二人が写真に求めたもの

 先日開いた写真展で、かつてモデルをお願いしたMさんとトークライブを行った。二人の関係は17年前、原宿で声をかけて写真を撮らせてもらったときに遡る。その写真を送る際、改めてモデルになってくれないかと依頼したところ引き受けてくれたのである。 

 彼女は当時、プロのファッションモデルに憧れ仙台から上京したばかりだった。僕はといえば、写真についても人生についても暗中模索の状態だった。

 二人は六本木や新宿の薄汚れた路地を歩きながら気に入った場所を見つけると荷物を置いて撮影した。レトロな街並と洗練されたファッションのミスマッチが狙いだったが、衣装や髪型を次々と変えポーズを取る彼女をいかに撮るか、かなりのプレッシャーだった。

 撮影は2年余り10回ほど続いたが、原宿で撮ったのが最後になった。次第に当初の緊張感が薄れ、良い写真が撮れなくなっていた。それから23年して「仙台に帰ることにした」という電話をもらったのを覚えているが、その後、連絡を取り合うことはなかった。

 ところが、2年程前にふとしたきっかけで彼女のことをfacebookで探してみるとあっさり見つかった。連絡してみると結婚して関西に住んでいた。しかも、今もファッションモデルの仕事を続けている言う。ホッとすると同時に心から拍手を送りたい気持ちだった。

 その後も再会の機会はなかったが、今回の対談の話が出ると、すぐさま彼女のことが浮かんだ。こんなチャンスは滅多にない。思い切って誘ってみると快く応じてくれたわけだ。

 再会するなり彼女の顔にかつての悪戯っぽい笑顔が弾けた。「変わらないね」と言うと、すかさず「前より綺麗になったと言って欲しかったな」という返事が返ってきた。それがまた彼女らしかった。

 トークライブでは、久しぶりに自分の写真に対面した感想を聞いてみた。すると彼女は迷うことなく「青い」と言った。実は当時から彼女は自分の写真に対して不満そうだった。もっとモードっぽい写真を期待しているんだろうと勝手に思っていた。だが、そうではなかったのだ。当時から彼女がこだわっていたのは、写真の中の自分がいかに洗練されているかということだったのである。彼女の不満は自分の未熟さに向けられたものだった。

 モデル写真と言えども表情やポーズを撮ることが目的ではない。その場にモデルが立つことで喚起されるイメージをどのような構図で捉えるかが勝負なのだ。だが、結果的にストイックに自分を追求する彼女のおかげでこちらのイメージが膨らんだのである。

 彼女にはもう一つ、なぜ、あれほど何度も撮影に付き合ってくれたのかと聞いてみたかった。撮影は楽ではなかったからだ。「楽しかったからじゃないですか。」少し考えてから彼女が答えた。意外な答えだった。僕は、救われたように感じた。同時に、もっと彼女に何かしてあげられたのではないかという後悔の念にも囚われていた。

 彼女との再会はあの2年間を蘇らせ、その意味を問い直す機会となった。素晴らしいことに、その時間は二人で撮った写真の中に凝縮されている。

ケムリが目にしみるう…

 毎年、今頃になると、高校の同級生のTさんの絵を観るために六本木の国立新美術館で開かれる二紀展に足を運ぶ。数百点に及ぶ出品作の中でも彼女の作品は独特の世界を展開しており、年々その存在感を増して来ている。

 画面手前ではサンマが絵からはみださんばかりの迫力で網の上で焼かれている。七輪から立ち上るオレンジの炎にジュージューと炙られ良い色に焼き上がったサンマは、所々皮が剥げて香ばしい匂いを漂わせている。

 その背後で、作者の分身である(と思われる)巨大な顔の少女が七輪から顔を背けて必死で団扇をパタパタやっている。ケムリが目にしみるのだ。団扇は、動きを出すために漫画のように何枚も描かれ、さらに動きに沿って白い線も引かれている。その妹(と思われる女の子)が彼女の足下でうずくまり、彼女とは対照的に冷静にサンマを見つめている。

 そうした情景を手前上に置かれたカメラから俯瞰するように見下ろしている。少女たちの背後には未舗装の路地が続き、その両側には軒下に植え込みのある古い民家が建ち並ぶ。それらは極端な遠近法で後方に吸い込まれ、シュールでレトロな空間を作っているのだ。

 最初に彼女の絵を観に行ったのは10年以上前のことだ。当時の作品は、画面全体にさまざまなものが配置されているが、それぞれバラバラで何が言いたいの皆目分からない。偶然、会場で出会った彼女にどう褒めたものかと迷っていると、「先生方から『幕の内弁当』って言われているんだ」と半ば自嘲気味に言うので、思わず頷いてしまったものだ。

 そんな彼女の絵がしばらくして劇的な変貌を遂げた。祭や神社、縁日など、ちょっと不気味で日本的な題材が独特の厚みのあるタッチで描かれ、新たに登場した彼女の分身が何かを夢中にやっている。遠い記憶の瞬間がエネルギッシュな滑稽さのなかに凝縮され、かつての散漫な印象は影を潜めていた。

 スルメの焼けこげる香り、目にしみる煙、祭の太鼓の音..。彼女の絵は視覚以外にも訴えかけてくる。一方、漫画的な手法を大胆に使うことにより画面に動きを作り出し、それが分身の無邪気な心情をリアルタイムで伝えてくるのだ。

 それ以降、彼女はひたすらその路線を追求してきた。絵画の常識に納まり切らないその手法には恐らく賛否両論あったに違いない。しかし、彼女は自らの技術を高めることでそれに応えようとしてきたのである。

 テーマの賑やかさに比べ、彼女の色使いはかなりストイックだ。デッサンに一部色付けしたような風合いで、植え込みなども砂埃をかぶったように灰色に覆われている。そのなかで彼女がポイントとして好んで使うのは提灯や炎の赤。

 ところが今回は珍しく、画面中央に扇子の裏を使って黄を持ってきた。それが全体に立体感を与え、構図を引き締めている。お見事!気がつけば、そこには既に大家の風格が漂っていた。