少年パワー

故郷を離れて何十年も経つと、かつての小学校の友人に久しぶりに会ってもすぐに打ち解けるのは難しい。高校や大学の友人とはすぐに馴染めるが、それはそのころすでにある程度大人だったからだ。かつて一緒に遊んだとはいえ子供の興味はまちまちで、ある場面のことを興奮して話しかけられてもこちらは全く身に覚えがない。結局、最近の話題になってしまう。そんなわけでかつては参加していた同窓会もこのところ足が遠のいていた。

ところが、先日、ずっと会うことのなかった小学校の友人から、突然、メールが届いた。彼はかつて最も親しく、最もエキセントリックな友達だったが、高校が別々になったことで徐々に疎遠になってしまい、僕が大学でこちらに来てからは1度も会っていなかった。しかし、世間でしばしば使われる個性とか独創性とか言うことばを僕があまり信じないのは、かつて彼と夢中になってやった遊びに溢れていた創造性に比べると、大抵の場合、たいしたものではないからなのだ。彼はそれほど特別の友人だった。

それにしても彼と遊んでいたのは40年も前のことだ。話が噛み合うかどうか自信がなかった。だか、すぐにそれは杞憂だとわかった。お互いの記憶は驚くほど鮮明に当時の状況を再現して行った。とても何十年も経っているとは思えない。永い間、魔法の箱に封印されていた膨大な記憶が、突然、眠りから覚め溢れ出したのである。

他人が自分のことをどう思っているかということは意外にわからないもので、かつて彼の目に映っていた僕の姿が明らかになっていくのは実に新鮮だった。永年とてもかなわないと思っていた彼が、意外にもこちらに対して同じような思いを抱いていたこともはじめて知った。当時はお互いに突っ張っていたのだ。

友は自分を写す最高の鏡でもある。彼の心の中にかつての自分が何十年も生き続けていたことを知り、自分という人間が新たな価値を持ったように感じられた。だが一方で、今の自分はその鏡にどのように写るのだろうか。これまで自分は成長し続けてきたという自負があった。しかし、かつての自分は今よりずっと個性に溢れていたのではないか。

子供から大人になり社会に適合していく過程で、誰もが受験や就職、結婚と言ったさまざまなハードルを乗り越えていかなければならない。そうした試練を克服し、新たな自己を確立していくことが人生の目的だとも言える。しかし、そうしたハードルを越える過程で子供のころの個性は徐々に角を削り取られて行くのではないだろうか。社会に適合するとは、個性をも社会に合わせて仕立て直すことでもあるのだ。

僕は永年自分の個性を発揮しようと努力してきたつもりだった。しかし、結局は社会に媚びてきただけに過ぎないのではないのか。少年時代に帰ることに抵抗があるのは、当時が幼稚だからではなく、自分が知らぬ間に本来の自分を見失っているからなのだ。

友との再会は久々に少年パワーを思い出させてくれた。そろそろ原点に帰る冒険に出るべき時期に来ていたのかもしれない。

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