずは手始めに、これまで自分が書けなかったものが果たして書けるかどうか、昨年末からいろいろ試してみている。すると不思議なことに、突然、文体というものの重要性をはっきり感じるようになった。それまで文体というのは文章を書いた結果として表れるものだと思っていたが、実は文章を書く際に自分の中から発想を引き出してくる梃子のようなものであることに気がついたのだ。文章における文体は、まさにピアノを弾く際の手首の使い方なのである。

 新たなアプローチはまだ始まったばかりで、そこから何が出てくるかは未知数だ。だが、結果にはあまりこだわりたくない。結果にこだわることは、柔軟な発想の妨げにこそなれ助けにはならない。最近、そうした実感がある。

 やり方を変えれば、一時的にうまくいかなくなる場合もある。それはピアノで実証済みだ。だが、それを恐れる必要はない。今の僕に失うものは何もないのだから。

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