K331の衝撃

 1年ほど前、家内の実家に友人が集まり、公開練習会と銘打ってピアノやチェロの練習成果を披露する内輪の会を始めた。練習会だから、間違え、弾き直しは御免である。昨年の会が終わった時点で、今年はモーツァルトのK331の第一楽章を弾こうと決めていた。

 30年ほど前にワルター・クリーンの演奏でこのK331を聴いたと、以前、書いたことがある。演奏が始まる直前、このトルコ行進曲付きの有名なソナタを最初の演目に持ってきたのを、何か安直な選択のように感じていたのを覚えている。ところが静かにテーマが始まると、その思いはたちまち消し飛んだ。

 クリーンの繊細なタッチから生まれる音はガラスのように澄んでいた。そのあまりの美しさに思わず身震いしたが、それを味わっている暇はなかった。すぐに快感とも苦痛ともつかない衝撃が次から次へと襲ってきたのだ。まるで何か必死に痛みに耐えつつも、ついに耐えかねて叫び声をあげるように、僕の感性は波状攻撃を受けて次第に限界に近づいた。呼吸はままならず、失禁しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。

 実際にはそれは苦痛ではなく、恐らくは強い幸福感だったに違いない。体の中から次から次へと湧きあがるのも喜びだったのだろう。ただ、それは親しみやすいK331の曲想からはとても想像できない激烈なものだったのだ。

 その日の演目はオールモーツァルトだったが、そのあと演奏された他の曲ではそのようなことは起きなかった。また、後日、この曲を他のピアニストで何度か聴いたが、そんな経験をしたことはない。たまたまクリーンの傑出した技術が、K331を通じてモーツァルトの秘密の扉を開けたのだろうか。

 公開練習会に向けて、僕は1年かけてこの曲を練習してきた。譜づらは簡単そうに見える。だが、個々の音は常に他の音との相関の中にありモーツァルトの多義的な要求に応えるのは容易ではない。一見滑らかで平易なメロディーも、実は不協和音が大胆に使われ、破綻と調和が繰り返している。いたるところにインスピレーションが溢れ、遊び心にも満ちているが、同時に凛とした格調に貫かれ、弾くものは天才の確信を思い知らされるのだ。

 練習の参考にネットでいろいろな演奏を聞いてみた。その中でバレンボイムの演奏に何か胸騒ぎのようなものを覚えた。その弾き方はクリーンとは異なり、やや無骨とも言えるものだが、そこにはかつての衝撃を彷彿とさせるものがあった。

 モーツァルトの音楽には、「純粋」「無垢」といった枕詞がつきものだ。だが、それはしばしば誤解されている。無垢さは汚れを知る前の未熟さではない。あらゆる苦悩を受け入れ許すことができる自由で強靭な心だ。

 バレンボイムの演奏から僕はその無垢な心の一端を感じたのだろう。それに気づくと、クリーンの演奏から受けた衝撃の謎が解けたような気がした。それは、K331という傑作を通じて音楽の神様の無垢な心に僕の心が直接触れ共鳴した瞬間だったのである。

柔軟な発想への挑戦

 毎年、正月の休みが終わり、明日から仕事かと思うと気が重いものだが、今年はちょっと違っている。何かワクワクしている自分がいるのだ。

 昨年はピアノの弾き方で画期的な進展があった。今からちょうど1年ほど前、ずっと超えられなかった壁をひょっとしたら超えられるのではないかと直感的に思った。その直感を信じてあれこれ思い切った工夫をしてみるうちに急に世界が開けてきたのだ。

 そうしたことは他のことでも起きるかもしれない。永年、人生で難しさを感じてきたことは他にもいろいろある。それが次々と解決していけばこれほど痛快なことはない。

 もっとも自分では大発見だと興奮しているが、ある程度ピアノが弾ける人にとっては僕の「発見」など当たり前のことで、ことさら騒ぎたてるようなことではない。また、ピアノでは生徒の欠点をよく理解した先生の手厚い指導があったわけだが、他のことではそうはいかない。果たしてそんなうまい話が転がっているものだろうか。

 僕はもともとあまり理詰めで考えるタイプではない。バカや冗談を言っているうちに様々な考えが浮かんで来る方だ。ただ、一旦あることにこだわり始めるとそこから抜け出せなくなる傾向がある。妥協せずに考えを巡らし、何とか弁証法的な解決を見つけ出そうとする。良かれと思ってやっているので、そのこだわりを捨てるのには強い抵抗がある。だが、そのこだわりこそが自分から発想の柔軟性を奪ってきたことに、最近ようやく気がついたのだ。

 「柔軟な発想」とはしばしば使われるフレイズだが、実際にそれを行うのは至難の技だ。「押してダメなら引いてみな」という程度で問題が解決すれば苦労しない。いくら発想を変えようとしても、所詮、小さなコップの中でぐるぐる回っているだけに終わる場合がほとんどなのだ。だが、ピアノの事件は僕の目から鱗を落とし、自分が陥っていた罠から抜け出すためのヒントを与えてくれた。柔軟な発想をする際に何が重要なのかを指し示してくれたような気がするのだ。

 まずは手始めに、これまで自分が書けなかったものが果たして書けるかどうか、昨年末からいろいろ試してみている。すると不思議なことに、突然、文体というものの重要性をはっきり感じるようになった。それまで文体というのは文章を書いた結果として表れるものだと思っていたが、実は文章を書く際に自分の中から発想を引き出してくる梃子のようなものであることに気がついたのだ。文章における文体は、まさにピアノを弾く際の手首の使い方なのである。

 新たなアプローチはまだ始まったばかりで、そこから何が出てくるかは未知数だ。だが、結果にはあまりこだわりたくない。結果にこだわることは、柔軟な発想の妨げにこそなれ助けにはならない。最近、そうした実感がある。

 やり方を変えれば、一時的にうまくいかなくなる場合もある。それはピアノで実証済みだ。だが、それを恐れる必要はない。今の僕に失うものは何もないのだから。

理にかなったやり方

 しばらく前に自分のピアノの弾き方において大きな進歩があったと書いたが、その後もピアノの練習は充実している。最近は以前やったモーツァルトのソナタを引っ張り出してきて再挑戦している。もちろん、急にすらすら弾けるようになるというわけではないが、かつて力が入って凝り固まっていた演奏が徐々に矯正されていくのを感じる。今ではピアノに向かうことは、まるで心身をリラックスさせるためにヨガを始めるときの気分に近い。

 もっとも今でも困難な箇所に来ると、無意識のうちに何とか指をコントロールしようとし勝ちだ。そこをぐっと思い留まり、手首だけでなく腕から肩、そして全身の使い方を工夫することで次第にほぐれるように弾けるようになっていく。僕のピアノの練習は、力で克服しようとするかつてのやりかたから、正しい弾き方を我慢強く見つけ出す作業に180度転換したのである。

 正しい弾き方を探る試行錯誤は、同時に曲のその部分にふさわしい表現を探す作業でもある。無理な力が入っていた頃は、譜面をさらうのが精一杯で表現は二の次だった。先生に指示されても、なぜそう表現するのかピント来なかった。だが、力が抜け音の表情が豊かになると、不思議なことにそこをどう弾けば良いのかが自然にわかってくるのである。

 さらに、表現が豊かになると作曲者が意図していたものが見えてくる。モーツァルトのさりげない表現がいかに繊細で豊かな感情を含んでいたのか肌で感じ取れるようになるのだ。ピアノを弾くことは作曲者との対話であり、作曲者が答えてくれることに耳を澄ませる作業でもあるのだ。

 それにしても、今回の体験で感じる充実感は何だろう。確かに以前にくらべて上達は速くなった。何かがみるみる身に付いていくときの充実感は格別だ。音楽に対する理解も深まっている。しかし、ピアノはあくまでも趣味ではないか。これによって生活が楽になるわけでもないし名声が得られるわけでもない。単なる自己満足だ。だが、何か人生が変わったという実感があるのだ。

 人は努力してもそうそう進歩するものではない。それを何とかしようと頑張るのだが、逆に体や心に無理が掛かり、下手をすれば心身を損なうことになる。しかも、誰もが次第に歳を取る。力は確実に衰えていくのだ。恐らく僕は力に頼ったやり方に大分前から限界を感じていたに違いない。

 しかし、今回、力の抜くことで新たな道が開けた。しかも、力の入らないやり方を自分で見出すことが出来たのだ。

 ピアノ以外でも無理なやり方をして困難を感じていることは僕の身の回りにはいくらでもありそうだ。それらに対しても理にかなったやり方を見出せば、余計な力が抜け壁を越えることが出来るのではなかろうか。努力の積み重ねが少しずつではあるが確実に自分を向上させてくれるやり方、それこそが理にかなったやり方なのだ。

ブレイクスルー

 ピアノを習い始めて17年。当初は上達が速いと自惚れてもいたが、いつの頃からか大きな壁にぶち当たってしまった。練習すれば確かにその曲は徐々に弾けるようにはなる。だが、実力がついたという手応えがない。自分の練習には明らかに何か問題があるのだ。

 これまで指導を受けた先生方からは、いずれも手首を使う重要性について指摘されてきた。だが、それは僕の手首があまりにも固まっているので、もっと柔らかくして弾くべきだというアドバイスだと捉えてきた。あくまでも主役は指で、手首の役割は補助的なものだと考えてきたのである。

 最近のバッハでも、S先生から手首の使い方について何度も指示を受けた。しかし、手首を意識すると逆に動きがぎこちなくなってしまい、なかなか手首を使う意味が理解できない。普段ならそろそろ諦めて次の曲に移る時期だった。だが、ここが踏んばり所ではないのかという思いが、ふと頭をよぎった。とにかくこのままでは駄目だ。そこで、たとえこの小曲に1年かけようとも感覚がつかめるまでは決して止めない、と腹をくくった。

 その決意は先生にも伝わったようで、納得するまで遠慮なく駄目出ししてもらえるようになった。大人のピアノでは、楽しめれば良いという生徒が多く、先生としても技術的なことをあまりしつこく言うのは遠慮があるのだ。

 鍵盤から指が持ち上がっていないかどうかS先生の目が光る。弾きにくい所に来るとなんとか指を動かそうと無意識のうちに指が鍵盤から離れてしまうのだ。これは指に要らぬ力が入っている証拠だ。だが、いくら力を抜こうとしても指は持ち上がり、無理に抑えようして指はぴくぴく痙攣している。なんとも情けなくなる。

 だが、諦めずに試行錯誤を繰り返しているうちに、自然に力が抜けていることがあった。そうした時は、まるで手首より先が手袋になったような気分だ。手袋の指は動かないので自ずと手首を使わざるを得ない。一見、これでは指のコントロールなど出来そうもないように思える。だが、意外にも手首と指は本来あるべき位置を見つけたかのように安定し、無駄な力がすっかり抜け、音も見違えるように澄んでくる。

 無理に指の力を抜こうとするのではなく、指に力を入れずに弾ける弾き方があるのではないか。何かをつかみかけているという思いに胸が騒いだ。

 要は、腕の重みで指を自然に鍵盤に下ろせる位置に、手首を使って持って行ってやれば良いのだ。もちろん理屈はわかっても実際にやるのは大変だ。手首の使い方は音形によって無数にある。試行錯誤の連続だ。だが、気分は晴れやかだ。まるで目から鱗が落ちたように、理にかなった練習方法が見えてきたのだ。随分回り道したが、やっと重い扉が開き始めたのである。

 僕のピアノ人生にこんな展開が待っているとは思ってもみなかった。何事も納得するまでもがいてみれば、意外と道は開けて来るのかもしれない。