モーツァルトの魅力(2) 小林秀雄の「モオツァルト」

 30年ほど前にアメリカを1ヶ月ほど旅したことがある。その時、最初に訪れたニューヨークで、ある若い指揮者に1週間ほどお世話になった。アメリカという競争社会で日本人指揮者が生き抜いていくのは並大抵のことではない。ニューヨークの聴衆の関心を引き止め続けるのがいかに難しいか、思わず彼の口を突いて出ることも珍しくなかった。

そんなある時、彼は1冊の本を手にして、「やっぱりこれが一番だ」と言う。僕は目を疑った。それは当時、自分の特別な愛読書だった小林秀雄の「モオツァルト」だったのだ。演奏に際して日夜膨大な資料を研究しているが、モーツァルトへの新鮮な思いを蘇らせてくれるのはこの本だけだという。音楽の専門家である彼の口から、しかも初めて来た外国の地でそのような話を聞くとは思いもよらず、僕は何か運命的なものを感じていた。

ニューヨーク滞在の最後の夜、その指揮者に誘われてカーネギー・ホールのコンサートに出かけた。前半の演奏が終わり、休憩時間にその日の演奏について彼が饒舌に語っていると、奥さんが遅れて駆けつけてきた。そして、「小林秀雄さん、亡くなったね」とボソリと伝えたのだ。小林秀雄は最後に僕に何かを伝えようとしてくれたのだろうか。後半の演奏を聴きながら、様々な思いが頭のなかをグルグル回り続けた。

小林秀雄の「モオツァルト」は、芸術批評の本質に関わるものであり、モーツァルトだけの話に終わらない。しかし、少なくとも全編にわたり彼の心に響く豊かなモーツァルトの音楽が垣間見える。それが僕自身のモーツァルト遍歴の道標となってきた所以なのだ。

「ト短調のシンフォニーの有名なテーマが突如として頭の中で鳴った」というくだりは非常に有名だが、重要なのはその後に、「今の自分は(20年前の)その頃よりもこの曲をよく理解しているだろうか」と自問していることである。歳を重ね知識が増えるにつれ、頭による音楽の理解は進む。しかし、自分の心がモーツァルトの音楽に本当に共鳴しているかということになると疑わしい。彼にとって信じられるのは自らの感性だけなのだ。こちらも歳をとったせいか、今読むと身につまされる思いがする。

「モオツァルト」は、小林自身を語ったものだとしばしば言われる。確かにそうとも言えるが、彼の内には非常に豊かなモーツァルトの世界が存在していたことは間違いない。僕が永年モーツァルトを聴き、またピアノで弾くことにより新たな発見をするたびに、実はそれはすでに小林が言っていたことだったと気がつくことが珍しくないからである。

モーツァルトの創造の秘密に迫るために、彼は当初から分析的なアプローチが不可能であると心得ていた。「人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だ」という彼が引き合いに出したゲーテの言葉どおり、小林自身もからかわれて終わるのが落ちだ。しかし、モーツァルトの音楽との対峙は次第に彼自身のラプトゥス(熱狂)に火をつけた。それに身を任せ、自らの創作に没入することで、初めてモーツァルトを表現する術が見えた。自らを語ることによってのみ、モーツァルトの懐に飛び込むことができたのである。

生涯の師 小林秀雄

生涯の師は誰かと聞かれれば、僕は迷わず小林秀雄と答えるだろう。直接面識もなく、ましてや師事したわけでもないが、彼の文章から受けた影響は、彼をそう呼ぶにふさわしいものがある。

それほど僕を惹きつける小林秀雄の魅力とはなんであろうか。彼は近代日本文学において、はじめて「芸術としての批評」を確立したと言われる人である。その対象は文芸に留まらず、モーツァルト、ゴッホなど分野を越えて縦横無尽に広がっている。彼のそれらの対象に対する造詣の深さは並み大抵のものではない。「ドストエフスキーの作品」を書くために、小林は「罪と罰」や「白痴」などの作品を、何十年もかけて何十ぺんと熟読したと言われている。ロシア文学の専門家といわれる人でも、ドストエフスキーの研究書の類は読んでも、こうした作品をそのように読み返すことはないそうである。彼はもとよりそうした専門家ではない。彼のあらゆる作品は、あくまでも彼が受けた強い感動から生まれているのである。しかも彼は言う、「優れた芸術に感動すると、何かを語ろうとする抑えがたい衝動が沸き起こるが、しかし口を開けば嘘になる。そういう意識を眠らせてはならない」、と。彼の創作は、常にそういう意識のもとで行われてきた。ここに小林秀雄の批評家としての独自性があるのである。

小林の「モオツァルト」に、次のような一節がある。「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていた事を思い出そう。彼の精神の自由自在な運動は、いかなる場合でも、音という自然の材質の紆余曲折した隠秘な必然性をめぐることにより保証されていた。」彼はあえて、これをモーツァルトの「自由」と呼んでいるが、これはまた小林自身が創作において目指した「自由」ではなかったか。そして、小林秀雄を読むものが常に彼の中に見つけ、惹き付けられて止まないものではないだろうか。

この十数年、生活上の卑近な問題に追われるうちに、彼のあまりにも純粋でひたむきな世界は、無意識の内に近づきがたいものとなっていた。しかし、先日、久しぶりに本棚の彼の全集を手に取ってみると、彼の文章は干からびた僕の精神を潤すかのように、たちまち体内に勢い良く流れ込んできて、若い頃、僕を夢中にさせた彼の鋭い直感が、実は小林秀雄という精神の成熟の上に築かれていたことを改めて知らされることになったのである。