原発事故が迫るもの

 福島の原発事故が発生して数日後、友人から、「原発は、スイッチを切ればすぐに止まると思っていた」という声を聞いて驚いた。多くの人が原発の危険性をあまり認識していなかったのだと改めて思い知らされる気がした。

原発では、ウランの核分裂によって熱を発生させる。核分裂の際、ウランの原子核は二つの原子核に分かれる以外にいくつかの中性子を放出する。その中性子が他のウラン原子核に当たり吸収されるとその原子核も核分裂を引き起す。さらにその際発生した中性子が他の原子核の分裂を引き起し、反応は次々と連鎖的に起こるようになる。このような連鎖反応が一気に起これば原子爆弾となるが、原発ではウランの濃度を5%程度(原爆では90%)に抑えることで、緩やかに連鎖反応を起させている。

こうした連鎖反応はスイッチを切っても止まらない。時間をかけて核燃料の中に制御棒を差し込み、中性子を吸収してしまう必要があるのだ。しかも、制御棒を差し込んでも熱の発生はすぐには止まらない。連鎖反応は止まっても、ウランの核分裂によって生じた不安定な原子核がさらに核分裂して熱を出し続けるからである。もし冷却をやめればたちまち温度が上がり核燃料は溶けてしまう。今回の事故では、なんとか連鎖反応は止められたが、その後の冷却機能が働かず、核燃料の一部が溶けたと考えられている。

原発事故が他のプラントなどの事故と全く異なるのは、放射能(放射性物質)が相手だからである。放射能が発するガンマ線を防ぐには10cm以上の厚さの鉛の壁で身を包まなければならず、現実的には不可能だ。従って、もし施設周辺の放射能がある限度を越えれば、人間は全く原子炉に近づくことができなくなり手の施しようがなくなる。

今回の事故は、従来から指摘されていた津波の危険性を無視したために起こった人災だと糾弾する声が多い。確かに、それは問題だろう。しかし、どのような対策を講じようが、絶対に安全な原発などどこにもない。9.11にニューヨークを襲った旅客機によるテロ攻撃にもびくともしない原発などありえようか。原発事故は常に起こりうる。そして、一旦、事故が起こってしまったら、世界中が放射能に汚染される恐れがあるのだ。原発事故が人災か否か以前の問題として、原発を造ること自体が人災なのである。

では、人類はこれまで、なぜそんな危険な原発を造ってきたのだろうか。電力を安く安定的に供給することは、一国の経済の根幹に関わる重大事だ。原発は自国の経済的な優位性を確保するための重要な手段の一つなのだ。原発の危険性を指摘する声は、そうした経済的優位性の前に退けられてきたのである。これは日本だけの話ではない。世界中が自国の経済的利益のために原発の危険性から目を背けてきたのである。

しかし、これを機に世界中で多くの人が原発の危険性を再認識したに違いない。そして、生命より経済を優先する愚かさに気づいたに違いない。今こそ正常な価値観を取り戻し、脱原発を図らなければ、いつか必ず致命的な事態が起こるに違いない。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

格差と平等

上海でも日本の焼肉は人気だが、価格は日本並みかそれ以上である。しかし、そこでバイトしている人の時給は10元(130円程度)にも満たない。これでは、いくら頑張っても焼肉を食べられるような身分にはなれそうもない。
だが、こうした人件費の安さは、雇う側にとっては大きな強みとなる。安い労働力は、高い利益率を生む。中国でもし高品質の商品やサービスを扱って成功すれば、短期間に日本では考えられないような巨大な富を築くことができるのだ。安い労働力は、ただ輸出競争力を高めるだけでなく、中国の人々に成功のチャンスと意欲を与えているのである。
一方、日本では何をやっても人件費が重くのしかかる。企業は、この数年、本格的に人件費の削減を進めている。終身雇用をやめ、また、正社員を減らして派遣社員に切り替えた。最近では、かつては当たり前だった社内研修の費用を抑えるために、あえて新卒者を採らず、即戦力となる社員のみを中途採用で採るケースも増えているらしい。その結果、日本でもじわじわと格差が広がり始めている。中国に対抗しようとするうちに、中国の格差が回りまわって日本に輸入されてきているのである。
しかし、果たしてこれで良いのだろうか。目先のことばかり考えて人件費をカットすれば、結局、日本全体の購買力が低下し、自分で自分の首を絞めることになる。確かに、周りが全て非正規雇用者を多用するなかで、自分のところだけ終身雇用を続ければ倒産してしまうかもしれないが、長い目で見れば、非正規雇用者が増えることは企業にとっても日本経済にとっても決してプラスではない。
人経費だけではない。コストダウン、合理化努力と言いながら、やっているのは仕入先への値引き要求ばかりだ。もちろん、無駄が多く合理化余地が十分あった時代はそれで良かったが、限度を超えた値引きの強要は、仕入先の経営を圧迫し、品質の低下を招く。確かにビジネスは厳しい。だが、人件費を削ったり、仕入先いじめをする前にやるべきことはないのだろうか。中国の安い労働力に対して、そうしたコストダウンだけで対抗していては、日本経済は自滅の道を歩むしかない。
ところで、ここ数年、日本の温泉ツアーが人気だ、日本の洗練されたもてなしは決して中国では味わえないものだ。マンガやゲーム、若者のファッションなども中国人を惹きつける日本の文化の一つだ。中国から見れば、日本にはすばらしいものがたくさんあるのである。しかも、彼らが知っているのは日本の魅力のほんの一部に過ぎない。
こうした日本独特の文化が発達したのは、誰もが平等に暮らせる日本社会があったからではないだろうか。格差を利用して発展を続ける現在の中国のような社会では、そうした成熟した文化が大衆から生まれることは当面ありそうもないからだ。
そろそろ安易なコストダウンから脱却し、自分たちの強みを活かした新たな付加価値の創造を、今こそ真剣に考えるべきときではないだろうか。