グレン・グールドのモーツァルト

 このところ練習してきたギロックのジャズが一段落し、次に何をやるか探すために帰宅途中にiPhoneを覗いていると、グレン・グールドのモーツァルトのピアノソナタ全集が目に飛び込んできた。この全集は癖が強く、これまであまり真剣に聴かなかったのだが、久しぶりにその最初の曲、第1番 K279ハ長調を聴いてみると、まるで乾いた喉に流し込まれた冷たい水のようにすーっと心の奥まで浸み込んで来た。音楽を聴いてこうした幸福感を覚えるのは久しぶりのことだった。

 20世紀の偉大なピアニストの一人、グレン・グールドといえば、もちろんモーツァルトではなくバッハだ。かつてはチェンバロで弾かれるのが常識だったバッハを、表現力ではるかに勝るピアノを用い、斬新な解釈でバッハの鍵盤音楽の可能性を一気に広げたのである。だが、彼はバッハの大家と呼ばれるには少々個性が強過ぎた。他人の意見には耳を貸さず、気まぐれで奇行も目立った。バッハの偉大な才能だからこそ、そんな彼を惹きつけ、その強烈な個性を受け止め、生涯にわたりその才能を鼓舞し続けたのである。

 では、グールドはモーツァルトをどう捉えていたのであろうか。彼のモーツァルトのソナタ全集を購入し、K333のソナタをはじめて聴いたときの驚きと落胆は忘れられない。再生速度を間違えたかと思わせるほどの高速のテンポ設定に、人を馬鹿にしているのではないかという憤りさえ覚えた。かつてのモーツァルト演奏の第一人者、リリー・クラウスが、「才能があるのだから、もっと普通に弾けば良いのに」と嘆いたのも頷けた。

 冒頭に挙げたK297でも、テンポは極端に遅く、やたらと音の粒を揃えて弾いており、いわゆるモーツァルトらしい滑らかさからはほど遠い。また、左手の伴奏は、通常右手を和声的に補佐するものだが、グールドの演奏では右手と競うように自己主張している。グールドはモーツァルトをモーツァルト風に弾く気などさらさらないのだ。

 だが、粒の揃ったタッチは、聴くうちに次第にモーツァルトに似合っているように思えてくる。さらに注意深く耳を傾ければ、グールドはモーツァルト独特の魅力をはっきりと意識していることがわかってくる。モーツァルトの神髄はその即興的な展開にあるが、彼は計算し尽くされた演奏でその魅力を表現し、全身鳥肌が立つような感動を呼び起こすのだ。さらに左右の旋律の独立性は、モーツァルトの音楽的構造の堅牢さを浮かび上がらせ、軽やかなメロディーが実は鋼のような強さ秘めていることを明らかにする。彼は、モーツァルトの音楽をぎりぎりまのところまで追い込むことにより、永年に渡って創り上げられて来た偶像を破壊し、改めてモーツァルトの真の可能性を世に問うたのではないだろうか。

 K333の奇妙な演奏にも、彼独自の深い洞察が隠されているのかもしれない。いたずら好きのモーツァルトに対するグールド流の返礼と思えなくもない。奇をてらっているとみせかけて鋭く核心を突くのは、いかにもグールド流のやりかたである。癖が強いほど、騙されないよう特に気をつける必要がありそうだ。

魔法の時間

 最近では元旦から開いているスーパーもあり、正月もすっかり慌ただしくなってしまったが、それでもその数日間には普段とは異なる特別な時間が流れている。

 歳を取ると時間が貴重になる。毎年、この時期、これまでできなかったことを今年こそはやろうと思うものだが、その切実さが年々増しているように思う。年末から、来年はどういう年にしようかと漠然と思い描いているのだが、年が明け新年を迎えると、いよいよだと身が引き締まる思いがする。正月は静かな中にも独特の緊張感が漂っているのだ。

 正月にはこの1年の政治や経済などを占うTV番組がいろいろ組まれているが、最近はあまり興味が湧かない。この貴重な時間はそんな外的な問題に振り回されず、もっと内なることに集中したい気分なのだ。

 今年はやることを絞り、自分が人生でどうしてもやりたいと思っていることにできるだけ集中したいという思いが強い。やりたいことをやるのは決して楽ではない。なぜなら、本当にやりたいこと、やらねばならないことというのは、大抵は暗中模索だからだ。それに比べれば、目の前にある仕事をこなしたり知識を身につけることはずっと楽だ。だから、そうした結果の出やすいことについ逃げてしまいがちだ。そこをぐっと我慢して暗中模索の中に何かをつかみ取ることが重要なのだ。自分をごまかしている時間はもうない。

 ところで正月には、帰省してかつての友人たちに会うのも大きな楽しみだ。15年ほど前から始めた高校のクラス会はこのところ毎年1月3日に開かれている。最近、かつてのクラスメイトたちとの話が急速に深まって来たので驚いている。

 その理由の一つは、毎年、回を重ねるうちに互いの壁が取り払われ、それまで触れたことのなかったような突っ込んだ話題も取り上げるようになったからだろう。昔からお互いに良く知っているつもりだったが、実は知らないことのほうが多かったのだ。しばしば相手の別の側面を見せられてハッとさせられるのである。

 また、お互いに人生を重ねて成長していることも大きい。仕事のこと、家族のこと、夫婦のこと、人生のこと。誰もがそれぞれに悩んできたのだ。そして、それらは確実に各人の成長を促してきた。もちろん人にもよるが、親しい友がそうした成長の跡を見せてくれると嬉しくなる。そして、また来年までの互いの成長を期して名残惜しさのうちに別れるのだ。決して懐かしさだけで付き合っているわけではない。

 今年もらった年賀状には、子供が巣立って再び夫婦2人の生活になったという便りが目立ったが、幸いまだ娘2人が居座っている我が家は、元旦、家族4人で原宿へ繰り出した。二十歳前後の娘たちと一緒になって原宿でショッピングを楽しめるのも正月ならではのことだ。彼女たちも、この時間を特別な思いで過ごしているようだった。我が娘たちがいつまで家にいるかわからないが、家族の距離を縮め、家族の絆を強めてくれる貴重な機会を与えてくれたのも、まさに正月という魔法の時間のなせる技だったのだ。

フリー社会

 ネット社会の大きな特徴の一つは、さまざまなサービスが無料(フリー)で受けられることだ。かつてGoogle Mapが登場した時、このような便利な地図サービスがなぜ無料で使えるのか誰もが不思議に思っただろう。おかげで当時何万円もしていた多くの地図ソフトはたちまち姿を消してしまった。

 普段ネットを観る時、われわれは当たり前のようにGoogleYahooの検索システムを用いている。もはやそうした検索システムが無料であることに疑問を感じる人はいない。しかし、検索システムなしではネットの利用はほとんど不可能だ。ある日、Googleがそのシステムを、突如、有料化したとしたら、ユーザーはお金を払わざるを得ないだろう。しかも、こうしたサービスの提供にGoogleは莫大な費用を投じている。なにゆえGoogleはそうしたサービスを無料にしているのだろうか。

 もちろん、Googleは何らかの形で収益を上げている。メインはネット広告だ。Googleはユーザーが検索した全ての履歴を記録している。その人が何を探し何を買ったのか、スポーツに興味があるのか政治に興味があるのか、どのアイドルに興味を持っているのか、全ての情報は蓄積され分析される。そうした膨大な情報に基づき、その人が今まさに求めている情報を広告としてパソコンやスマホに表示するのである。こうしたシステムは日夜洗練されており、将来的にはその人の性格や行動パターン、人間関係から人生観に至るまでユーザー当人以上にGoogleが知っているという時代がくるだろう。Googleにとっては、検索システムを無料化しても、それを補って余りある見返りがあるというわけだ。

 しかし、無料化の理由はそれだけではない。ネット業界ではネット上のサービスを無料化し、別のところでその分を回収するというビジネスモデルが徹底的に研究されている。広告の場合には、広告を出す企業がお金を出す。ネット上のサービス自体が物品の販売促進になる場合は、もちろんそれを買った一部の人が負担することになる。かつてはサービス自体に課金するケースもあったが、無料サービスが急増し、無料だけで十分足りるようになると、特別な場合を除き有料サービスは見向きもされなくなってしまったのだ。

 もちろん、無料化がいつもうまく行くとは限らない。無料で提供する分をどこかで取り返さなければ、そのサービスは破綻する。多くのサービスがそのギリギリの線で運用されている。その代表例がFacebookだ。いまやSNSの雄となったFacebookだが、広告収入を増やそうとすればFacebookというブランドの価値が下がってしまうというジレンマがあり、永年にわたって収入より出費の方が多い状況に苦しんできた。投資家は将来、Facebookという無料サービスが莫大な利益をもたらす方法が見つかることを期待しているが、今でもそれは未知数なのである。

 フリーは必ず誰かがそれを負担することが必要だ。だが、その一定の負担が無限のフリーサービスを生み出す。フリーは、従来の価値観を覆す現代の打ち出の小槌なのである。

 

モーツァルトの魅力(4) ピアノ協奏曲23番

モーツアルトの音楽は、器楽から交響曲、オペラ、宗教音楽と多岐に渡っているが、中でも最も重要な分野の一つがピアノ協奏曲である。モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あるが、特に20番以降の作品は、彼の全作品の中でも最高の水準を誇っている。

モーツァルトは生前、作曲家であると同時に当代随一のピアニストでもあった。ピアノ協奏曲は、その彼が自ら主催した演奏会において、自分自身で演奏するために作曲されたものなのである。そのことは明らかに作曲にも影響しており、彼の他の作品に比べても高揚感や即興性が特にリアルに伝わってくる。

一般的にピアノ協奏曲というのはピアノ対オーケストラ全体の対決構造になっている。しかしモーツァルトの作品では、オーケストラの各楽器があたかもオペラの登場人物のようにそれぞれ個性的な役割を与えられ、主人公であるピアノと絶妙の駆け引きを繰り広げる。一方、ピアノも弦のピチカートと絡んだり、クラリネットを引き立てるために裏に回ったりと縦横無尽に駆けまわる。自ら鍵盤の前に座るモーツァルトの細やかな気遣いが伝わってくる。こうしたオーケストラとピアノの関係は各ピアノ協奏曲によって異なり、全く違った世界を描き出しているのである。

そうしたピアノ協奏曲に中で、僕が特に好きなのが第23番K488だ。この曲はオーケストラの各楽器とピアノの絡み合いが特に絶妙だ。そのために彼は、通常のピアノ協奏曲ではオーケストラとは別に必ずピアノに与えられるはずの独立した主題を思い切ってなくしてしまっている。その結果、各楽器同士の心情的な関係がより深く緊密になっている。

楽器同士のメロディーのやり取りは、ときには粋なハーモーニーを歌い上げたかと思えば、ときには敬意を持って相手を称える。そしてまたあるときには励ますように友人の背中を押すのである。

そうしたやり取りは決してその場だけの思いつきではない。一つ一つの表現は曲全体の構造をしっかりと担っている。1楽章と3楽章の主題の緊密な相関が示すように、この曲では、曲全体の統一感が際立っているのだ。通常モーツアルトの作品ではほとんど見られない綿密なスケッチがこの作品では残されていることからも、当時、ウィーンで人気の絶頂にあったモーツァルトのこの曲にかける自信と意気込みが伝わってくる。

僕はこの23番の中でも第3楽章が最も好きだ。この第3楽章のために1、2楽章が周到に準備されていると言っても過言ではない。かつて学生の頃、僕はこの第3楽章を聴くたびに、ああ、自分はこれから一生生きて行っても、これ以上の幸福感に出会うことはないだろうと感じた。今もそれは変わらない。だが、それがどういう気持ちなのか、未だにうまく言葉にできない。幸福感というのは正確ではない。あえて言うなら愛に満ちているとでもいうのだろうが、愛という言葉から想像されるよりずっと多様で、屈託のない、しかもわくわくさせられるような歓びに満ちた世界がそこにはあるのだ。

モーツァルトの魅力(3)『プラハ』

モーツァルトの交響曲は41曲あるが、その最後の3曲は3大交響曲と呼ばれ、モーツァルトの天才の証として永年讃えられてきた。僕自身にとってもモーツァルトの凄さを最初に思い知ることになった思い出深い名曲だ。しかし、実はこの3曲に引けを取らない、あるいはそれ以上の魅力を湛えた交響曲がある。第38番の『プラハ』である。

3大交響曲は確かに素晴らしいが、そこには何か博物館の作品のような距離感がある。それに比べ『プラハ』の魅力は、まるで女性の魅力のように直に伝わってくるのだ。

モーツァルトの交響曲の中でも『プラハ』は特に複雑な構造を持っている。それは、人間の心に潜む多様で微妙な感情を扱うために、さまざまな音楽的技術の融合が図られた結果である。

モーツァルトの時代にはソナタ形式に代表される和声音楽が全盛だったが、バッハ以前に遡ると、複数の旋律を同時進行させる対位法音楽が主流だった。モーツァルトは、和声音楽にこの対位法を取り込もうとずっと腐心していた。3大交響曲の最後を飾る『ジュピター』の終楽章は特に有名だが、他にもK387の弦楽四重奏曲や後期の2曲のピアノソナタなどさまざまなところで和声と対位法の融合を試みている。だが、それらの作品には実験的な試みとしての特殊さが残っている。また、それが魅力でもあったのだ。

しかし『プラハ』では、対位法は和声の中にすっかり溶け込んでいる。複数のメロディーがそれぞれ自らの主張を奏でたかと思えば、たちまち一体化し絶妙なハーモニーを響かせる。そうした対位法と和声の融合により新たな音楽的な構造が生み出され、命を吹き込まれて自律的に動き出す。『プラハ』ではその様子が手に取るように伝わってくる。

さらに、短調と長調が複雑に絡み合い、曲全体が襞のある感情表現に覆われているのも『プラハ』の大きな特徴だ。長調は明るく短調は暗いというような単純な世界はもはや通用しない。明るい中にも陰りがあり、深刻さのなかにも歓びはある。しかも、常にこうした微妙で深い心理を追求しているにもかかわらず、けっして難解ではない。表現は極めて的確で説得力がある。

当時、モーツァルトはオペラ『フィガロの結婚』を成功させ、次の『ドン・ジョバンニ』の構想を練っていた時期だ。そもそも『プラハ』という名前は、『フィガロ』のプラハ初演の際に演奏されたことに由来している。ストーリーとセリフがあるオペラでは交響曲に比べて感情表現はより生々しくなり、舞台での掛け合いではさまざまな音楽的な表現がぶつかり絡み合う。オペラはモーツァルトにより高いレベルの音楽を要求し、モーツァルトはそれに応えるために一段と成長する必要があった。

形式的な構造美を追求する交響曲という音楽に、さらにオペラにも優る人間の多様な感情を吹き込むことも、またモーツァルトらしい夢だった。そのために当時のあらゆる音楽技術を注ぎ込んだ傑作、それが『プラハ』なのである。