理にかなったやり方

 しばらく前に自分のピアノの弾き方において大きな進歩があったと書いたが、その後もピアノの練習は充実している。最近は以前やったモーツァルトのソナタを引っ張り出してきて再挑戦している。もちろん、急にすらすら弾けるようになるというわけではないが、かつて力が入って凝り固まっていた演奏が徐々に矯正されていくのを感じる。今ではピアノに向かうことは、まるで心身をリラックスさせるためにヨガを始めるときの気分に近い。

 もっとも今でも困難な箇所に来ると、無意識のうちに何とか指をコントロールしようとし勝ちだ。そこをぐっと思い留まり、手首だけでなく腕から肩、そして全身の使い方を工夫することで次第にほぐれるように弾けるようになっていく。僕のピアノの練習は、力で克服しようとするかつてのやりかたから、正しい弾き方を我慢強く見つけ出す作業に180度転換したのである。

 正しい弾き方を探る試行錯誤は、同時に曲のその部分にふさわしい表現を探す作業でもある。無理な力が入っていた頃は、譜面をさらうのが精一杯で表現は二の次だった。先生に指示されても、なぜそう表現するのかピント来なかった。だが、力が抜け音の表情が豊かになると、不思議なことにそこをどう弾けば良いのかが自然にわかってくるのである。

 さらに、表現が豊かになると作曲者が意図していたものが見えてくる。モーツァルトのさりげない表現がいかに繊細で豊かな感情を含んでいたのか肌で感じ取れるようになるのだ。ピアノを弾くことは作曲者との対話であり、作曲者が答えてくれることに耳を澄ませる作業でもあるのだ。

 それにしても、今回の体験で感じる充実感は何だろう。確かに以前にくらべて上達は速くなった。何かがみるみる身に付いていくときの充実感は格別だ。音楽に対する理解も深まっている。しかし、ピアノはあくまでも趣味ではないか。これによって生活が楽になるわけでもないし名声が得られるわけでもない。単なる自己満足だ。だが、何か人生が変わったという実感があるのだ。

 人は努力してもそうそう進歩するものではない。それを何とかしようと頑張るのだが、逆に体や心に無理が掛かり、下手をすれば心身を損なうことになる。しかも、誰もが次第に歳を取る。力は確実に衰えていくのだ。恐らく僕は力に頼ったやり方に大分前から限界を感じていたに違いない。

 しかし、今回、力の抜くことで新たな道が開けた。しかも、力の入らないやり方を自分で見出すことが出来たのだ。

 ピアノ以外でも無理なやり方をして困難を感じていることは僕の身の回りにはいくらでもありそうだ。それらに対しても理にかなったやり方を見出せば、余計な力が抜け壁を越えることが出来るのではなかろうか。努力の積み重ねが少しずつではあるが確実に自分を向上させてくれるやり方、それこそが理にかなったやり方なのだ。

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