死と意識

 人が死んだらその意識はどうなるのであろうか。これは、昔から人々を悩ませてきた問題である。人であれ動物であれ、それまでいくら元気でも、死ねば動かなくなり、ただの物体になってしまう。そして死ぬと同時に意識も消えてしまうように見える。

 死ぬと意識は霊魂となって肉体から抜け出すのかもしれない。そんなことは科学的にありえないという人がいるだろうが、科学は客観的に計測できるものだけを扱い、計測できないものは相手にしない。この世界が計測できるものだけでできているかどうかまでは、科学では証明できない。もっとも、だからと言って、霊魂があることにはならないのだが。

他人のことはあくまでも想像になるので、自分が死ぬと意識はどうなるか考えてみよう。自分の意識が肉体に強く関わっていることは確かだ。体調が悪ければ気分も優れないし、腹が減れば血糖値が下がって元気が出ない。もし自分の肉体が死ぬようなことがあれば、タダでは済みそうにない。

では、意識と肉体は一心同体かというとそうでもない。肉体の日常的な活動はほとんど意識を必要としない。食べ物を消化吸収するのも、病原菌をやっつけるのも肉体が勝手にやってくれる。逆に、ガンになりたくない、年をとりたくないといくら意識が望んでも、肉体はいうことを聞いてくれない。肉体は意識の助けがなくとも十分自分だけでやっていけそうである。意識は肉体に間借りする居候のようなものだ。

ところで、意識という言葉を適当に使っているが、意識とは一体何かと聞かれたら、答えるのは容易ではない。意識に注意すれば、意識があると自覚できるが、何かに夢中になっている時は、意識などというものは忘れている。眠っている時の意識は起きているときとは異なる。そうした意識のさまざまな状態を理解しようとすれば、それはすでに過去のものとなったことを客観的に捉えようとしているに過ぎない。しかし、そもそも主体としての意識を客観的に捉えることなどできないのである。

「我思うゆえに我あり」とデカルトは言ったそうだが、その「我あり」と言っているところの「我」は意識の主体であって、肉体のことではない。しかも、彼がそういう言い方をしてまで「我」の存在を確かめようとしたのは、主体である「我」を客観的に認識することができないとデカルトはわかっていたからである。

話が難しくなったが、死ぬと意識がどうなるかを想像するのが難しいのは、意識自体につかみどころがないからである。デカルト流に考えれば、そもそも「意識」というものは想像してはならないのだ。しかも、「我思う」ことは、常に肉体が関係している。意識の問題は、デカルトが考えていた以上に難しそうである。

確かに言えそうなことは、死ぬと意識はどうなるか、などと頭を悩ませているうちは、けっして謎は解けないということだ。しかし、だからこそ死は深く示唆に富んでいるのかもしれない。

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