霊的なものと科学

 毎年夏になると、お盆にちなんで死者の霊に関連したテレビ番組を目にする。先日、NHKで放映された「シリーズ東日本大震災亡き人との再会」でも、震災で突然大切な人を失った人たちの亡き人への強い思いが引き起こすさまざまな不思議な体験が紹介された。

 幼い息子を亡くした母は、時が経っても悲嘆にくれる毎日から抜け出せずにいた。ところが、震災から2年を経たある日、息子が使っていたオートバイ型の三輪車の警笛が傍らで突如鳴り響いた。彼女は即座にそれが息子が自分に送った「近くにいるから心配しないで良いよ」というサインだとわかった。それをきっかけに彼女は息子の存在を身近に感じられるようになり、久しぶりに晴れやかな笑顔が戻ったのである。

 現代ではこうした体験は心理的なものだと片付けられるのが普通だ。あまりにも強く息子との再会を求める母の気持ちが、偶然起きたアクシデントを息子の霊と結びつけ、自らの心理に変化を引き起こしたのだ、と。だが、そうした考え方は果たして正しいのだろうか。

 現代は科学の時代だ。もともと科学は迷信などの弊害から逃れるために発達してきた。各人の思い込みを排し客観的な事実のみを信じることにより、人々を理不尽な迷信から解放し、同時に人類にかつてない繁栄をもたらしてきたのだ。その結果、霊のようなものは科学的とされ、次第に表舞台から消え、今では公に口にするのもはばかられるようになった。たとえ今のところ科学で説明できないことがあっても、それらはいつかは説明されるはずであって、下手に霊の話など持ち出せば見識が疑われかねない。

 しかし、本質的に科学では答えられない問題もある。例えば、死と意識の問題だ。死ぬと自分の意識はどうなるのか。死ぬと意識も消えるというが、そもそも自分に意識がない状態というのはどういうものなのか。脳科学は人の意識と脳の働きを対応づけられるかもしれないが、死ぬと自分の意識がどうなるかという疑問には、結局、答えられない。「我思う故に我あり」というのは科学的な答ではないのだ。

 客観的な現象についても科学で全て説明できるわけではない。生命現象を始め科学で説明できないことはいくらでもある。にもかかわらず、すべてが科学で説明できるはずだと考えることは、言わば「科学原理主義」で、現代人はそこから抜け出せなくなっている。それは実は科学的ですらない。

 もし、死者の霊に静かに耳を傾ければ何か聞こえるかもしれない。そしてそれが自分を慰めてくれるかもしれない。死者だけではない。耳を澄ませば、神も何かありがたい啓示を与えてくれるかもしれない。科学ではないから再現性は期待できない。他人に何か証拠を見せることもできないだろう。だが、そうしたことを抜きにして果たして現代人は真の安らぎが得られるのだろうか。死と正面から向き合うことができるだろうか。

 科学的でないものにどのような態度で臨むかということは、科学の時代だからこそ真剣に向き合うべきテーマではないだろうか。

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