4つの最寄り駅

 「うちって最寄り駅が4つもあるなんて、スゴクない?」。先日、長女がそう言うのを聞いて可笑しくなった。2年程前に、娘たちの通学に支障がないという条件で、以前のマンションから10分程度離れたこの場所に引っ越してきたのだが、それまでの最寄り駅だったJR小岩駅に加え、JR新小岩と京成の青砥、立石が利用可能になったのだ。もっとも、以前、徒歩8分だった小岩駅は徒歩20分の彼方に遠ざかり、他の駅もそれより遠い。何のことはない、どの駅からも遠い場所に来てしまったのである。駅に近いことを最大の売り物にする昨今のマンション事情からすれば、まさに時代に逆行している。毎日の通勤もあり、この距離が生活にどれほど影響するのか、当初は少なからず不安だった。

しかし、住まいの魅力は何も駅に近いことだけではない。この辺りは小岩の西のはずれに当たり、西側にはもはや視界をさえぎる物はない。我が家のある11階から見下ろすと、ところどころに畑が残る住宅地を中川が縫うように蛇行している。そして、荒川の土手の上を走る首都高の向こうには、北から南まで東京の都心が一望の下に展開している。その胸のすくような眺望の魅力は、駅までの不便を補って余りあるものだった。北の方から池袋のサンシャイン、新宿のビル群と続き、新宿と渋谷の間には、丹沢連峰を前衛にした富士山が流麗な姿を見せている。さらにこのところ高層ビルの密集地帯となった東京駅周辺、東京タワー、六本木ミッドタウン...。ずっと行くと、お台場の観覧車まで見渡せる。

都心を東側から眺めることになるのだが、街々は互いに重なり合っているため、当初はどこがどこだかわからなかった。しかし、地図とにらめっこをするうちに、次第に東京の鳥瞰図が浮かび上がってきた。その結果、浅草と秋葉原、渋谷が重なっており、ある日忽然と姿を消した六本木ヒルズは、錦糸町にできたオリナスに隠れてしまったことがわかった。東京の景色も刻々と変わっているのだ。

駅から離れた効用は景色だけではない。人間の心理として、駅と反対側にはあまり出かけないようで、以前は家と小岩駅の間を行き来するだけだったが、今では逆方向に出かける機会も増えた。生活圏が4つの駅に向かって放射状に広がり、これまで知らなかった店や施設を利用するようになった。単に利便性の問題だけではない。いくつもの街の暮らしぶりに触れることで、自分の心の中の街も一回り大きくなったのである。

 越してきて最初の年の大晦日、新年が近づくと、以前は聞いたことがなかった除夜の鐘が、あちこちでゴーンゴーンと鳴り始めた。近くの八剱神社に出かけてみると、かがり火が焚かれ、ちょうちんが明々と照らす参道には初詣の人たちが長蛇の列を作っている。お参りをした人には神主さんが一人一人お払いをしてくれ、その後、甘酒やお神酒が振舞われるのだ。駅から少し離れただけで、地元のこうした伝統が大切に守られている。帰り道、なんだか子供の頃に帰ったような、うきうきとした気分になった。

最寄り駅が4つ。思わず出た娘の言葉には、新たな住みかへの愛着が溢れていた。

確率と物理学

天気予報で降水確率30%と言われても、傘を持っていくべきかどうか判断しかねる。確率は数値で示されるため、一見、客観的な指標であるかのように見えるが、それをどのように利用するかは各人の主観的な判断に委ねられているのである。

ところが、最も客観性を重んじる学問である物理学においても、実は確率が用いられている。相対性理論と並び現代物理学の基礎を成す量子力学の世界では、現在から導かれる未来は1つではなく、特定の確率でさまざまな現象が起こり得るのである。しかもそれは原理的に避けられないことなのだ。

ニュートンはかつて運動方程式を解くことにより天体の運行や木から落ちたリンゴの動きを正確に予測できることを示した。そして、それ以降、永年に渡って物体の運動は物理法則にしたがって正確に予測できるものと信じられてきた。しかし19世紀後半になって発見された原子レベルのミクロの世界の現象は、ニュートンの古典物理学では全く説明できなかった。これを解決したのが、20世紀初頭に誕生した量子力学である。しかしこの理論は古典物理学に深刻な修正を迫ることになった。古典物理学では正確に予測できたはずの物理現象が、量子力学では確率的にしか予測できなくなったのである。これに対して、かのアインシュタインも、「神様はサイコロを振らない」と反論し、ついに死ぬまで量子力学を認めなかった。自然を厳密に記述すべき物理学において、何が起きるかはっきり予測できないようなものは理論とは言えない、というのが彼の信念であった。

しかしながら古典物理学でミクロな世界の現象を説明できないことは厳然たる事実であった。例えば、原子では原子核の周りを電子が回転しているが、古典物理学によれば電磁波を放射し、あっという間にエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまうはずである。つまり原子自体が理論的に存在不可能なのである。これでは話にならない。新たな理論は、電子が原子核に落ち込まないという結果を導くものでなければならない。ところで、古典物理学において未来が正確に予測できたのは、物体の位置と速度(運動量)を同時にかつ正確に決定できるとしてきたからである。では、もし電子の位置と速度の間に一定の関係を持たせ、両者を同時に正確には決定できないように制約を課したらどうなるだろうか?これではもちろん正確な予測はできなくなる。しかし、一方で電子が原子核に落ち込むことにより、その位置と速度が正確に決まってしまうようなことは起こり得なくなる。つまり、正確に予測することを放棄することで、原子は潰れることを免れるのである。この位置と速度を同時に正確には決定できないという制約を、量子力学の創設者ハイゼンベルクは「不確定性原理」と呼んだ。そして不確定性原理のもとに構築された量子力学は、古典物理学が抱えていた矛盾を次々と解決することに成功したのである。

量子力学の予測が確率的であることは、アインシュタインをはじめ多くの物理学者を苛立たせ悩ませてきた。にもかかわらず、未来を正確に予測できないことが、この宇宙を成り立たせるための不可欠な条件であることも、紛れもない事実なのである。

悪霊

 昨年の夏、突如明るみに出たサブプライムローン問題は、今だに実態が見極められず、年が明けてもその陰は不気味に世界中を覆っている。

サブプライムローンは低所得者向けの住宅ローンで、借り入れ当初の金利を5%程度に抑え、数年後には10%以上に上昇する仕組みになっている。要するに、最初は借りやすくしておいて、後々高い金利を絞り取るサラ金まがいのローンである。しかし、数年前までアメリカでは住宅価格が年10%以上も上昇していたので、金利が上がる前に売却すれば良いと考えた多くの人がこのローンを利用した。しかし、住宅価格がいつまでもそんな調子で上がり続けるわけがない。思ったような額で売れず、そのうちに金利が上がり、返済が滞る人が急増したのである。

しかしながら、単純な住宅ローンの焦げ付きなら珍しい話ではない。問題をこれほど深刻化したのは、サブプライムローンが証券化され、世界中の金融機関やヘッジファンドがそれを買っていたためである。つまり住宅ローンが投機資金の運用に用いられていたため、ローンの焦げ付きという日常的な事件が、金融機関の莫大な損害に発展したのである。

もともとサラ金まがいのローンに100兆円を超すような巨額な金が投資されていたこと自体が不気味な話だが、サブプライムローンに限らず、最近では企業買収においても少額の資金で買収を可能にするため、買収先の資産を担保にしてローンを組み、それを証券化するという手法がしばしば用いられている。

こうして証券化されたローンは、証券会社や銀行が取り扱うさまざまなファンドに組み入れられ販売されている。個人や法人が「資産運用」のためにファンドを買ったお金は、回りまわって、例えばサブプライムローンとして住宅購入者に貸与されているのである。ただしその間には、そのお金の投資効率を高めるためにさまざまな金融的な工夫がされている。投資ではお金をできるだけ効率よく運用することが至上命題である。証券化とその信用取引は、手持ち資金の何倍もの金を動かすことを可能にし、また先物取引は、将来得られる儲けを、現在、得ることを可能にする。つまり量的にも時間的にも、投資効率を上げる手法が徹底的に追求されているのである。

もともとファンド自体は何も生み出すことはなく、勝者がいればその分だけ敗者がいる。しかし、そうした投機マネーが信用不安を引き起こし、石油価格を高騰させ、また強引な企業買収などによって、われわれの日常生活にも影響し始めている。投機に全く関係のない人たちがいつしか食い物にされ、敗者にされる時代が訪れようとしているのである。

ファンドは、決して運用方法を公開しないので、それを買ったお金がどのように運用されているかは明るみに出ることはない。現代社会においては、市場原理という名の下に、誰も実態を把握できぬまま、投機マネーという虚の経済が世界の隅々にまで浸透し、あたかも悪霊のようにわれわれの生活を蝕み始めているのである。

生きるってことでしょう

最近、妙に心にしみこんできた言葉がある。養老猛さんがテレビの対談で発した、「要は、生きるってことでしょう」という一言だ。

養老さんは、東大の教授を定年を待たずに辞めた。人生をやり直すには、定年まで待っていては遅過ぎると感じたからだ。しかし、辞めてみて、改めてそれまで自分で考えていた以上にいろいろなことに縛られていたことに気がついたという。

 人は知らず知らずのうちに、色々なことに縛られている。養老さんですらそうであった。サラリーマンは会社に縛られ、自分で会社をやれば会社の経営に縛られる。子供は子供で、勉強や学校に縛られている。もちろん、そうした生活が楽しくて仕方がない人もいるだろうが、そういう人ばかりではない。もともと、どう生きるかは自分の勝手なはずだ。特に、われわれが住んでいるのは、世界有数の先進国であり、大半の人にとって明日の食べ物を心配する必要などない。誰でも自由に生きてよい環境にあるはずだ。むしろ自ら進んで社会に縛られ、自分の居場所を狭めてしまっているのではないのか。

リストラにおびえるサラリーマンにとって、会社は楽しいはずもないのに、逆にしがみつこうとする。辞めても行くところはないし、給料は下がるだけで良いことはない。今の会社で出来るだけ頑張るのがベストなのだ、と自分で自分に言い聞かせている。もちろんそれはあながち誤りではない。家庭を守り、子供を大学に通わせるためには、我慢することは大切だ。さっさと辞めてしまうのは、むしろ無責任だともいえるだろう。しかし、人生は一度しかない。本当にそれでいいのか。家族を守るためなどと言っているが、実は勇気がないだけではないのか?少なくとも、早く定年が来ないかと待っているなんて、異常だとは思わないか?

もっとも、思い切って辞めたからといって、急に道が開けてくるわけではない。人生、そうそう甘くはない。では、一体どうすれば良いのか。その答えが、「生きるってことでしょう」という養老さんの叫びなのだ。いろいろ悩んでいるうちに、肝心の生きることをすっかり忘れてしまい、何かにつけてもっともらしい理屈をつけて悩んでいる。そんなあなたは、生きながらにして死んでるんじゃないか?彼は、そう問いかけているのだ。

養老さんの言葉に、思わずハッとさせられたのは、恐らく自分自身が悩んでいたことへの答えが、ずばりそこにあったからだ。僕は、回りの人からは、やりたいことをやっている人間だと思われているが、決してやりたいことがやれているわけではない。むしろ逆で、自分がやりたいことはいったい何なのか、この歳になってもずっと探し続けているのである。しかし、養老さんの言葉を聞いて、自分があまりにも、「やりたいことをやらねば」という考えに縛られていることに気づかされたのである。やりたいことをやるのは難しい。しかし、「生きること」ならできる。何しろ面白いことはいくらでもあるのだ。

そう思った瞬間、何か急に肩の力が抜けた。そして不思議なことに、心の中で熱いものが湧き上がるのを感じたのである。

記憶と時間

「もう少し記憶力が良かったら」と誰もが思う。受験でも仕事でも、英会話をマスターするためにも、常に記憶では苦労しているからである。しかし、人生を振り返れば、特に覚えようとしたわけでもないのに、さまざまな思い出が残っている。普段、思い出すことはなくても、当時の写真を見たり、昔の友に出会ったりすれば、堰を切ったようにかつての記憶が溢れ出る。自らの記憶力に不満を抱きながらも、われわれは日頃から、特に意識することなく、記憶の恩恵に与っているのである。

かつてイギリスの著名な指揮者だったクライブ・ウェアリング氏は、ウイルスの感染で脳に損傷を受け、重度の記憶障害に陥った。彼の記憶は7秒しか持たなくなった。病気以前の記憶も一部残ったが、それ以降、わずか7秒間の記憶が次々とリニューアルさるだけで、それ以上の蓄積はできなくなったのだ。病気の後、7年間、彼は延々と、自分の陥った境遇を知ってはショックを受けるということを繰り返した。何とか記憶力を取り戻そうと、日記に、「自分は、今、本当に目覚めた」と、繰り返し書き続け、極度の躁鬱状態に陥った。

その後、自らの境遇を受け入れられるようになったのか、彼は平静さを取り戻した。しかし、相変わらず彼の人生は病気になったときから7秒以上前に進むことはない。話をしながらも次々と内容を忘れ、たとえどんなに嬉しいことや辛いことがあっても、7秒後には全て忘れてしまう。彼は自らの状況を、「空虚なだけ。全く考えることができない。昼も夜もなく、夢も見ない。時間が存在しない世界。死んだも同じだ。」と語っている。

通常、記憶は時間の経過にともない薄れ、ぼやけていく。われわれが昔のことを昔と感じられるのは、時間の経過にともない記憶が変化していくからである。ウェアリング氏の場合、この変化はわずか7秒しか許されていない。彼にとっては、7秒より遠い過去は、感じることも想像することも出来ない世界なのである。

記憶の変化で時間を感じると言っても、時計のない真っ暗な洞穴のなかで、10日経ったか11日経ったかを区別するのは難しい。時間をより正確に感じるためには、記憶の変化を物理的な時間と結びつける必要がある。そこで我々は、しばしば腕時計に目をやり、どれだけ時間が経ったかを確認する。あるいは、「あれは、娘が小学校2年のときだったから...」というように、その記憶を客観的な日時に結びつけることによって、記憶による不正確な時間感覚を修正しているのである。記憶の変化を時計の進み具合と結びつけることによって、我々ははじめて正確な時間感覚を獲得することができるのである。ウェアリング氏の場合、こうした高度な記憶の働きはさらに困難だろう。想像するのは難しいが、彼が「時間が存在しない世界」を生きているというのは本当のことに違いない。

忘れないことが優れた記憶力だと思いがちだが、記憶が時とともに変化することによって、我々は時間を感じ人生を認識することができるのである。記憶は失われていくからこそ、その役割を果たしているのだ。

中国バブルレポート

 中国の株式が値上がりを続けている。上海A株は、この2年間に5倍、今年に入ってからも2倍になった。誰がどう見てもバブルである。これに対して、アメリカのグリーンスパン元FRB議長なども、機会あるごとにバブル崩壊への懸念を表明しているが、株式投資熱は一向に冷める気配がない。

 中国においては、ここ数年の貿易黒字の急激な増加により外貨準備高が膨れ上がり、それとともに国内のマネーサプライが急増した。政府はそれを抑えるために、再三に渡り金利と銀行の預金準備率を引き上げたが、それでも市場の資金は吸収しきれず、極端な金余りの状態となった。そうした資金は、まず国内の不動産に向けられ、この3-4年ほどでマンション価格が高騰した。しかし、北京や上海の中心部に次々と建てられる高層マンションの価格は、すでに一戸当たり日本円で5000万円を越える水準に達している。警戒感が高まった結果、新たな投資先を求めた資金が株式市場に流入し、現在の株価の高騰を招いているのである。

 中国のGDPはすでに世界5位であり、日本の半分程度に達している。人口が日本の10倍もいるのだから、まだまだ貧しいのではないか、と考えるのは間違いである。国内の大半の富は、人口の1割程度の富裕層と呼ばれる人々に集中している。しかも彼らは、常に安い労働力の恩恵を受けられる。飲食店の店員の給与が安ければ、食事代も安くなる道理である。最近の中国の富裕層の人たちの暮らしぶりは、すでに日本人より豊かだというのが実感だ。ただし、それは残りの12億もの貧しい人たちが、安い賃金で働いていて、彼らを支えているからである。彼らが株式に投資する資金も、それによって発生したバブルも、急速な成長とともに拡大した極端な貧富の差によってもたらされたものなのである。

 現在、中国の若者は、1つの会社に定着することなく、より高い給与を求めて転職を重ねている。しかし、田舎から都市部へは、常に新たな安い労働力が供給されるので、思うように給与は上がらない。しかし、都市での豊かな生活を目の当たりにして、自分も豊かになりたいと思わない者はない。今後、中国の平均賃金は間違いなく上昇するだろう。それとともに、これまで富裕層が享受してきた安い労働力の恩恵は失われていく。それを最もよく知っているのは、実は富裕層の人たち自身だろう。激動の歴史を持つ中国で、自分達にだけ良い時代がいつまでも続くと考えるほど、彼らは楽観的ではない。だからこそ、今のうちに自らの資産を出来るだけ増やしておくために、投資に力を入れているのである。

 中国バブルは崩壊するのか?中国経済の特殊な事情を考えると予測は困難だ。そもそも、これまでのあまりに急激な発展自体が、歴史に類を見ない異常な出来事なのだ。豊かさを求める13億人のエネルギーは、さまざまな犠牲や矛盾を次々と飲み込み、ひたすら膨張し続ける。そのダイナミズムは、従来の世界の常識を越えている。現在のバブルも、その巨大なうねりの中で、出来ては消える泡の一つに過ぎないのかも知れないのである。

暗室のある家

子供の頃住んでいた家が、最近、建て直されたというので、この夏、帰省した折に見に行ってみた。名古屋駅から徒歩15分ほどのその辺りは、かつては下町らしい活気に溢れていたが、今では駐車場ばかりが目立つ、すっかり寂れた町になってしまった。

かつて僕の家はカメラ屋だった。店は自宅から少し離れたところにあったが、自宅の一部も父によって暗室に改造され、そこで写真を現像していた。

昼頃、小学校から帰ってくると、いつもちょうど水洗の最中で、午前中に現像された写真が入った水洗機の透明なドラムがザバッザバッと音を立てて回っていた。ドラムの回転にも水道の圧力を利用していたため、水は勢いよく跳ね上がり、水洗機の置かれた台所は、いつも少し定着液の臭いが残る水っぽい空気に満たされていた。

水洗が終わると、次は乾燥だ。玄関に置かれた乾燥機の幅1mほどの布製のベルトに写真を一枚ずつ載せると、高温に熱せられた直径60cmほどの鏡面仕上げのドラムに巻き込まれて行き、ドラムに貼りついて一回転すると、乾燥した写真が煎餅のようにドラムから自然に剥がれ落ちて来る。熱で焼ける香ばしい匂いの中で、写真は美しい光沢面に仕上がっているのだ。

乾燥を終えた写真は、最後に四辺の余分な部分をカットし、お客さんごとに仕分ける。たまたま、その時間に家にいると、叔父が嬉しそうに、「康成、手伝え!」と声をかけて来るのだった。

暗室は、玄関と台所を結ぶ廊下を遮光用の暗幕とドアで仕切って作られていた。引き伸ばし機で焼き付けられた印画紙を現像液に浸けると、数秒で像が現れ、1分後にはくっきりとした写真になる。真っ白な印画紙にボーっと人の姿が浮かび上がってくるのを、感光防止の暗い赤いライトの下で見ていると、その像がまるで生きているかのような妙な気分に襲われる。

ネガもまた不気味だった。現像すれば笑っている人も、ネガで見ると、どうしてもそうは見えない。ネガのなかには、実は異次元の空間があって、現実世界が凍結されているのではないか。暗室は、少年にとって、かなりミステリアスな空間だった。

当時はカメラの性能が悪く、露出がいい加減だった。叔父は、そうしたお客さんの失敗ネガを見て、永年の勘で、一枚一枚、焼き具合を加減していた。うちの店の写真の評判が良かったのは、そのためだった。

しかし、当時、暗室にはエアコンもなく、夏ともなると異常な暑さだ。また、毎日、暗室でピント合わせをしていると、数年で著しく視力が低下する。暗室作業は、かなり過酷な仕事だった。1970年代初頭、これだけの手間をかけても、白黒写真1枚で10円しか取れなかった。写真はカラーの時代に入りつつあった。しばらくすると、父もやむなく、現像を外注に切り替えざるを得なくなった。

 それから35年ほどの歳月が流れた。かつて自宅のあった場所に建つ小奇麗なアパートに住む人は、そこで毎日写真が焼かれていたことなど知る由もない。だが、当時うちで焼かれた何十万枚という写真は、まだ、多くの家庭のアルバムに残っているに違いない。そして、今でも自分で写真を焼く僕の胸にも、あの暗室のある家の記憶は綿々と生きて続けているのである。

市場原理と環境問題

 先日、自動車メーカーのホンダが太陽光発電に本格参入すると発表した。ホンダの戦略は、将来、各家庭に太陽光発電装置を設置し、それにより水を電気分解して水素を作り、その水素を燃料として燃料電池車を走らせるというものである。これならCO2の発生は全くないが、しばらく前なら夢物語といわれた話である。しかし、石油がなくなれば、いずれガソリン車は走らなくなる。ホンダの決断には、将来への危機感がにじみ出ている。

最近、明らかに世の中の環境問題に対する意識が変わってきた。大きな転換点となったのは、3年ほど前から始まった原油価格の急激な上昇だろう。石油はこの100年余り、人類に便利さと快適さを与えてきたが、その代償として莫大なCO2が発生し、プラスティック製のゴミが世界中に溢れることになった。しかし、資本主義の原理は、企業に対し、環境を優先し石油の使用を止めるなどという選択を許さなかった。そんなことをすれば、たちまち市場で競争力を失ってしまうからである。企業の成長とはすなわちより多くの石油を使うことであったのだ。しかし、産油量に陰りが見え、原油価格が上昇を始めたことにより、石油の大量消費は必ずしも経済原理にそぐわなくなってきた。

しかし、国の環境対応は相変わらず遅い。1997年に京都議定書で、議長国日本は2012年までに6%のCO2排出量削減を掲げているが、逆にこの10年間に排出量は8%も増加している。先日の参院選でも、環境問題に関する議論など全く聴こえてこない。石油不足や温暖化の進行により、従来産業が成り立たなくなるような事態になれば、日本の経済は少なからぬ影響を受けるだろう。確かに年金問題も重要ではあろうが、環境の影響を無視して経済予測を立て、それをベースに年金計画を立てても、絵に描いた餅になるだけである。

 一方、企業の動きは速い。これまで、「業績の足を引っ張る」と環境対策にネガティブだった企業が、ここに来て一転して環境対策に力を入れ始めている。上記のホンダ以外にも、トヨタ自動車は主力の堤工場内に太陽光発電所を設ける。自動車が出すCO2を抑えるだけでなく、自動車の製造においてものCO2発生を抑えるためである。キリンビールはビールかすからバイオエタノールを生産する実験プラントを立ち上げている。従来、コストが合わなかったが、原油価格の上昇により採算が取れるようになったからだ。環境対策がビジネスになり、環境対策が企業の競争力を高める時代がやってきたのである。

一旦、そうした流れが始まると、今後、企業活動の隅々まで脱石油・CO2削減の動きが急速に進む可能性がある。そうなれば、その波に乗り遅れた企業は市場から姿を消すことになるだろう。かつて1970年代の石油ショックの後、いち早く燃費向上を図ったことが、現在の日本の自動車産業の隆盛をもたらした。今回の第2の石油ショックを契機に、環境対策への取り組みが、世界の企業の勢力地図をがらりと変える可能性は十分にある。

結局、市場原理が引き起こした環境問題は、市場原理によってしか解決できないということなのだろうか。その是非はさておき、今はそれが間に合ってくれることを祈るのみだ。

餃子と運命/F君のこと・その2

 僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは中学2年の頃である。しかし、当時、我が家にはステレオはおろかプレーヤー(電蓄)もなかった。あったのは、英語用に買ってもらったテープレコーダーのみである。しかし音楽ソースは何もない。そこで、誰かステレオを持っている人に頼んで録音してもらおうと思い付いた。近所のF君の家には、お姉さんがピアニストであったことからピアノ室があって、ステレオも完備されていた。たまにその部屋で大音響でクラシック音楽が鳴っていたのを思い出した僕は、まずF君に録音を頼むことにした。曲目はなんと言ってもクラシック音楽の最高峰、ベートーヴェンの「運命」である。

録音はある土曜日の午後、F君の立会いの下で行われた。しかし、もともとオーケストラの音をマイクで拾ってレコードに刻み、それをステレオで再生しているのに、その音をもう一度マイクで録音するという行為に対して、F君はいかにもドン臭いと感じたようで、当初からまじめに取り合ってくれていなかった。雑音が入らないよう体を硬直させ、息をこらす僕の横で、彼は悠々と昼飯を食べ始めたのである。しかも、実況中継でもするかのように、箸で餃子を摘み、わざわざ「ギョーザ!」と声を出してメニューを紹介する。さらに、雰囲気を出すためにマイクに向かってクチャクチャやり始める始末だ。冗談じゃない!僕のいらいらは頂点に達したが、文句を言えば録音されてしまうので我慢するより他はない。

 そうこうするうちに、第1楽章が終わった。だが、その途端、思わぬことが起こった。F君が、「終わったー!」と大声で叫び、レコードを止めようとしたのである。だが、曲はまだ終わっていない。事情のわからぬ彼に、今静かに流れているのは、4楽章のうちの第2楽章であることを説明し、彼にしぶしぶ録音の続行を承諾させたが、またしても余計な雑音が入ってしまった。

 そうしたやり取りは、時に音楽より大きな音で録音されてしまっている。ぴんと張り詰めた運命の主題が流れる中、それと全く関係なく餃子を食べるF君の姿がくっきりと浮かび上がるのである。だが、僕はこのテープを軽く100回以上は聴いただろう。完璧な形式の中で溢れ出すベートーヴェンの情熱と独創性に、僕はたちまち心を奪われ、心酔してしまったのである。しばらくすると、F君の雑音も慣れてほとんど気にならなくなった。

 その後、僕も親に頼んで高音質のラジオを買ってもらうと、FM放送からテープレコーダーに録音できるようになり、いよいよ本格的な音楽鑑賞が始まった。しかし、ある日、もっと良い音で「運命」を聞きたくなり、F君に例のレコードをステレオで聴かせてもらった。しかし、そこで流れてきた音楽は、かつて僕が録音したものと全く違っていた。ゆったりとしたテンポに重厚な弦の響き。この違いは何だ?なんとF君は、以前の録音の際に、33回転/分のLPレコードを45回転/分のSPモードで再生していたのである。

F君のこと

先日、中学生の娘たちが学校の友達のことを話すのを聴いているうちに、いつしか自分の子供の頃の友達、F君のことを考えていた。どうやらF君のような友達は、娘たちの周りにはいそうにもなかった。思えば、F君は実に稀有の友だった。

F君とは物心ついた頃からの付き合いだった。彼のお父さんは県立高校の校長先生で、家の中には何ともいえぬ高尚な雰囲気が漂っていた。一方、F君は8人兄弟の5番目で、家庭はに大家族独特の開放感が溢れていた。

F君の家は、僕の家から1分もかからないところにあり、せまい路地に面して玄関が2つある変わった構造の家だった。その左の玄関から入り、奥の梯子のような階段を登った屋根裏部屋がF君の部屋だった。彼は、そこで誰にも邪魔されず、マンガを読んだり猫と戯れながら過ごしていた。押入れには、チーズやジャムなどの詰め合わせがいっぱい押し込まれており、F君は時折それらの中から何かを引っ張り出してきては一口二口食べると、残りをあっさりゴミ箱に捨ててしまっていた。僕は、昼夜の区別なく、F君がいないときでもその部屋に勝手に上がりこみ、やりたいことをやっていた。

ある日、小学校から帰ってF君の部屋に行くと、薄っぺらなお菓子の箱の中で何かがごそごそ動いている。僕がギョッとしていると、F君は箱を少し開けて中身を見せてくれた。そこには、狭くて動きが取れないコウモリがもがいていた。夜中に猫がくわえて帰ってきたのだ。F君は猫使いのように猫の扱いには慣れていた。

F君と僕の性格は、正反対と言っていいほど違っていた。僕が内気な優等生タイプだったのに比べて、彼は頭の回転が速いいたずら小僧だった。小2のとき、僕の家で畳にこぼした大量の水を電気掃除機で吸い取って一発で壊してくれたことがある。彼は、しばらく我が家に出入り禁止になった。彼はその時すでに、何人かの友達の家に出入り禁止になっていた。それはひとえに、思いついたことはすぐに実行に移す彼の性格が原因だった。

F君の遊びに対するアクティブさは尋常ではなかった。彼は、毎週、かなり高価なおもちゃを買ってもらっていたが、新しいおもちゃを手に入れる度に、それを使ったユニークな遊びを次々と考案する。時には町内の子供を何人も動員することもあった。そして、遊び終わった後にはいつも、半ば壊れたおもちゃが残骸のように捨てられているのだった。

F君は当初、僕のことをドン臭い奴だと思っていたかもしれない。しかし、彼と夢中になって遊ぶうちに、僕もおもしろいアイデアが次々と浮かぶようになった。そして、中2のある日、「やると決めたことは、確実にやっていく奴だな...。褒めているんだよ」と、突然、彼が言った。いつしか彼も、僕を認めてくれていたのである。

もしF君が近所に住んでいなかったら、僕は自分のなかに隠れている創造性に一生気がつかなかったかもしれない。そして、その後の人生で、僕が常に独創性にこだわってきたのは、まさにF君と遊んだ日々があったからなのである。