写真に写るもの

安っぽい居酒屋を背にして、まだ大人になりきれない若いモデル志願の娘がこちらを見つめている。新宿のゴールデン街で昼間に撮った女性のポートレートだ。この写真は、出来上がった直後には、自分の狙ったイメージ通りに撮れておらず、がっかりしたのを覚えている。しかし、今見てみれば、構図には独特の情緒があり、表情も悪くない。自分の撮った写真をたまに引っ張り出して来て眺める楽しみは、写真を撮るものだけの特権なのだ。しかし、それはまた、写真の持つ謎に惑わされる危険な瞬間でもある。

カメラ越しにこちらを見つめるモデルの視線はいつも見慣れたもののはずである。むしろ、なかなかシャッターを切るタイミングが合わないその視線に、いつも苛立たされていたのではないか。しかしなぜか、写真のなかで一心にこちらを見つめる彼女の視線にふと目が留まると、それまで気づかなかった彼女の裸の心が感じられ、その視線から意識をそらすことができなくなってしまう。同時に、なんともいえない胸騒ぎに襲われている自分に気がつくのである。

川端康成の「名人」のなかで、筆者が本因坊秀哉名人の死顔の写真を撮る場面がある。かつて名人の引退碁の観戦記者を務めた筆者は、たまたま名人の死顔の写真を撮る巡りあわせとなり、「生きて眠っているように写って、しかも死の静けさが漂う」ように撮れたその写真で、名人の容貌を克明に描写していくのである。しかし同時に川端は、その写真によって不可解な感覚に取り付かれる。「いかにも(写真の)死顔に感情は現れているけれども、その死人はもう感情を持っていない。そう思うと、私にはこの写真が生でも死でもないように見えて来た。」死人の顔に感情が表れることはあるだろう。しかし、それが写真に写り、死者の人生の終着点をはっきり刻み、しかも「死顔そのものよりも、死顔の写真のほうが、明らかに細かく死顔の見られる」のがなんとも妙なのである。筆者はその写真を、「何か見てはならない秘密の象徴かとも思われた」と言っている。

写真は見たままを写す。しかし写された写真には、けっして見たままが写っているわけではない。写真は「瞬間」を切り取り、印画紙の上に焼き付け、「永遠」に閉じ込める。撮った者にも撮られた者にもはっきり意識できないほどの短い「瞬間」。写真はそれを細部に至るまで克明に描き出し永遠に記録する。そこには、撮られた本人自身も気がついていないその人の本質、その人の人生までもが写しだされてしまうことがあるのだ。それは確かに、「見てはならない秘密の象徴」かもしれない。

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