静かに進む発酵

今年ももう直ぐ終わりだが、この1年を振り返ると写真において意外な進展があったという思いが強い。1月頃から久しぶりに街に出て本格的に撮影を再開した。以前、撮っていた頃から実に15年以上の歳月が流れていた。

かつて、どういう写真が撮りたいのかわからぬまま街に繰り出していた。そもそもなぜ写真なのか。恐らく当時の自分には他に表現手段がなかったのだ。自分が何を目指しているのか何を得たいのかわからぬまま、唯一手応えを感じられたのが写真だったのである。

だが、それは労力の割には得るものの少ない挑戦でもあった。撮影にも現像にも多大な時間と体力を使うが、満足のいく写真は滅多に撮れない。こんなことをやっていて何か道が拓けてくるのだろうかという不安ばかりが募った。

その後、池部さんとの出会いがあり、僕は文章を書くことに新たな表現の場を見出すことになる。それとともに、写真からは次第に遠ざかって行ったのだ。

だが、かつて撮った写真は、その後、出版した旅行記やエッセイ集にも使われるなど、僕の傍らには常に写真の存在があったのである。

そして、7年ほど前から3度写真展を開く機会に恵まれ、それがきっかけでかつての写真と10年以上の時を経て正面から向き合うことになった。すると自分がずいぶん写真がわかるようになっていることに気がついたのだ。かつては自分の写真ですら、どの写真がいいのか自信が持てなかったが、それが一目瞭然なのである。かつてそれができていればもっと上達したに違いない。無念の思いが沸き起こると同時に、遮二無二撮っていた時期があったからこそ、今、それに気づくことができるようになったのだと納得もできた。

撮影を再開すると、当初、結構撮れるという手応えがあったが、この1年に撮った写真を並べてみると明らかに最近撮った写真の方が良い。高機能のデジカメの使い方に慣れるにつれて撮影の幅が徐々に広がったこともあるが、やはり自分が撮りたい写真をはっきり意識することで腕が上がっているのだ。

インスタグラムへの投稿も大きい。作品を外に向かって発信することで、自分の表現したいものをより明確に意識することができるからだ。

かつての苦労が今になって生きていると実感できることほど嬉しいことはない。同様の体験はピアノにおいてもあったが、暗中模索の時期というのはけっして無駄ではない。目先の結果に一喜一憂せず、自分の中で静かに発酵が進むのを待つのも人生では大切なことのようである。

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