原子時計

 先日、高校の同窓会で原子時計を研究している同窓生に会った。われわれが普段、何気なく用いている1秒や1時間という単位は、元々地球の自転周期を何等分かしたものだが、その後、地球の自転周期には変動があることがわかり、1967年以降は原子時計による原子時が基準となっている。 

 現在、正確な時計には例外なく何らかの周期的な現象が使われている。最初に時計に利用された周期的な現象は振り子である。振り子時計はゼンマイを動力として振り子が1回触れるごとに歯車が決まった角度だけ回転しそれで針を動かすことができるようにしたものだ。

 振り子の揺れる周期は振り子の長さだけによって決まり、揺れ幅やおもりの重さには依存しないため、周期の調節が楽で使い勝手がいい。だが、持ち運びには不便だ。

 そこで懐中時計や腕時計では振り子の代わりに渦巻き状のバネにつけられたテンプと呼ばれる輪っかの往復回転運動を用いる。振り子やテンプの周期は数秒から0.1秒程度なので、それを用いて測定できる最短の時間もその程度である。

 こうした機械式時計に比べて大幅に精度を高めたのが水晶振動子を用いたクォーツ時計だ。薄い水晶の板に交流電圧をかけるとある周期の時に共振が起きる。この周期を電気的に検出して振り子の代わりに使う。クォーツ時計の水晶振動子の周期は32,768分の1秒と短く、機械式時計に比べてはるかに短い時間を測ることができる。また電気的に信号を取り出すため誤差が少なく精度も大幅に上がった。

 さらに精度が高いのが原子時計で、現時点では最も正確な時計である。セシウム原子にマイクロ波(光の波長を長くしたもの)を照射すると、マイクロ波の振動が1秒間に9192631770回になった時、セシウム原子がマイクロ波のエネルギーを吸収し共鳴が起きる。その時のマイクロ波の振動を振り子の代わりとして用いることで、原子時計では数千万年に1秒という高い精度が得られている。

 それにしてもそれほど正確な時計を必要とする場合があるのだろうか。距離、質量、時間というのは最も基本的な3つの物理量だ。その中で今では時間の測定精度が最も高い。そこで距離の測定にも時計が用いられている。アインシュタインの光速不変の原理により光の速度は常に一定だ。そこで光が進んだ時間を測れば、その距離が正確にわかるわけである。

 カーナビやスマホで自分がどこにいるか知るために使われているGPSGlobal Positioning System)では、まさにその技術が使われている。GPSでは最低3つの人工衛星からの電波(光と同じ電磁波の一種)をカーナビが受診するまでの時間を衛星に搭載された原子時計で測りそれぞれの衛星までの距離を求めてそこから位置を割り出しているのだ。カーナビの技術は原子時計によって成り立っているのだ。

 かつて振り子時計の発明により天体観測の精度が上がりニュートン力学の誕生につながったが、現在も時計の進歩はさまざまな分野で科学技術を支える鍵となっているのである。

 

AIが生み出す未来

 最近、I o Tという言葉をよく目にするようになった。身の回りの様々な製品が次々とインターネットにつながることで、われわれの生活が大きく変貌を遂げようとしている。

 I o Tは単に製品がネットにつながるだけの話ではない。自動車の自動運転は、自動車という従来の製品をネットを通じて制御することで実現するI o Tの代表的な例だが、ネットの向こうではコンピューターに搭載されたAI(人工知能)が運転中に得た情報を迅速に処理し、危険を回避するための指示を常に自動車にフィードバックし続けているのだ。

 街中で人型ロボット「ペッパー」が店頭に立ち接客をしている光景を目にすることがある。だが、人が彼に話しかけた言葉はペッパーに内蔵されたコンピューターで処理されるわけでない。ネットでつながれた先のAIが処理しているのである。つまり最近のI o Tの進歩はAIの急速な進化に支えられているのだ。

 ネット通販で何か買おうと検索すると、その後、画面に鬱陶しいほどその関連情報が表示される。われわれがパソコンやスマホでどのサイトを覗いたかは全てGoogleなどに情報として蓄積される。ネットの向こうのAIはそうした情報からその人が何に興味がありどのような生活をしているかを分析し、その人に必要な情報を広告として提供する。さらにその広告の効果を分析・学習することで、随時、より効果的な広告の打ち方を見出していくのだ。

 薬を検索すれば、その人が健康上何らかの問題を抱えているということがわかるが、それにあわせてサプリメントや運動器具を勧めるだけでなく、年齢や家族構成、他に何を検索しているかなどを総合的に分析し、ストレス解消が必要だと判断すれば、例えば薬とは一見関係のない旅行を勧める場合もありうる。

 さらにI o Tによってわれわれが日頃使ってきた製品がネットにつながるようになると、パソコンやスマホだけでなくその製品を通じてさまざまな情報がAIに吸い上げられる。健康管理を助けるI o T機器を使えば、われわれの体温、血圧、さらには睡眠中の寝返りの回数やいびきの大きさまで、日夜、AIに蓄積され分析される。自動運転車に乗れば、いつどこに行き何を買ったかも全て記録されるのだ。われわれの生活に関わる全てのデータがI o Tによって記録されAIによって分析・把握されサービスに反映される。さらに、そのサービスに対するわれわれの反応を分析・学習してサービスの質を限りなく改善し続けるのである。

 そうした情報収集・学習はまだ始まったばかりだが、そう遠くないうちに本人よりもAIの方が自分のことを詳しく知るようになりそうである。AIはわれわれの健康を管理し、人間関係の相談に乗り、注文しなくても必要なものを手元に届けてくれるようになるのだ。

 AIによって世の中がどう変わるのかは想像がつかない。ただ、生活の利便性が高まるだけには留まらないことは確かだろう。例えば、選挙の投票行動に影響を与えたり、株や為替相場などにも深く関わってくるかもしれない。どこかの国の大統領選やその後の金融相場の予想外の動きなどを見ると、すでにAIの影が忍び寄っているのかもしれない。

人口知能

 先日、グーグル傘下のディープマインド社が開発した人工知能囲碁ソフト、アルファー碁が、世界最強囲碁棋士の一人であるイ・セドル9段との5番勝負に4勝1敗で勝利した。

 これにより、とうとう人工知能が人間の知能を凌駕する日が来たと嘆く声が聞かれる一方、すでに将棋ではプロ棋士に勝っている人工知能が囲碁で勝っても不思議はないという意見もあった。人工知能と一口に言ってもその意味は曖昧で、今回の結果をどのように評価すべきかは、一部の専門家を除けばよくわからないというのが正直なところではないだろうか。

 チェスにおいては20年ほど前にすでにコンピューターが世界チャンピオンに勝利しているが、その際、コンピューターはあらゆる手筋をしらみつぶしに計算した。しかし、囲碁や将棋においてはチェスに比べて指し手のパターンがはるかに多く、コンピューターといえども全てを読み切ることはとてもできない。そこで登場するのが人工知能の技術だ。先を読む計算に加えてコンピューターに過去の膨大な棋譜を記憶させ、それを参考にしての各局面を判断し最善と思われる手を打っているのである。

 こうした話をすると多くの人が、人工知能は自らの知識で状況を判断しているのだと思うだろう。だが、実はその判断基準を決めているのは人間なのである。あらかじめ様々な局面を想定し、打てそうな手を幾つか選び出し、一つ一つにどの程度有利な手か点数を付けておくのだ。その際の人間の判断が、事実上コンピューターの強さを決めているのである。

 当然、この作業は膨大で人間がやれる範囲には限りがある。そのため、将棋においてはこのところプロ棋士並みに強くなったが、さらに指し手のバリエーションが多い囲碁では、コンピューターは最近までプロ棋士には全く歯が立たなかったのである。

 人間に頼らず人工知能が自ら局面の特徴を判断し最善手を見つけ出すことはできないものだろうか。実は囲碁や将棋に限らず画像や言語などの認識においても、人工知能が自ら特徴を見つけ出し学習していくことは苦手なのである。たとえば、人は一度コアラを見ればすぐにその特徴をつかみ、次にコアラを見れば一目でコアラだとわかる。しかし、人工知能ではあらかじめコアラの特徴を人間がインプットしてやらなければならないのだ。この特徴を学習する能力の低さは人工知能の最大の弱点であり、人工知能の利用範囲を著しく狭めてきたのである。

 ところが、2012年にその状況を一変させる事件が起きた。「ディープラーニング」の登場である。トロント大学のJ・ヒルトン教授が開発したこの方法により、人工知能が自ら特徴を見つけて学習する能力が飛躍的に高められた。その効果は絶大で、囲碁ソフトは専門家も驚くほど急速に強くなったのである。

 ディープラーニングは、現在、人工知能に革命を起こしつつある。それは囲碁に限らず、自動車運転の自動化のような劇的な変化を日常生活に引き起こすと考えられている。われわれは、今、人類史上稀に見る変革の時を迎えつつあるのかもしれない。

宇宙と生命

 火星に探査機キュリオシティーを送り込み、初の地球外生命の発見を目指していたNASA(米航空宇宙局)は、先日、「火星には現在生物が棲息している可能性は低い」と発表した。火星表面の大気から生命が存在するなら観測されるはずのメタンが検出できなかったからだ。過去には存在したかも知れないということだが、今回の結果は多くの研究者を失望させたに違いない。 

 現在、地球外生命に対しては相反する2つの仮説が存在する。一つは、宇宙広しといえども生命は地球にしか存在しないというもの。もう一つは、この宇宙の至る所に生命が存在するというものだ。

 前者の根拠は以下の通りだ。生物は無生物からは生まれない。となると最初の生命はどのように誕生したのか。生命の最小単位は細胞だが、化学反応で細胞が自然に生まれるとは考えにくい。事実、この地球においても現存するあらゆる生命は最初に現れた一つの細胞から進化して枝分かれしたもので、その後数十億年にわたり新たな細胞が発生した形跡はないのである。生命がそう簡単に誕生するものでないことは明らかで、そもそもこの地球に生命が存在すること自体が奇跡的なことなのだ。

 一方、とにもかくにもわれわれ生命は存在しているのだから、この宇宙のどこかで生命が誕生したことは確かだ。それが地球である必要はない。宇宙のどこかで生まれた生命、あるいはその元となるものは宇宙をさまよっており、さまざまな環境に降り立ち独自の進化を遂げているのではないか。もしそうだとすれば、生命は宇宙のいたるところにいる可能性がある。

 最近の研究から、生命は想像以上に過酷な環境にも適応できることがわかってきた。宇宙から飛来した生命が進化するだけで良いなら、火星に生命が存在する確率はぐっと高くなる。火星で最初の地球外生命を発見できるのではないかという期待は、近年、急速に高まっていたのである。

 ところで、地球に最初の生命が誕生したのは37億年程前だとされている。これは宇宙の年齢137億年に比べても決して短い時間ではない。さらにこの生命の元が地球外から来たとすれば、その歴史はさらに過去に遡ることになる。初期の宇宙で生命の元が生まれたとすれば、生命の誕生と進化はこの宇宙が存在する主要な目的なのかもしれない。

 そもそも、もし宇宙に生命がいなければ、この宇宙を認識するものはいない。誰にも知られることがなければ、宇宙はいったい何のために存在しているのだろうか。「存在」とは、認識されて初めて成り立つものではないだろうか。この宇宙が「存在」するためには自らを認識してくれる生命というものがどうしても必要なのではないだろうか。

 最初の生命はいかにして生まれたのか。もしそれが宇宙自体の存在の意味に関わっているとしたら、その謎は簡単には解けそうもない。

霊的なものと科学

 毎年夏になると、お盆にちなんで死者の霊に関連したテレビ番組を目にする。先日、NHKで放映された「シリーズ東日本大震災亡き人との再会」でも、震災で突然大切な人を失った人たちの亡き人への強い思いが引き起こすさまざまな不思議な体験が紹介された。

 幼い息子を亡くした母は、時が経っても悲嘆にくれる毎日から抜け出せずにいた。ところが、震災から2年を経たある日、息子が使っていたオートバイ型の三輪車の警笛が傍らで突如鳴り響いた。彼女は即座にそれが息子が自分に送った「近くにいるから心配しないで良いよ」というサインだとわかった。それをきっかけに彼女は息子の存在を身近に感じられるようになり、久しぶりに晴れやかな笑顔が戻ったのである。

 現代ではこうした体験は心理的なものだと片付けられるのが普通だ。あまりにも強く息子との再会を求める母の気持ちが、偶然起きたアクシデントを息子の霊と結びつけ、自らの心理に変化を引き起こしたのだ、と。だが、そうした考え方は果たして正しいのだろうか。

 現代は科学の時代だ。もともと科学は迷信などの弊害から逃れるために発達してきた。各人の思い込みを排し客観的な事実のみを信じることにより、人々を理不尽な迷信から解放し、同時に人類にかつてない繁栄をもたらしてきたのだ。その結果、霊のようなものは科学的とされ、次第に表舞台から消え、今では公に口にするのもはばかられるようになった。たとえ今のところ科学で説明できないことがあっても、それらはいつかは説明されるはずであって、下手に霊の話など持ち出せば見識が疑われかねない。

 しかし、本質的に科学では答えられない問題もある。例えば、死と意識の問題だ。死ぬと自分の意識はどうなるのか。死ぬと意識も消えるというが、そもそも自分に意識がない状態というのはどういうものなのか。脳科学は人の意識と脳の働きを対応づけられるかもしれないが、死ぬと自分の意識がどうなるかという疑問には、結局、答えられない。「我思う故に我あり」というのは科学的な答ではないのだ。

 客観的な現象についても科学で全て説明できるわけではない。生命現象を始め科学で説明できないことはいくらでもある。にもかかわらず、すべてが科学で説明できるはずだと考えることは、言わば「科学原理主義」で、現代人はそこから抜け出せなくなっている。それは実は科学的ですらない。

 もし、死者の霊に静かに耳を傾ければ何か聞こえるかもしれない。そしてそれが自分を慰めてくれるかもしれない。死者だけではない。耳を澄ませば、神も何かありがたい啓示を与えてくれるかもしれない。科学ではないから再現性は期待できない。他人に何か証拠を見せることもできないだろう。だが、そうしたことを抜きにして果たして現代人は真の安らぎが得られるのだろうか。死と正面から向き合うことができるだろうか。

 科学的でないものにどのような態度で臨むかということは、科学の時代だからこそ真剣に向き合うべきテーマではないだろうか。