自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

 

ファラデーの嘆き

 電気と磁気の効果は現代の科学技術において不可欠である。モーターは電磁気的な力の最も直接的な利用法だ。電波も電磁気的な現象であり、テレビや携帯電話などあらゆる通信技術を支えている。電気を流さなければ動かない現代の家電やIT関連装置も、すべて電磁気的効果の恩恵を受けている。電磁気現象をいかに使いこなすかが、20世紀以降の科学技術の進歩そのものだと言っても過言ではない。

19世紀より前は、電磁気現象の利用はせいぜい方位磁石くらいのもので、電気と磁気の相関も知られていなかった。ところが1820年に、電線に電流を流すと近くに置いた方位磁石が動く「電磁気現象」をエルステッドが発見した頃から、電磁気学は急速に発展し始め、19世紀後半にはニュートン力学と並ぶ物理学における一大分野を形成するに至る。

その過程で多くの物理学者が登場したが、イングランド出身のファラデーとスコットランド出身のマクスウェルの貢献度は別格である。ファラデーはマクスウェルより40歳ほど年長で、マクスウェルが大学を卒業する頃にはすでに物理学会の重鎮だったが、その新進気鋭の若手を尊敬し、マクスウェルもファラデーに対して心から敬意を払っていた。しかし、物理学の歴史においてこの2人ほど対照的な研究者もいないのである。

抜群の数学力に恵まれたマクスウェルは、複雑な電磁気現象をたった4つの微分方程式(マクスウェル方程式)にまとめあげ、しばしばニュートン、アインシュタインと並ぶ物理学史上の巨人とされる。一方、ファラデーの数学に関する知識は初等数学以上のものではなかったらしい。そのことが原因で、ファラデーの考え方を評価しない人たちがいた。数学を駆使した、いかにも難しい理論こそが物理学であるという偏見は、当時からすでに定着していたのである。だが、彼には数学力にも勝る宝、すなわち優れた実験技術と、そこから理論を導き出す抜群の眼力が備わっていたのである。

現代物理学においては、数学の権威はさらに支配的である。しかし、ニュートンもアインシュタインも、最初から数式を使って考えていたわけではない。マクスウェル方程式も、ファラデーが直感的に見抜いた物理的なイメージ抜きには生まれ得なかった。

数学は、それが一旦書き下されると独り歩きを始める。数学には数学的なイメージがあり、それに慣れると物理学者は数学がつくり上げた美しい世界に安住し、いつしかそこから抜け出せなくなる。確かに数学的な手法は、さまざまな現象を簡潔に説明する強力な武器であるが、数学イコール物理学ではない。だが、多くの物理学者は、新たな数学を駆使することこそが新たな物理学を生み出すことだと信じ込んでいる。

ここ数十年の物理学の発展を見ると、物理学的に脆弱な土台の上に建てられた数学的な高層建築を、ひたすら上へ上へと伸ばそうとしているように見える。新たな数学を操ることが新たな物理学であるかのような驕りが物理学を迷走させている。ファラデーが生きていたら、そう嘆くのではないだろうか。