モーツァルトの魅力(5)モーツァルトの「音」

 大学の頃、あるファミリーコンサートに行った時のことである。人気のオペラ歌手と市民オーケストラのジョイントで、プログラムは子供でも楽しめるように有名なモーツァルトの名曲と親しみやすいポピュラー音楽で構成されていた。

 最初に、あるポピュラー音楽をオペラ歌手がオーケストラの伴奏で歌った。その時は特に何も思わなかったのだが、次のモーツァルトのアリアが始まって愕然としたのである。前の曲とは「音」が全く違うのだ。

そのポピュラー音楽は、こうしたコンサート向きに編曲されたものだろうが、編曲と言っても原曲の雰囲気を壊さない程度のもので、特に工夫があるわけではない。一方、モーツァルトの曲はオリジナルである。そこでは音符の一つ一つに天才の意識が通っている。意図する音を出すためにどの楽器にどのような旋律を割り当てるか、一音たりとも疎かにされていない。違いがあるのは当然だった。

だが、その時、僕を驚かせたのは、単なるクオリティーの問題ではない。通常、オーケストラの伴奏で歌を歌えば、オーケストラの音と歌声が同時に聴こえる。それだけのものだと考えるのが普通だ。しかし、モーツァルトではそうではなかった。どんな魔法が使われたのか知らないが、そこには想像もしない別の「音」が鳴っていた。確かに、耳では歌声とオーケストラは独立に聴こえているのだが、頭のなかでは違う「音」が鳴っているのだ。これは一体何なのだ。魔法の正体をつかもうとしたが、よくわからなかった。

もちろん、いろいろな楽器の絶妙な組み合わによって、素晴らしい音を創りだすことはできる。しかし、このときの「音」はそうして生まれたものではない。むしろ、歌声とオーケストラの音が何らかの調和に達することによって生まれたものだ。ただし、どのようにしてその調和を生み、そしてその調和がどのようにして新たな次元の「音」を生むのかはわからない。だが、モーツァルトが意図的にやっていることは確かだ。彼は必要かつ最少の音でそれを実現する術を知っていたのである。

この「音」は、歌舞伎などの芸にも似ている。芸を観る目のない者には、何が面白いのか皆目わからない。しかし、目利きになればなんでもない所作にも、至高の芸が隠されていることがわかってくる。

とにかく、それまでモーツァルトを聴くときに聴こえていなかった「音」が、急に目の前にはっきり現れたのである。こんな素晴らしい世界があるのだ。そしてそれは自分の目の前に無限に広がっているののである。

その後、モーツァルトを聴く際には、「音」に耳を澄ますようになった。そしてベートヴェンやチャイコフスキーなど他の作曲家の音にも耳を傾けてみた。だが、そうした偉大な作曲家といえども、モーツァルトの「音」に匹敵するようなものは見いだせなかった。

モーツァルトにとって、その「音」はごく日常的なものだったかもしれない。しかし、だからこそこの「音」に天才モーツァルトの神髄があるように思えるのである。

モーツァルトの魅力(4) ピアノ協奏曲23番

モーツアルトの音楽は、器楽から交響曲、オペラ、宗教音楽と多岐に渡っているが、中でも最も重要な分野の一つがピアノ協奏曲である。モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あるが、特に20番以降の作品は、彼の全作品の中でも最高の水準を誇っている。

モーツァルトは生前、作曲家であると同時に当代随一のピアニストでもあった。ピアノ協奏曲は、その彼が自ら主催した演奏会において、自分自身で演奏するために作曲されたものなのである。そのことは明らかに作曲にも影響しており、彼の他の作品に比べても高揚感や即興性が特にリアルに伝わってくる。

一般的にピアノ協奏曲というのはピアノ対オーケストラ全体の対決構造になっている。しかしモーツァルトの作品では、オーケストラの各楽器があたかもオペラの登場人物のようにそれぞれ個性的な役割を与えられ、主人公であるピアノと絶妙の駆け引きを繰り広げる。一方、ピアノも弦のピチカートと絡んだり、クラリネットを引き立てるために裏に回ったりと縦横無尽に駆けまわる。自ら鍵盤の前に座るモーツァルトの細やかな気遣いが伝わってくる。こうしたオーケストラとピアノの関係は各ピアノ協奏曲によって異なり、全く違った世界を描き出しているのである。

そうしたピアノ協奏曲に中で、僕が特に好きなのが第23番K488だ。この曲はオーケストラの各楽器とピアノの絡み合いが特に絶妙だ。そのために彼は、通常のピアノ協奏曲ではオーケストラとは別に必ずピアノに与えられるはずの独立した主題を思い切ってなくしてしまっている。その結果、各楽器同士の心情的な関係がより深く緊密になっている。

楽器同士のメロディーのやり取りは、ときには粋なハーモーニーを歌い上げたかと思えば、ときには敬意を持って相手を称える。そしてまたあるときには励ますように友人の背中を押すのである。

そうしたやり取りは決してその場だけの思いつきではない。一つ一つの表現は曲全体の構造をしっかりと担っている。1楽章と3楽章の主題の緊密な相関が示すように、この曲では、曲全体の統一感が際立っているのだ。通常モーツアルトの作品ではほとんど見られない綿密なスケッチがこの作品では残されていることからも、当時、ウィーンで人気の絶頂にあったモーツァルトのこの曲にかける自信と意気込みが伝わってくる。

僕はこの23番の中でも第3楽章が最も好きだ。この第3楽章のために1、2楽章が周到に準備されていると言っても過言ではない。かつて学生の頃、僕はこの第3楽章を聴くたびに、ああ、自分はこれから一生生きて行っても、これ以上の幸福感に出会うことはないだろうと感じた。今もそれは変わらない。だが、それがどういう気持ちなのか、未だにうまく言葉にできない。幸福感というのは正確ではない。あえて言うなら愛に満ちているとでもいうのだろうが、愛という言葉から想像されるよりずっと多様で、屈託のない、しかもわくわくさせられるような歓びに満ちた世界がそこにはあるのだ。

モーツァルトの魅力(3)『プラハ』

モーツァルトの交響曲は41曲あるが、その最後の3曲は3大交響曲と呼ばれ、モーツァルトの天才の証として永年讃えられてきた。僕自身にとってもモーツァルトの凄さを最初に思い知ることになった思い出深い名曲だ。しかし、実はこの3曲に引けを取らない、あるいはそれ以上の魅力を湛えた交響曲がある。第38番の『プラハ』である。

3大交響曲は確かに素晴らしいが、そこには何か博物館の作品のような距離感がある。それに比べ『プラハ』の魅力は、まるで女性の魅力のように直に伝わってくるのだ。

モーツァルトの交響曲の中でも『プラハ』は特に複雑な構造を持っている。それは、人間の心に潜む多様で微妙な感情を扱うために、さまざまな音楽的技術の融合が図られた結果である。

モーツァルトの時代にはソナタ形式に代表される和声音楽が全盛だったが、バッハ以前に遡ると、複数の旋律を同時進行させる対位法音楽が主流だった。モーツァルトは、和声音楽にこの対位法を取り込もうとずっと腐心していた。3大交響曲の最後を飾る『ジュピター』の終楽章は特に有名だが、他にもK387の弦楽四重奏曲や後期の2曲のピアノソナタなどさまざまなところで和声と対位法の融合を試みている。だが、それらの作品には実験的な試みとしての特殊さが残っている。また、それが魅力でもあったのだ。

しかし『プラハ』では、対位法は和声の中にすっかり溶け込んでいる。複数のメロディーがそれぞれ自らの主張を奏でたかと思えば、たちまち一体化し絶妙なハーモニーを響かせる。そうした対位法と和声の融合により新たな音楽的な構造が生み出され、命を吹き込まれて自律的に動き出す。『プラハ』ではその様子が手に取るように伝わってくる。

さらに、短調と長調が複雑に絡み合い、曲全体が襞のある感情表現に覆われているのも『プラハ』の大きな特徴だ。長調は明るく短調は暗いというような単純な世界はもはや通用しない。明るい中にも陰りがあり、深刻さのなかにも歓びはある。しかも、常にこうした微妙で深い心理を追求しているにもかかわらず、けっして難解ではない。表現は極めて的確で説得力がある。

当時、モーツァルトはオペラ『フィガロの結婚』を成功させ、次の『ドン・ジョバンニ』の構想を練っていた時期だ。そもそも『プラハ』という名前は、『フィガロ』のプラハ初演の際に演奏されたことに由来している。ストーリーとセリフがあるオペラでは交響曲に比べて感情表現はより生々しくなり、舞台での掛け合いではさまざまな音楽的な表現がぶつかり絡み合う。オペラはモーツァルトにより高いレベルの音楽を要求し、モーツァルトはそれに応えるために一段と成長する必要があった。

形式的な構造美を追求する交響曲という音楽に、さらにオペラにも優る人間の多様な感情を吹き込むことも、またモーツァルトらしい夢だった。そのために当時のあらゆる音楽技術を注ぎ込んだ傑作、それが『プラハ』なのである。

モーツァルトの魅力(2) 小林秀雄の「モオツァルト」

30年ほど前にアメリカを1ヶ月ほど旅したことがある。その時、最初に訪れたニューヨークで、ある若い指揮者に1週間ほどお世話になった。アメリカという競争社会で日本人指揮者が生き抜いていくのは並大抵のことではない。ニューヨークの聴衆の関心を引き止め続けるのがいかに難しいか、思わず彼の口を突いて出ることも珍しくなかった。

そんなある時、彼は1冊の本を手にして、「やっぱりこれが一番だ」と言う。僕は目を疑った。それは当時、自分の特別な愛読書だった小林秀雄の「モオツァルト」だったのだ。演奏に際して日夜膨大な資料を研究しているが、モーツァルトへの新鮮な思いを蘇らせてくれるのはこの本だけだという。音楽の専門家である彼の口から、しかも初めて来た外国の地でそのような話を聞くとは思いもよらず、僕は何か運命的なものを感じていた。

ニューヨーク滞在の最後の夜、その指揮者に誘われてカーネギー・ホールのコンサートに出かけた。前半の演奏が終わり、休憩時間にその日の演奏について彼が饒舌に語っていると、奥さんが遅れて駆けつけてきた。そして、「小林秀雄さん、亡くなったね」とボソリと伝えたのだ。小林秀雄は最後に僕に何かを伝えようとしてくれたのだろうか。後半の演奏を聴きながら、様々な思いが頭のなかをグルグル回り続けた。

小林秀雄の「モオツァルト」は、芸術批評の本質に関わるものであり、モーツァルトだけの話に終わらない。しかし、少なくとも全編にわたり彼の心に響く豊かなモーツァルトの音楽が垣間見える。それが僕自身のモーツァルト遍歴の道標となってきた所以なのだ。

「ト短調のシンフォニーの有名なテーマが突如として頭の中で鳴った」というくだりは非常に有名だが、重要なのはその後に、「今の自分は(20年前の)その頃よりもこの曲をよく理解しているだろうか」と自問していることである。歳を重ね知識が増えるにつれ、頭による音楽の理解は進む。しかし、自分の心がモーツァルトの音楽に本当に共鳴しているかということになると疑わしい。彼にとって信じられるのは自らの感性だけなのだ。こちらも歳をとったせいか、今読むと身につまされる思いがする。

「モオツァルト」は、小林自身を語ったものだとしばしば言われる。確かにそうとも言えるが、彼の内には非常に豊かなモーツァルトの世界が存在していたことは間違いない。僕が永年モーツァルトを聴き、またピアノで弾くことにより新たな発見をするたびに、実はそれはすでに小林が言っていたことだったと気がつくことが珍しくないからである。

モーツァルトの創造の秘密に迫るために、彼は当初から分析的なアプローチが不可能であると心得ていた。「人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だ」という彼が引き合いに出したゲーテの言葉どおり、小林自身もからかわれて終わるのが落ちだ。しかし、モーツァルトの音楽との対峙は次第に彼自身のラプトゥス(熱狂)に火をつけた。それに身を任せ、自らの創作に没入することで、初めてモーツァルトを表現する術が見えた。自らを語ることによってのみ、モーツァルトの懐に飛び込むことができたのである。

モーツァルトの魅力(1) 「即興性」

先日、旧友と話をしている時、ふと「モーツァルトとの出会いは僕の人生にとって最大の事件だった」という話を始めた。普段はそんな話をしても誰も乗ってこないのだが、彼は関心は予想外に強かった。

中学の頃、僕は突如としてクラシック音楽を聴き始めたのだが、当時、その友人は僕がなぜそんなに夢中になっているのか不思議でたまらなかったらしい。さらにそういう僕に対して一種の羨望すら感じていたと言うのだ。そして、それから40年間、彼にとってクラシック音楽に情熱を燃やす僕の存在は大きな謎だったのである。

彼の疑問はシンプルだった。モーツァルトのどこがそれほど面白いのかということである。かつては自分の音楽の趣味について、誰かれかまわず熱く語ったものだが、そうしたことがなくなって久しい。その機会が思わぬ形で再び巡ってきたのである。彼との間に深い縁を感じつつ、同時に熱い情熱が蘇って来た。

これまでも、何度かモーツァルトについて書いたことがある。しかし、音楽の魅力を言葉で語ることは難しく、何かのエピソードを交えた解説のような文章になりがちだった。友人はそんな通り一遍の説明ではなく、僕自身の生の思いを聞きたがった。それならばと言うことで、無理を承知で独断と偏見に満ちたモーツァルト論に挑んでみることにした。

モーツァルト好きにとっては異論がないと思うが、彼の音楽の最大の特徴はその「即興性」にある。モーツァルトといえば淀みなく耳に心地良い音楽というイメージが強い。だが、実際には彼の音楽は飛躍に満ち、予想できない展開の連続なのだ。天気のいい日にピクニックにでも来ているようなうららかな主題で始まったかと思うと、なんの前触れもなく、突如、深刻なメロディーに変わっているといった具合だ。

だが、そうした飛躍が不自然な感じをいだかせることは決してない。聴く者の感情は確かにその突然の変化に反応しているのだが、それを当たり前のこととして受け入れている。急な変化があったことにすら気がつかない。気まぐれな展開がまるでマジックのように自然につながって行くのだ。恐らく人間の気持ちは本来気まぐれなものだと言うことだろう。モーツァルトはそうした人の心の本質を知っていた。正確に言うならば、彼は音楽によってなら人の心を自在に表現する術を知っていたのである。

気まぐれというのは、決してでたらめということではない。そこには感情を支配するある種の必然が貫いている。苦しみがあればそれを乗り越えようとする。喜びは周りの人への愛となることで成就する。また、不幸を受け入れることで人の心は澄わたっていく。その息もつかぬ変化の連続が、聴く者に鳥肌の立つような感動をもたらすのだ。

だが、彼の即興は即興では終わるわけではない。即興的な展開は次第に壮大なドラマに発展していく。そしてそれが堅牢で完璧な姿を現した時、われわれは初めてその即興の意味を知ることになるのである。