至福のワイン

 今年の春、高校の同級生6人で、同じく同級生でソムリエのN君が経営するフレンチレストランLMPを訪れた。

 もし知らなければ、看板もなくマンションの地下にひっそり潜むその店に気がつく人はいないだろう。入り口の脇に植えられているのが葡萄の樹で、しかもロマネコンティからの株分けだと気づく人も当然いないだろう。だが、かの小澤征爾氏もお忍びで訪れたというこの店は、本気でワインを楽しみたいと思っている人にとって、まさに自分だけのものにしておきたい隠れ家的な存在なのだ。

 N君はワインの選定や料理との相性、注ぎ方に至るまで細心の注意を払う。グラスを洗う際にも飲むワインを使う徹底ぶりだ。そこからは個々のワインの個性を余すところなく引き出し、その実力を残らず伝えたいという熱い情熱が伝わってくる。

 まずはシャンパンが宴の始まりを告げる。アミューズ、サラダには滋味深いアルザスのリースニング(グラン・クリュ)、魚料理に合わせてはコクと爽やかさを併せ持つセミヨン&ソヴィニヨン・ブランが供される。ハンガリーの国宝豚を使ったメインには最上質のシャルドネ。さらに特別に2種類の赤ワインをその場でブレンドしてサービスしてくれた。いずれも従来の自分の認識をはるかに超えるクオリティーで目が醒める思いだった。

 食事をしながら、昨年の秋、名古屋で開かれた「武将が愛した能と酒の会」の話になった。N君はその席で、織田信長が当時飲んでいたワインがどんなものだったのかを推し量り振る舞ったのだ。大河ドラマなどで信長がワインを飲んでいるシーンはよく見かけるが、一体どのような味だったのかは興味津々だった。だが、N君の答えは予想外のものだった。恐らくそれは半ば腐っていただろうというのだ。確かに、防腐剤も瓶詰め技術もなかった時代に、樽詰めのまま1年も2年もかけ、しかも熱帯を経由してはるばるヨーロッパから運んできたのでは、すっかり味が変わってしまっていても不思議はない。

 そもそもワインというお酒は長期保存するために作られたものではない、と彼は続ける。瓶詰技術と安定した温度管理の元で初めて長期熟成が可能になったのであり、産地の近郊で比較的若いうちに飲むのが古代から続くワインの飲み方だったのである。もちろん寝かせることで若いうちには想像できない味が生まれることは確かだが、それにばかりこだわると本来のワインの味わいを見失いかねないということだ。

 そうした話を聞きながら改めて彼の供してくれたワインのグラスを傾ける。すると太陽が生み出した糖や酸、土壌から吸い上げられたさまざまなミネラル分が絡み合い渾然一体となって喉越しに奔流のように流れ込んで来る。ボトルの中で静かに時を待っていたワインの生命がN君の手によって見事に甦らされたかのようだった。

 塩漬けした桜の花びらを散らしたアイスクリームをデザートワインと共に楽しみつつ、これまでとは全く違うワインの新たな世界が目の前に広がっているのを感じていた。

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