経済成長中毒

 日本経済新聞の7月初旬頃までの「脱原発」に対する批判は相当のものだった。原発事故を受けて安易に脱原発の気運が高まっているが、このまま原発の稼動がままならなければ電力事情が悪化し、日本の国際競争力にさまざまな悪影響が出るというものだ。確かに、気分だけで原発反対を叫ぶのは無責任だが、福島第一原発の事故直後であることを考えると、毎日のように大きな紙面を使って原発の必要性を訴える姿は、特定の企業の事情をヒステリックに代弁しているようで、非常に浅はかな印象を受けざるを得なかった。このところ節電の効果などで電力需給に余裕が出て来て日経の論調も緩やかになったが、原発という難しい問題をこれほど一方的な視点で論じる姿はかなり異様に映る。

 日経の論調はあくまでも経済優先である。だが、その経済優先策がこの度の原発事故を招いたのではないか。3年前のリーマンショックの際、それまでの経済最優先の価値観に世界中で反省が起きた。しかし、結局、何も変わらなかったようだ。いまだに日本も世界も経済成長に代わる新たな方向性を見出せずにいるのである。

 それにしても、経済最優先の構造から抜け出すのは、なぜそれほど困難なのだろうか。それは恐らく資本主義の根本にあるのが人間の欲だからだ。エアコン、自動車、インターネット...。人は一度便利なもの、快適なものに慣れるともはや後戻りはできない。資本主義はそうした人間の弱みを原動力にしている。もちろん、便利さや快適さそれ自体が悪いわけではない。しかし、自動車に乗って歩かなくなれば健康にはマイナスだ。つまり、便利さの代償として健康を失っているのだ。さらに、ハイキングなどで歩くことが億劫になれば、自然と親しむ機会も知らぬ間に失っているかもしれない。便利さが必ずしも生活を豊かにするとは限らないのに、人はそれに抗うことができない。資本主義社会というのは、実は便利さや快適さという麻薬に犯されたある種の中毒社会なのである。

 だが、そこで生き残りをかける企業は、麻薬であれ何であれ売っていくしかない。そこに倫理を期待しても限界がある。従って、もし資本主義社会が本当に人々の求めるものを提供できるようになるためには、消費者が目覚めるしかない。しかし、その前にわれわれは自分達がこれまでに失ってしまったものを、もう一度じっくり見直して見る必要があるのではなかろうか。

先日、NHKの番組で、北極探検家の荻田泰永氏が次のように語っていた。「北極には何もない。しかし、だからこそ感覚が研ぎ澄まされ、日常では気づかないさまざまなものが感じられるようになる。」、と。かつてわれわれは、便利さや快適さよりもずっとすばらしいものをたくさん持っていたのではないだろうか。経済成長が豊かさをもたらすと信じてきたが、実はそのために多くのものを失ってきたのではないか。その結果が、うつ病が蔓延する今の社会になってしまったのではないのか。このあたりで立ち止まり、自分達の価値観を根本的に見つめ直してみる時期に来ているのではないだろうか。

日光沢温泉

旅行で同じ場所に何度も訪れることはなかなかないものだが、その数少ない例外の一つが日光沢温泉である。鬼怒川の源流域に位置する秘湯で、女夫渕温泉で車を降り、川沿いを2時間ほど歩いて行く。途中、八丁の湯と加仁湯があるが、この両者は林道を利用したバスでの送迎があるため、徒歩でしか行けない日光沢温泉とは全く客層が異なる。

 最初にここを訪れたのは、もう20年以上も前の5月初旬だ。その時の目的地は日光沢温泉ではなく、その先の鬼怒沼という高層湿原だった。家内と二人で雨の中、テントを担いで雪道を3時間ほど登って行ったが、湿原にはテントを張る場所がなく、避難小屋に泊まることになった。その晩、上空を前線が通過し、ものすごい風が一晩中鳴り止まず、真っ暗な中、2人だけで不安な一夜を過ごした。

夜が明けても、まだ猛烈な風が残っていた。しかし、おそるおそる外に出てみると、そこには息を呑む光景が広がっていた。真っ青な空に白い雲が切り裂かれるように千切れ飛び、周りを雪に縁取られた湿原が朝日の中でこの世のものとは思えないきらめきを見せていた。湿原の向こうには、頂上付近に雪煙を舞い上がらせる「日光白根」が迫り、振り返れば、尾瀬沼の主「燧ヶ岳(ヒウチガタケ)」が、まだ深く雪に閉ざされた尾瀬の静寂を守るようにじっと佇んでいた。

美しいといわれる鬼怒沼でも、これほど美しさを見せる瞬間はそうはないだろう。それを妻と二人で独占している。感動が何度も全身を貫いて行った。

その時のような絶景は望めないが、その後、日光沢温泉に来るたびに鬼怒沼に登っている。ここの魅力を全身で味わうためには、鬼怒沼まで汗をかくことは不可欠なのだ。

日光沢温泉を切り盛りされる若いご夫婦のサービスは誠実かつ意欲に溢れており、独自の充実感を与えてくれる。登山で適度に疲労した体を温泉に浸し、掃除の行き届いた板の間の廊下を裸足で歩くと、足の裏から気持ちよさが全身に広がっていく。小屋付近で採れた山菜と岩魚を使った料理は野趣に溢れ、素朴だが滋味があり、全身に命を吹き込んでくれる。かつては辺りを散策したり渓流釣りもしたが、最近は鬼怒沼に登る他は何もせず、ここでゆっくりするのが最高だと悟った。

最近、若いカップルも目立つが、猛者もいる。風呂場で一緒になった60過ぎのお年寄り。金精峠から根名草山を越えて来たという。「雪が多くて大変だったでしょう」と聞くと、道に迷って一晩ビバークしたという。全く、命知らずもいたものだ。したたか酒を飲みながら、「カモシカの肉は牛のような味がするんだよ」と上機嫌で話してくれる「マタギ」の斉藤さんも常連の一人。唖然とするような話には、自然と共に生きるパワーが溢れている。

夜も更け、天の川を見上げながらぬるめの露天風呂にゆっくり浸かると、すぐ下を流れる沢の音にけだるさを誘われ、次第に心地良さに包まれて行く。

日光沢温泉は、訪れるたびに魅力が増す不思議な場所なのである。

自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

 現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

 現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

生き方さがしの出版記

 昨年12月、これまで『月』に投稿してきたエッセイをまとめて、「生き方さがしという選択-発見と考察のバリエーション」として出版した。

当初は、これまで書き溜めてきたものをまとめるだけだから大したことはないと考えていたが、出版が終わってこの1ヵ月半あまりを振り返ると、その前後で自分の中で大きな変化があり、改めて出版ということの重みを感じている。

 今回、最も苦労したのは本のタイトルだった。この7年余り、特にテーマを定めずに書きたいことを書き散らしてきた。むしろ自分の中にあるさまざまな面を満遍なく出そうと心がけてきた。それを一つのタイトルでくくることなど不可能に思えた。代表的なエッセイのタイトルをそのまま本のタイトルにしてしまうという手もあったが、それではこれまでのエッセイをただまとめただけに終わってしまう。せっかく本として出版するからには、新たな「作品」として世に問いたかった。

 タイトルを考えながら過去のエッセイを読み返しているうちに、エッセイをいくつかに分類することができたので、それを元に章立てを行った。しかし、それらを統一するテーマとなると、やはり適当なものは思い浮かばなかった。代わりにある疑問が浮かんだ。そもそも自分は何のためにエッセイを書いてきたのだろうか。するとそれに対して、「生き方さがし」という答がすぐに浮かんだのである。僕はこのエッセイを書きながら、自分の生き方をさがして来たのだ。生き方さがしの軌跡として見直すことで、これらのエッセイは新たな価値を持ち、次のステップへとつながっていくのではないか。「生き方さがしという選択」というタイトルはそうした経緯で生まれたのである。

 逆にこのタイトルは、僕に改めて「生き方さがし」について考えさせることになった。偉そうなタイトルをつけてしまったが、僕の生き方さがしはどれほどのものだろうか。生き方をさがしてソニーを辞めたことは確かだが、自分は何か確固としたものを見つけたのだろうか。いま、自分がやっている仕事で、自慢できるような成果は何もないではないか。

 しかし、そんなことを思い悩んでいるうちに、仕事を成功させようと焦っている自分が一歩離れたところから見えてきたのだ。問題は、仕事がうまく行くか行かないかではなく、仕事に対して自分らしい取り組みをしているかどうかということではないのか。相撲でも、「大切なのは勝敗ではなく自分の相撲を取りきること」と言うではないか。自分らしさを存分に出したときに結果はついてくるものなのだ。手詰まりなのは、本気で自分の生き方を追求していないからなのだ。

ソニーを辞めて生き方さがしの旅に出たと言えば悲壮な選択に聞こえる。しかし、自分らしく生きることは、実は最も力強い生き方ではないだろうか。そのことに気がついたことで、僕は自分の中で新たに力が湧き起こるのを感じているのである。今回の出版は、改めて自分の生き方を見直す貴重な機会となったのである。

格差と平等

上海でも日本の焼肉は人気だが、価格は日本並みかそれ以上である。しかし、そこでバイトしている人の時給は10元(130円程度)にも満たない。これでは、いくら頑張っても焼肉を食べられるような身分にはなれそうもない。

だが、こうした人件費の安さは、雇う側にとっては大きな強みとなる。安い労働力は、高い利益率を生む。中国でもし高品質の商品やサービスを扱って成功すれば、短期間に日本では考えられないような巨大な富を築くことができるのだ。安い労働力は、ただ輸出競争力を高めるだけでなく、中国の人々に成功のチャンスと意欲を与えているのである。

一方、日本では何をやっても人件費が重くのしかかる。企業は、この数年、本格的に人件費の削減を進めている。終身雇用をやめ、また、正社員を減らして派遣社員に切り替えた。最近では、かつては当たり前だった社内研修の費用を抑えるために、あえて新卒者を採らず、即戦力となる社員のみを中途採用で採るケースも増えているらしい。その結果、日本でもじわじわと格差が広がり始めている。中国に対抗しようとするうちに、中国の格差が回りまわって日本に輸入されてきているのである。

しかし、果たしてこれで良いのだろうか。目先のことばかり考えて人件費をカットすれば、結局、日本全体の購買力が低下し、自分で自分の首を絞めることになる。確かに、周りが全て非正規雇用者を多用するなかで、自分のところだけ終身雇用を続ければ倒産してしまうかもしれないが、長い目で見れば、非正規雇用者が増えることは企業にとっても日本経済にとっても決してプラスではない。

人経費だけではない。コストダウン、合理化努力と言いながら、やっているのは仕入先への値引き要求ばかりだ。もちろん、無駄が多く合理化余地が十分あった時代はそれで良かったが、限度を超えた値引きの強要は、仕入先の経営を圧迫し、品質の低下を招く。確かにビジネスは厳しい。だが、人件費を削ったり、仕入先いじめをする前にやるべきことはないのだろうか。中国の安い労働力に対して、そうしたコストダウンだけで対抗していては、日本経済は自滅の道を歩むしかない。

ところで、ここ数年、日本の温泉ツアーが人気だ、日本の洗練されたもてなしは決して中国では味わえないものだ。マンガやゲーム、若者のファッションなども中国人を惹きつける日本の文化の一つだ。中国から見れば、日本にはすばらしいものがたくさんあるのである。しかも、彼らが知っているのは日本の魅力のほんの一部に過ぎない。

こうした日本独特の文化が発達したのは、誰もが平等に暮らせる日本社会があったからではないだろうか。格差を利用して発展を続ける現在の中国のような社会では、そうした成熟した文化が大衆から生まれることは当面ありそうもないからだ。

そろそろ安易なコストダウンから脱却し、自分たちの強みを活かした新たな付加価値の創造を、今こそ真剣に考えるべきときではないだろうか。

死と意識

 人が死んだらその意識はどうなるのであろうか。これは、昔から人々を悩ませてきた問題である。人であれ動物であれ、それまでいくら元気でも、死ねば動かなくなり、ただの物体になってしまう。そして死ぬと同時に意識も消えてしまうように見える。

 死ぬと意識は霊魂となって肉体から抜け出すのかもしれない。そんなことは科学的にありえないという人がいるだろうが、科学は客観的に計測できるものだけを扱い、計測できないものは相手にしない。この世界が計測できるものだけでできているかどうかまでは、科学では証明できない。もっとも、だからと言って、霊魂があることにはならないのだが。

他人のことはあくまでも想像になるので、自分が死ぬと意識はどうなるか考えてみよう。自分の意識が肉体に強く関わっていることは確かだ。体調が悪ければ気分も優れないし、腹が減れば血糖値が下がって元気が出ない。もし自分の肉体が死ぬようなことがあれば、タダでは済みそうにない。

では、意識と肉体は一心同体かというとそうでもない。肉体の日常的な活動はほとんど意識を必要としない。食べ物を消化吸収するのも、病原菌をやっつけるのも肉体が勝手にやってくれる。逆に、ガンになりたくない、年をとりたくないといくら意識が望んでも、肉体はいうことを聞いてくれない。肉体は意識の助けがなくとも十分自分だけでやっていけそうである。意識は肉体に間借りする居候のようなものだ。

ところで、意識という言葉を適当に使っているが、意識とは一体何かと聞かれたら、答えるのは容易ではない。意識に注意すれば、意識があると自覚できるが、何かに夢中になっている時は、意識などというものは忘れている。眠っている時の意識は起きているときとは異なる。そうした意識のさまざまな状態を理解しようとすれば、それはすでに過去のものとなったことを客観的に捉えようとしているに過ぎない。しかし、そもそも主体としての意識を客観的に捉えることなどできないのである。

「我思うゆえに我あり」とデカルトは言ったそうだが、その「我あり」と言っているところの「我」は意識の主体であって、肉体のことではない。しかも、彼がそういう言い方をしてまで「我」の存在を確かめようとしたのは、主体である「我」を客観的に認識することができないとデカルトはわかっていたからである。

話が難しくなったが、死ぬと意識がどうなるかを想像するのが難しいのは、意識自体につかみどころがないからである。デカルト流に考えれば、そもそも「意識」というものは想像してはならないのだ。しかも、「我思う」ことは、常に肉体が関係している。意識の問題は、デカルトが考えていた以上に難しそうである。

確かに言えそうなことは、死ぬと意識はどうなるか、などと頭を悩ませているうちは、けっして謎は解けないということだ。しかし、だからこそ死は深く示唆に富んでいるのかもしれない。

生き方さがし

 最近テレビで、世界に飛び出して活躍する日本人や何か手に職をつけた人を特集した番組が目につく。仏像の番組も多いし、書店には宗教本のコーナーも目立つ。どうやら、世代によらず、多くの人が生き方を求めてさまよっているようだ。

現代は科学の進歩により経済が飛躍的に発展した時代だ。かつて人々に大きな影響力を持っていた宗教や道徳といったものは力を失い、世界中が経済を中心に動くようになった。確かにこうした経済的な発展はかつての貧困や病気の恐怖から人類を開放し、人々の暮らしを豊かにしたかもしれない。しかし、経済が発展すればするほど、その代償を払わなければならない。競争だ。そして競争を勝ち抜くためには、より経済に力を入れざるを得ない。こうして気がつけば人類は経済に支配されてしまったのである。

ところが日本のような先進国は、中国やインドなどの新興国の台頭により、このところ競争力の低下が著しい。経済成長に陰りが見え始めたとき、それまでの競争に対して疑問が芽生えた。だが、それに代わる確固とした価値観もない。経済が全てではないと口では言ってきたが、まじめには考えていなかった。多くの人が生き方を見失い、さまよい始めたのにはそうした背景がある。

経済的な状況が引き金となっているとはいえ、経済的な弱者だけが生き方に悩んでいるわけではない。かつてのオウム真理教事件では、その異様さ、不気味さが世間を戸惑わせ、犯人たちは厳しく糾弾された。しかし、オウムに入信した人たちは、自らの生き方を求めて行動を起した人たちであり、何もしない人に比べれば生きることに真剣だったとも言えるのである。しかし、彼らは社会から一方的に拒絶され、単なるカルトの脅威として片付けられてしまった。だが、今日の状況を見るにつけ、こうした対応は実は社会の未熟さの表れではなかったか。今、多くの人が生き方を見失うことになった本質的な問題は、経済的な発展に比べて未成熟なこの社会に隠されているように思えるのである。

 もちろん、生き方に対して悩むのは今に始まったことではない。生きる意味についてはあらゆる宗教家も哲学者も昔から悩んできた。それは人間にとって根源的な悩みなのだ。しかし、今、生き方に悩んでいる人々の状況は少し異なっている。かつての宗教や哲学は、少なくとも人々に自らと向き合い生き方を見つめる「場」を与えてくれたが、今の人たちにはそれがないのだ。人々はどうしてよいかわからぬまま、漠然とした不安に苛まれているのである。

考えようによっては、生き方に悩むなどということは人間だけに与えられた特権である。経済成長に陰りが見えるにせよ、食べるものもない貧しい時代も、悩む間もなく働き続けた高度成長時代も終わり、生きる意味について悩むことができる時代がやって来たのである。生き方を見つけるために生きている、そう自覚できれば、また悩み方も見えてくるのではないだろうか。

父のテープ

 先日、荷物を整理していたら、父の声が録音されたカセットテープが出て来た。僕が高校3年の秋、当時46歳だった父が担任の先生との進路面談に臨んだときのものだ。

 録音された直後、冒頭の数分間だけ聞いてやめたのを覚えている。通して聞いたのは今回が初めてだ。しかし、すでに34年の歳月が流れているにもかかわらず、改めて極度の絶望感に捉えられ、1週間ほど抜け出すことができなかった。

 当時の僕は父に対して全く拒絶状態で、まともな会話は成り立たなかった。そんな父が担任の先生と勝手な話をし、それを元に説教されるのは想像するだけでも耐えられなかった。当時の成績では良い話が出るはずもなかった。この録音は、そうした状況で僕から父に頼んだものだった。

 話題の中心は成績と進路のことである。冒頭から、出来の悪い息子の成績について、担任からいかに深刻な状況であるかと切り出され、ひたすら恐縮する父の姿に、こちらも思わず赤面し額に汗がにじんでくる。父には、多少成績が悪くとも受験校でもあるし、何とかなるのではないかという期待があったのだとおもう。しかし、そんな楽観はたちまち吹き飛ばされてしまったのだ。しかも、勉強をやらないというならまだしも、「本人はまじめにやっているようなのに、なぜこんな成績なんですかね」と、先生も半ばあきらめを諭すような口調なのだ。

 この面談を待つまでもなく、僕には自分が置かれている状況が良くわかっていたし、その原因、つまり自分の成績がなぜ上がらないのかもある程度はわかっていたのである。しかし、それを解決する手段となると自信がなかった。当時、僕が望んでいたのは、そうした自分の状況を冷静に判断し、的確な助言を与えてくれることだった。しかし、面談は出口がないまま、僕からすれば全く的外れな議論に終始した。何とか体勢を立て直すヒントを期待していた僕の期待は完全に裏切られたのである。当時、このテープを最後まで聞くことなど到底不可能だったのだ。

 その後、僕は浪人し、自分のやり方でゼロから勉強しなおした。もちろん思い通りに行ったわけではない。しかし、自分だけの力でやるだけやったことが何よりも大切だった。それは確かにその後の人生で大きな自信となったのだ。

それにしても、今回改めてテープを聴いて感じたあの絶望感は何なのだろうか。大学以降も確かに僕の人生は平穏ではなかった。しかし、自分で撒いた種は自分で刈り取ってきたつもりだった。にもかかわらず僕の心には未だに強烈なコンプレックスが染み付いているのである。恐らく僕の生き方には何かまだ肝心なものが欠けているのだ。

 この録音の後、父は5年を待たずにこの世を去り、僕が父に対して心を開く機会はとうとうなかった。しかし、今や同じく高校生の親となった僕には、このテープから息子への愛情とそれゆえに翻弄される父親の気持ちを汲み取ることができる。父に対するコンプレックスからは少しずつ開放されつつあるようだ。

消費者の質と市場原理

先日、マクドナルドの新製品を手にした女子高生たちが、「コレ、チョーウマイ」と盛り上がっている様子を見て、このところずっしりと手ごたえのあるものに出会っていないと、ふと思った。どうも世の中そういう雰囲気ではなさそうだ。

メーカーより流通が強いといわれて久しい。家電メーカーの営業は家電量販店に出向いて頭を下げ、どういう液晶TVが売りやすいかお伺いを立てている。食品メーカーも、味やパッケージデザイン、さらには賞味期限までもスーパーやコンビニの意向に神経を尖らせる。売りやすさとはお客様のことを考えてのことだから、一見、消費者のニーズに応えているように見えるが、実はそうでもない。

いかに買う気にさせるかということは、昔も今も商売の基本であることに変わりはない。かつては良いものを作って消費者の心をつかむというのは当たりだった。そこには売る側と買う側の真剣勝負があった。しかし、最近では売る技術の高度化にともない、商品の質は買う気にさせるためにあまり大きなウエイトを占めなくなっているように思える。消費者が手を伸ばすかどうかは、むしろ販売促進のためのさまざまな工夫によるところが大きいのだ。

コンビニはその典型だろう。24時間営業、行きやすい立地、入りやすい雰囲気(これには立ち読み客が一役買っているが)。スイカやパスモはお金の出し入れの手間さえ省く。もちろん商品自体にも客の興味を誘う仕掛けが満載である。手ごたえのある商品などとは無縁のコンビニが現代の小売業界の雄なのだ。

売る技術の高度化は何も物品の売買に限らない。かつては玄人に限られた世界だった株取引も、今ではパソコンやケータイからのネット取引が当たり前になり、学生や主婦も気軽に参加できるようになった。ゲーム感覚だから損をしても実感が薄い。手軽さだけでなく損を重く感じさせないことも金を使わせるためのミソなのだ。

市場原理とは本来、安くて良いものが勝ち残り、その結果、生活が豊かになる仕組みだったはずだ。つまり、売る側と買う側のバランスの上に市場原理は成り立つのである。だが、売る技術の進歩により、消費者はニーズもないのに購買意欲を喚起されるようになった。逆に商品の質は落ち、消費者の満足度は落ちる。メーカーは商品の寿命が短くなったと嘆くが、自らそうした結果を招いていることに気がつかない。金融資本主義ばかりが槍玉に挙げられているが、今回の世界的不況は、売る技術の過剰な発達によって市場経済のバランスが崩れ機能不全に陥ったことが根幹にあるのではなかろうか。

重要なのは、これは売る側だけの責任ではないということである。自らの思考を停止し、売る側に依存し切った消費者に実は問題があるのだ。最近の消費者には、本物をじっくり味わう余裕も忍耐も感じられない。市場を健全な状態に戻すために問われているのは、何よりもまずそうした消費者の質なのではないだろうか。