時間とは何か2-時間の相対性

アインシュタインの相対性理論によれば、自分の前を通り過ぎる人の時計は自分の時計よりゆっくり進む。彼はこの宇宙で時間の進み方が一様ではないことを示した。

振り子の等時性を始め多くの物理法則を発見したガリレイは、時間を測るために自らの「脈」を用いた。時計というのは周期的な運動がどれだけ繰り返されたかをカウントし表示する機械だ。振り子時計では、振り子が振れるたびに針が進み、その針が示す目盛りでどれだけ時間が進んだかを知ることができる。

ガリレイの後、ニュートンはこうした時計の動きと物体の動きの「比」を取ることで速度という概念を導入し、運動を数学的に扱うことに成功した。彼は時間が何であるかについては深入りしていない。暗黙のうちに、われわれが漠然と感じていた時間を時計の針が指し示す数値にそっと置き換えたのである。

ニュートンは、十分に正確な時計は宇宙のどこでも同じように動くと考えた。つまり時間は宇宙のどこでも一様に進むと仮定したのだ。当時、特にそれに文句をつける者はいなかった。しかし250年後、アインシュタインはニュートンの仮定が誤りであると主張した。動いている時計と止まっている時計では進む速さが異なるのだ。

ニュートン力学では、速度の加算側が成り立つ。ダルビッシュが自動車に乗って投げた球は、彼の球速に自動車の速度が加算される。同じ理屈で言えば、走っている自動車のヘッドライトの光は、止まっている自動車から出た光よりも速いはずである。ところが不思議なことに、光の速度は変わらないのである。

アインシュタインは、この「光速不変」という奇妙な現象は、移動している時計の進み方が遅くなると仮定すればつじつまが合うと気づいた。そして「光速不変」を現実として受け入れる換わりに時間の方が相対的に変化する相対性理論を作り上げたのである。

こうして時間は宇宙空間に無数に存在することになった。地球上で人が着けている腕時計は全て進み方が異なる。自分が生きた50年間に自分の親は10年しか生きておらず、親のほうが若くなってしまうというようなことも理論的には起こり得る。これは決して時間がでたらめに進むということではない。自分の時計と他人の時計の進み方の相関は、お互いが相対的にどのような速度で動いて来たか、その履歴により正確に決まるのである。

しかし、時計が遅れるからと言って時間の進み方も遅くなると言って良いのだろうか。注意すべき点は、誰にとっても自分自身の時間の進み方は常に同じだということだ。

そもそもニュートンは、自然界のさまざまな「変化」を観測するための「基準」として時計を用いた。本来主観的な時間感覚を時計という客観的なものに置き換えたのだ。その結果、時間は一人歩きを始め、アインシュタインに至り時間は相対的になったのである。

時間を客観的に扱う物理学は、果たして時間を正しく捉えているのだろうか。あるいは何か大切なものが抜け落ちてしまっているのだろうか。注意して見る必要がある。

 

「不確定性原理」の謎

先日、日本経済新聞の一面に、「物理の基本原則にほころび 『不確定性原理』修正か」いう記事が載った。もともとこの原理は量子力学の創始者の一人、ハイゼンベルクによって1927年に提唱されたものだが、一般の人にはほとんど馴染みがない。にもかかわらずこうした記事が日経一面を賑わしたのは、その衝撃の大きさを物語っている。

「不確定性原理」とは、ミクロの世界では「物の位置と速度を同時にある精度以上に測定することはできない」というものである。これは位置と速度を決めることにより物体の運動を正確に定めることができたニュートン力学に制約を課している。しかし、なぜそのような制約が出てくるのだろうか。ハイゼンベルクの説明は以下のようなものだ。例えば、電子の位置と速度を定めるためには電子に光を当て電子を見る必要がある。しかしミクロの世界では光を当てるという行為自体が電子の速度に影響を与え、結果的に位置を正確に見ようとすればするほど速度が曖昧になってしまうのだ。

ところで量子力学では、電子は「粒子」ではなく空間全体に広がる「波」として表わされる。実はこの「波」で表された電子は、自動的に不確定性原理を満たしている。位置の正確な「波」は速度が曖昧になり、速度が正確な「波」は位置が曖昧になるのだ。

では、この「波」が電子そのものの空間的な分布を表しているのだろうか。そう簡単には行かない。電子は観測すれば決まった電荷を持ったれっきとした「粒子」であり、「波」のように広がっているわけではないのだ。

では、この「波」は何なのだろうか。N・ボーアのグループは、「波」の振幅が電子が観測される確率に対応しているという説を提唱した。空間に分布している「波」は電子自身ではなく、電子が観測される確率の大小を表しているのだ。こうして電子は、「粒子」ではあるが、どこにいるかは確率的にしかわからないということになった。従って、ニュートン力学のような軌道は定まらない。ハイゼンベルクは、このような状態の「粒子」の位置と速度の間に「不確定性原理」が成り立っていることを導いたのである。「不確定性原理」は、量子力学と観測される物理量の関係について述べた原理なのだ。

不思議なことだが、量子力学と観測の関係はこれまでにあまり正確に検証されておらず、ハイゼンベルクの「不確定性原理」が一人歩きしてきた観がある。そこに異議が唱えられても不思議はなかった。今回の報道は、以前から「不確定性原理」の不正確さを指摘していた小沢教授(名古屋大学)の理論が実験的に証明されたというものだった。

「不確定性原理」の背景になっているのは、観測するまではさまざまな可能性を持っている物理量が、観測によって一つの値に定まるという考え方である。これは量子力学を築く上での基礎にもなっている。しかしながら、そのメカニズムはどうなっているのか、それが何を意味するのかは謎のままである。「不確定性原理」は、観測という物理学の基本が何を意味しているのか未だ不確定であることを露呈しているようにも見えるのである。

 

加速する宇宙

宇宙がビッグバンで始まったという説は今では広く知られるようになり、疑いのない事実だと思い込んでいる人も多い。しかし、広大な宇宙がわれわれのごとき宇宙の片隅の生物に簡単にその神秘の姿を明かすことなどあり得るだろうか。

ビッグバン宇宙論の根拠となっているのは、1929年にアメリカの天文学者ハッブルが発見した「地球から遠い天体ほどその距離に比例して速く遠ざかっている」という事実である。彼はその結果を元に宇宙の膨張を提唱した。膨張している以上、かつての宇宙はもっと小さかったはずだ。そこで宇宙がある一点から爆発して始まったと仮定してみると、さまざまな観測データがうまく説明できたのである。

そうなると、膨張を続ける宇宙が将来どうなっていくのかという疑問が生ずる。膨張がビッグバンの爆発の勢いだけで続いているとすれば、重力の影響でその勢いは次第に衰えていくはずである。その結果、2つのケースが予想される。一つは、爆発の勢いが非常に強く、宇宙は速度を落としながらも永久に膨張を続け拡散していってしまうというもの。もう一つは、上に向かって投げたボールがそのうちに落ちてくるように、いつかは重力が勝って膨張は止まり収縮に転ずるというものだ。

このいずれが起きるのかを確かめるためには、宇宙の果てにある天体までの距離と速度を正確に測る必要があった。しかしこれには高度な観測技術が要求され、長い間、いずれが正しいのかわからなかった。だが、21世紀に入りいよいよ決着がつく日が来た。しかしながら、その結果は意外なものだった。膨張は減速するどころか、加速していたのである。

これは上に投げたボールがどんどん加速していくようなもので、重力だけでは説明がつかない。加速するということはすなわちエネルギーが増しているわけで、各天体はどこからかエネルギーをもらってこなければならない。宇宙を加速させるほどだからそのエネルギーは莫大で、何と従来考えられてきた宇宙の全エネルギーよりも大きいと推定されたのだ。従来の理論は全く役に立たない。宇宙物理学者達は困り果て、そのエネルギーに「ダークエネルギー」というミステリアスな名前をつけることしかできなかったのだ。

宇宙の加速がもたらした衝撃は宇宙論に留まらない。物質の根源を解明する理論、素粒子論に対してもその根底を揺るがす発見だった。なぜなら、素粒子はビッグバン以降の宇宙の膨張の過程で生成されたものであり、宇宙を構成する材料そのものだからである。素粒子論と宇宙論は切っても切れないのだ。多くの素粒子物理学者の間には自分達はこれまで何をやってきたのだろうかという虚無感すら広がった。この数十年間、物理学者が努力して築き上げてきた理論が砂上の楼閣のように崩れ去りかねない事態となったのだ。

かつてニュートンは「自分の前には手も触れられていない心理の大海原が広がっている」と語った。その謙虚さに比べ現代の科学者たちは自らの理論は宇宙の果てまでも説明できると考えてきた。しかし、宇宙はそうした驕りをあざ笑うかのように加速し続けている。

科学と欲望

現代人の生活は科学抜きでは考えられない。しかし、先般の原発事故では、われわれが日頃から恩恵を受け依存している科学技術が、実は十分にコントロールされているわけではないと知って衝撃を受けた。さらに、誰が聞いてもおかしい関係者の言い訳を聞くに及んで、人々は科学神話の裏に深刻な病巣が広がっていることに気づいたのである。

西洋の科学はもともとそれが現れる以前の様々な迷信めいたものから逃れたいという科学者の強い願望によって発展してきた。旧来の権威に対して、「地球は太陽の周りを回っている」と胸を張って言えないことに科学者達は苛立ちを募らせていたのだ。しかし、ニュートン物理学が登場するに至って、科学者は自然を語る権利を一気に自分の足元に引き寄せた。人々はこの世界が神の摂理ではなく自然法則によって成り立っているという考え方に目覚めた。かつては無関係な現象と考えられていたことがある法則によって統一的に説明されるのを目の当たりにして、人々は科学こそ真理だと考えるようになっていった。

やがて科学は技術と結びつき、19世紀には世界の工業化を加速する。だが、その結果、世界的な競争が激化することになる。科学は単なる思想的な革命から、人が富を得るための強力な武器となっていったのである。

科学技術が発展し高度化されるにつれて進んだのが細分化である。同じ科学者でも専門外のことは全く理解できなくなった。その結果、様々な専門技術が集結してできている現代の科学技術をひとりの科学者が理解することは全く不可能になってしまった。たとえば自動車は様々な技術の結晶だと言われるが、その全ての素材や素子を完全に理解している技術者は一人もいないだろう。そうした自動車にわれわれは命を預けている。現代社会を支える科学技術という土台は、実はかなり危ういものなのである。

とはいえ、もし自動車の至上命題が安全性にあるなら、ほとんど事故を起こさない自動車を作ることは不可能ではないだろう。しかしながら、自動車メーカーは安全のために自動車を作っているのではない。利益を上げることが目的なのだ。ユーザーも安全性だけでは自動車を選ばない。科学技術のもたらす安全性は常に経済性とのトレードオフに晒されているのだ。

放射性物質が絡む原発の安全性を確保するためには、莫大な科学的な情報と技術力が必要である。しかし原発の場合、巨大事故の実例が非常に少ないため、必然的にデータが足りない。ほとんどの危機対応は机上の計算を元にしている。情報は全く不足しているはずである。しかも安全性を担っているのが、利益を上げることが目的である電力会社と来ては、安全が守られるはずがない。

こうした事情を隠蔽し人々を騙すためにも科学は用いられてきた。御用学者が理解不能な専門用語を羅列し、「科学的データに基づき」と称して説明するときは要注意である。

科学に対する社会の認識を改めるような議論が必要な時期に来ている。

物理学者のおごり

 先日、相対性理論について調べる必要があり、学生時代に使っていた教科書を引っ張り出してきてみた。しかし、ページを開くと当時の自分に対する同情と無念さが沸き起こってきた。その頃はわけがわからず、ひたすらもがいていたが、自分のめざす物理学は、当時の環境ではやりようもなかったのである。

物体の速度というのは、それを測る人と物体の相対的な速度である。同じ野球のボールでも、それに向かっていくのと遠ざかるのとでは速さは異なってくる。しかし、光の速度に関してはこうしたことが成り立たない。どのように測っても常に同じ速さなのだ。19世紀末、物理学者はこの奇妙な現象をいかに説明するかに苦労していた。そこに現れたのがアインシュタインである。彼はこの「光速不変」を絶対的事実として受け入れ、代わりに従来のニュートン物理学に根本的な修正を加えるという英断を下したのである。

こうして生まれた相対性理論からは、常識を覆すさまざまな結果が導かれた。動いている人と止まっている人では時間の進み方が異なり、同じものを測っても長さが違ってくる。アインシュタインは、ニュートン物理学の基礎であった時間と空間の絶対性をあっさりぶち壊したのである。

相対性理論を発表した当時、アインシュタインはその数学的な取り扱いについてはあまり関心がなかった。彼の学生時代の指導教官であり、数学に秀でたミンコフスキーがどんどん理論を発展させるのを見て、「それは数学であって、物理学ではない」と不快感を露わにしたほどだ。彼にとって相対性理論は、物理観の革命である点にこそ価値があったのだ。

しかし、僕の教科書では、彼が光速不変に至る経緯についてはわずかに触れているだけで、大半はニュートン物理学を修正する数学的手法についての説明だ。相対性理論はすでに常識であり、学生の仕事は黙って演習問題を解くことなのだ。

その後、相対性理論はもう一つの奇妙な理論、量子力学と結びつき、相対論的量子力学へと発展して行く。しかし、それが一応の完成を見た1970年代以降、物理学の進歩は行き詰まってしまった。物理学者たちはひたすら完成をもとめて理論を発展させようとしたが、結局、理論自体がはらむ矛盾に動きが取れなくなってしまったのである。本来ならば、光速不変の意味、さらにはニュートン力学の意味を再考してみるべきではないか。しかし、物理学者たちに後戻りする気はなかった。一旦、数学的世界に慣れてしまうと居心地が良いため、物理学者は簡単にはそこから抜け出せなくなる。数学は科学の最大の武器だが、その便利さは真の物理的な思索を怠らせる禁断の果実でもあるのだ。

昨今の原発事故は、科学に対する過信が人類をとんでもない不幸に陥れかねないことを思い知らせた。しかし、そうした過信は、当の物理学にもはびこっているのではないだろうか。自然に対する謙虚さを忘れ科学万能主義に傾けば、物理学自身が成り立たなくなるのである。