アマチュアリズム

 NHKで「プロフェッショナル」という番組がある。そこで取り上げられるのは業界の一線で活躍する優れた技術や能力を持つプロたちである。もともとプロとアマの違いは携わっている分野で生計を立てているかどうかということだが、あえてプロという言葉を用いる場合、一般人より優れた何かを持っているという含みがある。

 プロの画家になるには絵を売って収入を得なければならない。高い金を払って絵を買おうという人は限られているから、当然、高いクオリティーが求められる。一方、その見返りとして、プロの画家は趣味で描く人に比べてはるかに多くの時間を絵に注ぎ込むことができる。そうした環境がプロの高いレベルを支えているのだ。

 とはいえ、金を稼ぐというのは大きな制約にもなる。テレビ番組の製作者なら視聴率を取らなければならないし、ミュージシャンは曲をヒットさせなければならない。その結果、好きなものを作っていれば良いというわけにはいかず、時にはユーザーに迎合しなければならなくなる。もちろんそうした制約をクリアし、なおかつ優れたものを生み出せるからこそプロと呼ばれるわけだが、作品の質と金儲けを両立させるのは容易なことではない。

 一方で、世の中には優れた作品を生み出しているアマチュアもいる。もともとアマチュアという言葉は、スポーツを営利目的ではなく純粋に趣味として楽しむことに由来する。ただし、ここでいう趣味とはスポーツを観戦することではない。あくまでも自らスポーツをやってそれを楽しむという意味だ。単にプロの生み出したものを楽しむだけでなく、自ら活動したり作品を生み出すところにこそアマチュアリズムの意義があるのだ。

 現在は商業主義が強まり、プロが生み出したものを大衆が消費する社会構造が定着している。プロと消費者ははっきり分かれてしまい、プロがやっていることを自分が趣味でやることなどとても無理だと諦めてしまっている。例えば、小説はプロの小説家が書くものだという意識が強く、プロを目指す小説家志望は大勢いても、アマチュアとして趣味で小説を書こうとする人は少ない。だが、本当に小説はプロだけのものなのだろうか。

 小説は通常、出版社を通して出版されるため、ビジネスとして成り立つためには一定の売り上げが必要だ。そのために出版社の論理で小説を選ぶことになり、才能があっても埋もれたままになってしまう作家も出てくる。

 一方、最近はネットが普及しコストをかけずに簡単に電子出版が可能になっている。アマチュアでも優れた小説を書けば口コミで評判が広まり、多くの読者に読まれる可能性がある。純粋に小説を書きたいのならば、アマチュア小説家という道も十分あり得るのだ。

 豊かになったわりに現代人がなかなか人生に充実感を持てないのは、市場経済の発達により市場に提供されたものを享受するだけで、自ら積極的に何かをやる機会がなくなっているからではないだろうか。アマチュアリズムの扉は誰にでも開かれている。もし生涯本気で取り組める趣味を見いだすことができれば、人生はずっと豊かになるに違いない。

AIが変える仕事

 AI(人工知能)が進歩すると多くの仕事が奪われ失業者が続出するという話をよく耳にする。これまでも技術の進歩で多くの仕事が姿を消して来たが、AIによる影響はそれらと比較にならないほど大きなものになりそうだ。将来、われわれの仕事はどうなるのだろうか。

 仕事においてAIが代行するのは人間の頭脳労働である。従ってAIの導入は肉体的な作業を必要としない情報分野でまず進んだ。

 ネットの世界においては、グーグルなどは誰でもネットで簡単に必要な情報が得られるように早くからAIを利用して検索エンジンの改良を行なって来た。その他にもネット広告の効果を高めたり、通販で価格や在庫の最適化を行うなど、AIはすでに広く用いられている。

 お金をデータとして扱う金融分野においてもAIの活用はすでに不可欠となって来ている。株にしても債券にしてもAI同士が凌ぎを削る熾烈な競争が始まっており、AIを駆使する先端エンジニアの需要は高まるばかりだ。一方、従来の人間の経験や勘といったものは急速に廃れつつある。

 教育も一種の頭脳労働であり、AIによって大きく様変わりしそうな分野だ。AI教師は、各生徒の個性に合わせて細やかに対応し、生徒の質問にも丁寧に答えてくれるだろう。人間の教師の役割は大きく変わるに違いない。

 翻訳も頭脳労働だ。先日、久しぶりにスマホの翻訳機を使ってみて、その進歩に驚かされた。専用のヘッドフォンがあれば誰もが簡単に同時通訳を利用できる日は近そうだ。そうなれば言語の壁は格段に低くなる。外国人との相互理解は深まり、国という概念も変わっていくかもしれない。人間の翻訳家はより質の高い翻訳を求められるようになるだろう。

 ところで、自動車の自動運転の実用化が目前に迫って来ている。運転は肉体労働のように思われがちだが、本質的には頭脳労働だ。ハンドルやブレーキを操作する前に、行き先までの道順を考えたり周りの安全を確認するなど常に頭を使っている。AIが代行するのは、まさにそうした情報処理と状況判断なのだ。

 自動運転は、機械を操作する人間の作業をAIが代行する例の一つだが、運転以外でも機械、あるいは工場全体を操作するような仕事は、今後AIによって自動化が進むだろう。

 一方で職人技を伴う仕事をAIで代行するのは簡単ではない。例えば美容師の仕事を考えてみよう。カットやブローなどを行うAIロボットを開発することは原理的には可能かもしれない。だが、そうした仕事においては、AI以前の問題として職人の微妙な手加減を再現できるロボットをゼロから作らなければならない。それには莫大な費用がかかる。

 永年、肉体労働は頭脳労働より下に見られて来たが、その頭脳労働もAIに取って代わられるとなると、大きな顔はしていられなくなる。AI社会を生き延びていくのは、頭脳と肉体両者を同時にこなす仕事、つまり自分の頭で考え、発想し、判断しながら自分の肉体を微妙にコントロールすることが求められるような仕事なのかもしれない。

楽しんでみよう

 毎年、新年を迎えると、何とはなしに「今年の課題は何にしようかな」と考えている。そんなことを考えてもすぐに忘れてしまうと思われるかもしれないが、その年の年末にその成果を実感していることも珍しくない。そうした目標は立てなければそれまでだが、立てれば案外効果があるものだ。

 今年は、「嫌なことも積極的に楽しんでみよう」と心がけることにしてみた。仕事でもプライベートでも面倒なことがあればイライラする。理不尽なことがあれば怒りを覚える。将来のことをあれこれ考えればさまざまな不安に襲われる。時間に追われて焦っていることも多い。病気になれば苦しいだけでなく、計画がぶち壊しになることもある。

 だが、物事をネガティブに考えてもろくなことはない。しかも、冷静に見てみると何もそれほど不愉快にならなくて良さそうな場合が多いのだ。もちろん不愉快なことは不愉快だ。問題はそれを引きずるかどうかだ。その際、単に切り替えると行っても難しいので、いっそ開き直って「楽しんでみよう」と心がけてはどうかと考えたのである。

 思えば昔に比べて最近は不愉快なことが増えたような気がする。それを自分の置かれた環境のの変化に帰すこともできるだろう。だが、そうした外的要因ではなく、自分の精神的なフレキシビリティーが低下しているからではないのか。老化現象?アンチエイジングでは肉体の若さばかりに目がいくが、実は精神の若さこそ大切なのだ。

 オリンピックが近づくと、「演技を楽しみたい」という選手の言葉をよく耳にするようになる。そもそもその競技を始めそれまで続けてこられたのは楽しかったからに違いない。練習で上達するのも楽しいことだ。それがいつの間にか成績や勝敗にこだわりすぎるようになり、本来の動機を忘れてしまい勝ちだ。オリンピック本番という修羅場で「楽しむ」というのは、僕のようにすぐに緊張してコチコチになる人間からは信じ難いが、護りに入り勝ちな精神状態を攻めに転じさせるためには、「楽しむ」という心構えが武器になるのだろう。

 もっとも僕の場合、そんな高度な精神コントロールをしようとしているわけではない。また、本当に大きな悲しみや困難に直面した場合なども想定していない。あくまでも気持ちの持ちようで気分が変わるような場合を前提としている。

 例えば、何か理不尽なことに直面した場合、「許せない」と心の中で繰り返せば繰り返すほど怒りは大きくなっていく。自分で怒りを増幅させているのである。正義感が強い人ほどその傾向は強いかもしれない。こうした場合、理屈で自分を納得させようとしても無理だ。むしろ感情的にできるだけ踏み込まず、意図的に忘れる努力が必要となる。

 だが、単に忘れると言ってもなかなかできるものではない。では、それをむしろ積極的に楽しんでしまってはどうか。何をどれだけ楽しもうが本人の勝手だ。理由などなくても良い。意外にも何でも楽しもうと思えば結構楽しめるものだ。

 はたして今年はどれだけ楽しめるだろうか。

今に未来のためだけに使うな

恩田陸の「夜のピクニック」の中で、高校生である主人公の融に対して親友の忍が、「今を未来のためだけに使うべきじゃない」と助言するシーンがある。母子家庭の融は、大学受験が終わるまでは恋を含めて青春をエンジョイすることをストイックに避けてきた。これまでそうした融を身近に見てきた忍は、夜を徹して80km歩く高校生活最後のイベント「歩行祭」の折に親友に対して永年の思いを伝えたのである。
それを読んだ時、ふと、自分も随分未来のために今を使ってきたものだという思いが頭をよぎった。思い起こせばすでに小学校の頃から将来の受験が頭の上から重くのしかかり、それが終わるまでは我慢だという思いが常にあったのを覚えている。だが、受験が終わっても重しが消えるわけではなかった。備えるべき未来はその後も次々と現れたのだ。
もちろん将来に備えることは大切だ。だが、将来のことばかり考えていると、その将来が来てもさらにその先を考えなければならなくなる。その結果、いつまで経っても今に目が向かない。ある時期にそれはおかしいと気がつき、今をもっと大切に生きようと思ったことがある。だが、それが少しできるようになってきたのはごく最近のような気がする。
ところで、最近はマラソンやサイクリングが大ブームだ。これは上達することに充実感があるからだろう。特に上達がタイムという形でわかるのは大きい。人には向上心があり、たとえ今は苦しくてもそれによってタイムが上がるなら頑張れるのだ。
だが、一方で上達中毒とも言える状態になっている人も少なくない。本来、健康のために走り始めた人が、いつのまにかタイムに執着し、逆に身体を壊す場合も珍しくない。将来の好タイムのために今の苦しさを我慢するうちに、いつのまにか「未来のために今を使っている」状態に陥っていないだろうか。
ところで、冒頭の助言を読んだ際、一方で最近は今を未来のために使おうという意識が薄れてきていることに思い当たった。むしろこれまで蓄積してきたものを全て投入し、今やれるだけのことをやろうとしている自分に気がついたのだ。歳を取ったせいだろうか。今日できることが明日もできるとは限らない。もはや未来のために今を使っている場合ではないと感じ始めているのかもしれない。
以前、ピアノで手首の使い方がわかってきたという話を書いたことがある。もちろんそれにより上達したのは事実だが、むしろ理にかなった気持ちのいい弾き方がわかったことの方が重要なのだ。おかげで練習によって音楽の魅力に直に手で触れることができるようになり、上達はその後で自然について来るようになったのだ。
先のことばかりを考えず、今この瞬間をどうやって生きるかに目を向けると、これまで見えなかった世界が見えて来る。必死で未来を追っている時には想像もできなかった世界がそこには広がっている。先を見ていた視線を足元に落としてみるだけで、案外人生は大きく変わるのかもしれないのだ。

覚悟

 先日帰省した際、「死ぬのはやっぱり怖いなあ」と母がため息交じりに何度か繰り返した。 

 これまでやりたいことはやって来た。人生には満足している。だが、このところ体も衰え、この先、生きていてもあまり良いことはなさそうだ。毎日、他人の世話になるのも辛い。もう思い残すことはない。そう自分に言い聞かせ死を受け入れようと思った瞬間、想像以上の恐怖に襲われたのだ。

 死への恐怖は、死ぬ間際の苦しさに対する恐怖と、死後、自分が消滅することへの漠然としたした恐怖の2つに分けられる。前者に対しては医学の進歩により緩和されるかもしれない。しかし、自分の存在がなくなるという恐怖に対してはそう簡単にはいかない。

 しばらく前にサーチュイン遺伝子というのが話題になった。その遺伝子のスイッチを入れると人類の寿命は一気に120歳くらいまで伸びるという。現在、世界中で多くの人がその実現を待ちわびているようだが、死をいくら先延ばしても死への恐怖はなくならない。

 ところで、こうした死への恐怖は人間独特のもので、犬や猫が将来の死を思い悩んで苦しむという話は聞いたことがない。なぜ、彼らには死への恐怖がないのだろうか。いや、逆になぜわれわれは死が怖いのだろうか。ひょっとしたら、本来怖くもないはずのものを恐れているだけなのかもしれない。

 死刑囚が苦しむのは、いつ告げられるかわからない刑の執行が彼らに常に死を意識させるからだ。一方、人を助るために自らの命を投げ打つ人がいる。彼らは決して死に対する恐怖が小さいわけではないが、助けなければという強い決意が死を恐れる暇を与えないのだ。死への恐怖は死を意識した際に想像によって生まれるものであり、人間だけが死を恐れるのは、そうした想像力は人間にしかないからだろう。

 かのモーツァルトは毎夜眠れないほど死の恐怖に取り憑かれていたという。彼が偉大な作品を生み出すことができたのは、作曲だけが死の恐怖を忘れさせてくれたためかもしれない。ただ、その彼も宗教音楽では多くが未完に終わっている。だが、それらは恐ろしいまでの緊張感に満ちているのだ。彼は音楽の中でその才能の全てを傾け死と対峙したが、ついにそれを克服することはなかったということだろうか。

 とはいえ、宗教音楽も含めモーツァルトの音楽が信じられないほどの精神的な高みに達することができたのは、彼が死を強く意識していたからに違いない。そもそも死は克服しなければならないものではない。死とどう向き合うかということが彼以外にも多くの天才の想像力を刺激し、人類に多くの芸術的遺産を残してきたのである。

 凡人にとっても死は限りある人生を充実させるための貴重な道標だ。ただし、そこから逃れようとすれば恐怖に取り憑かれてしまう。結局のところ、いつかはやって来る死に対して毅然とした覚悟を持って生きて行くしかないのではないか。