モーツァルトの魅力(6) 弾く楽しみ

 自分でピアノを弾く場合、モーツァルトは他の作曲家と決定的な違いがある。とにかく練習するのが楽しく、いつまで弾いても飽きない。もちろんモーツァルトが好きだということもあるが、聴いただけではそれほどでもない曲も弾いてみるとすっかり夢中になってしまうことも珍しくない。モーツァルトを弾くことは何か特別に人を惹きつける魅力があるのだ。

 このところK545のピアノソナタを練習している。この曲はモーツァルトが教え子のために作曲したもので、他のソナタに比べて明らかに技術的に抑えて書かれている。だからといって決して練習曲ではない。愛らしいメロディーの中にエッセンスが詰まっており、最小限の音で構成されたモーツァルトの小宇宙がある。しかも、教え子に対する教育者としてのモーツァルトの親心も身近に感じられるユニークな曲でもある。多くの人に親しまれてきたのは、単に技術的に取っ付き易いからだけではなく、この曲が演奏する歓びに溢れているからなのだ。

 もっとも、この曲をきれいに弾くことはそう簡単ではない。確かに速いパッセージも難しい指使いもないが、そもそも少ない音で豊かな響きを生み出すこと自体難しい。音が薄いためメロディーやアーティキュレーションのほんのわずかな不自然さも目立ち、一瞬の気の緩みも曲全体を台無しにしてしまう。しかも、モーツァルトらしく伸びやかに歌うことが求められる。恐らくプロのピアニストにとってもかなり厄介な曲に違いない。

 そんな曲だから、僕のような万年初心者にはかなりハードルが高い。情けない話だが、なかなかモーツァルトの音にならない。弾くのは楽しいが、なかなか一線を越えられず、次第に苦手意識を持つようになっていた。

 ところが最近、思わぬ進歩があった。転機になったのは、K545の前に練習していた「きらきら星変奏曲」である。この曲は子供向きのやさしい曲だと思われているが、実は技術的にもそこそこ難しく、何よりもいたるところに顔を出す不協和音がモーツァルト的な優雅な演奏の妨げとなる。まるで前衛音楽のようなシュールな響きになってしまい、軽快に転がるような演奏からは程遠い。幸い努力の甲斐あって、次第にモーツァルトらしく聴こえるようになってきた。徐々に手首の使い方がわかり余計な力が抜けてきたのだ。試しにK545を弾いてみると、一皮むけた音が響いた。やっとスタート地点に立てたのだ。

 ところで、モーツァルトの曲はいつも出だしが難しい。ソナタの場合、出だしは第一主題になるが、モーツァルトはそのメロディーに細心の注意を払っている。単に主題はその曲の顔だからという理由だけではない。主題には曲のその後の展開につながるさまざまな仕掛けが含まれているのだ。つまり単に冒頭を飾るメロディーというだけでなく、まさに曲全体を予言する主題の提示なのだ。

 もちろん曲を聴く際にも、主題とその後の展開の関係には耳を澄ませるが、ただ受動的に聴くだけでは作曲家の真の意図はなかなかつかみ切れない。一方、自分で弾く場合は、はたしてこの弾き方で良いのかどうか納得できるまで何度も弾いて自問することになる。出だしをどう弾くかでそれに続く部分の弾き方が変わってくる。出だしの弾き方がいい加減であれば、曲全体が適当な音楽になってしまうのだ。弾くことは、その曲に対する自分の解釈の表明だ。言うなれば、その曲に対してある種の責任を負うことになるのである。

 同じ曲でも演奏者によって弾き方は違ってくる。あるメロディーを悲痛な感じに弾く人もいれば、淡々と弾く人もいる。そうした表現の幅を受け入れる包容力もモーツァルトの音楽の特徴だ。だからと言って、それが音楽の完成度を落とすことはない。いや、むしろそうした包容力があるからこそ完成しているのではないだろうか。モーツァルトの音楽は、演奏抜きでは考えられない。演奏してはじめて完成する音楽なのである。

 モーツァルトにとって作曲と演奏は不可分のものだった。だから彼は、自分の音楽を演奏する者に自らの世界を共有する特権を与えてくれているのではないだろうか。

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