死に方というテーマ

先日、樹木希林さんがなくなった。全身に癌が転移している状態で淡々と生きる姿には、死を前にして研ぎ澄まされていく彼女の生を強く感じさせられた。

生前、希林さんは「死を覚悟したらスーッと楽になった」と言っていた。これはまさに釈迦の「執着するな」の実践ではないか。誰もが死から逃げようとする。だが、逃げればどうなるかを希林さんはよくわかっていたのだろう。

とはいえ、死を覚悟することは簡単なことではない。今自分が癌を宣告されたらどういう気分だろうかと考えてみれば容易に想像がつくが、再発と死への恐怖から癌患者のほとんどがうつ病になるという。ほとんどの人が死を受け入れる術を持たないのである。

希林さんは、死ぬ準備をする時間があるので癌も悪くないと言っていた。冗談にも聞こえるが、そうではないだろう。歳を取ると体力も頭脳も衰えてくる。その結果、体調は悪くなり時には耐えられない痛みと戦わなければならなくなる。それまで当たり前にできたことが一つまた一つとできなくなっていくのも大きな精神的苦痛だ。そうなる前に自分の意思で幕引きできることを希林さんは心からありがたいと思っていたに違いない。

今年3月に骨折した僕の母が、先日、「寝たきりになって何にもできんようになったら、死んだほうがましだな」とボソリと言った。思うように体が動かず、何をやってもすぐに疲れてしまう。横になっていても辛い。好きだった読書も全く頭に入らないようになった。今はまだ少しは回復に望みを持っているが、いよいよ寝たきりになったらそれも諦めるしかないと自分に言い聞かせているのかもしれない。

母の母は、死ぬ数年前から「私みたいなもんは、もう死なないかんのだわ」と口癖のように言うようになっていた。そして、ある日、食事も水も拒絶し自ら命を絶った。その祖母の覚悟は側で見守るわれわれに何とも言えない感動を残した。母は、時が来たら自分も祖母のように死のうと思っているのかもしれない。

いくら素晴らしい人生でも最後に苦しい思いをしなければならないとはなんとも理不尽だ。生命が危険な状態になると生体は全力でそれを回避しようとし、それが苦しみをともなうのだろう。とはいえ、もし死が心地よいものなら人はすぐに自ら進んで死んでしまうに違いない。苦しみは生物が簡単に死なないために不可欠な仕組みなのだ。

そうした苦しみをへて、とうとう生命の維持が不可能になった時、人は死を迎える。だが、現代は医療が進歩し簡単には死ななくなっている。自力では生きられなくなってからも長い間生き続けることになる。将来、医療の進歩により、寝たきりで意識もない状態でも何十年も生きられるようになり、人口の大半をそうした人が占める世の中になるかもしれない。そうなっても、医療はけっして生命の維持を放棄するわけにはいかない。

われわれは、今、納得のいく死に方を見つけるべく模索を迫られているのではないだろうか。生き方だけでなく死に方も人生の大きなテーマになりつつある。

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