生涯の師 小林秀雄

生涯の師は誰かと聞かれれば、僕は迷わず小林秀雄と答えるだろう。直接面識もなく、ましてや師事したわけでもないが、彼の文章から受けた影響は、彼をそう呼ぶにふさわしいものがある。

それほど僕を惹きつける小林秀雄の魅力とはなんであろうか。彼は近代日本文学において、はじめて「芸術としての批評」を確立したと言われる人である。その対象は文芸に留まらず、モーツァルト、ゴッホなど分野を越えて縦横無尽に広がっている。彼のそれらの対象に対する造詣の深さは並み大抵のものではない。「ドストエフスキーの作品」を書くために、小林は「罪と罰」や「白痴」などの作品を、何十年もかけて何十ぺんと熟読したと言われている。ロシア文学の専門家といわれる人でも、ドストエフスキーの研究書の類は読んでも、こうした作品をそのように読み返すことはないそうである。彼はもとよりそうした専門家ではない。彼のあらゆる作品は、あくまでも彼が受けた強い感動から生まれているのである。しかも彼は言う、「優れた芸術に感動すると、何かを語ろうとする抑えがたい衝動が沸き起こるが、しかし口を開けば嘘になる。そういう意識を眠らせてはならない」、と。彼の創作は、常にそういう意識のもとで行われてきた。ここに小林秀雄の批評家としての独自性があるのである。

小林の「モオツァルト」に、次のような一節がある。「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていた事を思い出そう。彼の精神の自由自在な運動は、いかなる場合でも、音という自然の材質の紆余曲折した隠秘な必然性をめぐることにより保証されていた。」彼はあえて、これをモーツァルトの「自由」と呼んでいるが、これはまた小林自身が創作において目指した「自由」ではなかったか。そして、小林秀雄を読むものが常に彼の中に見つけ、惹き付けられて止まないものではないだろうか。

この十数年、生活上の卑近な問題に追われるうちに、彼のあまりにも純粋でひたむきな世界は、無意識の内に近づきがたいものとなっていた。しかし、先日、久しぶりに本棚の彼の全集を手に取ってみると、彼の文章は干からびた僕の精神を潤すかのように、たちまち体内に勢い良く流れ込んできて、若い頃、僕を夢中にさせた彼の鋭い直感が、実は小林秀雄という精神の成熟の上に築かれていたことを改めて知らされることになったのである。

「脱力」のすすめ

一年の計は元旦にありという。ここ数年、新年を迎えると努めてその年のテーマを決めるようにしている。決めるといっても何かに書くわけでもなく、途中で変更することも珍しくない。新たに思いつけばその都度付け足す。こんなルーズな一年の計だが、やってみると、それなりに効果はある。もし一年で終わらない場合は、もちろん次の年に繰り越しである。いずれにせよ自分のことだ。どうやろうが勝手なのである。今年のテーマはかねてから「脱力」にしようと思っていた。

「脱力」を大いに意識するようになったのは、昨年、ピアノのS先生に、散々手首の力を抜くように指導されてからである。手首の力を抜くとはどういうことなのか。力を完全に抜けばだらりとしてしまいピアノは弾けない。当初、何ともつかみかねたが、とにかく椅子から立ち上がって固まっている手首をぶらぶらさせたり、思い切って上下左右に動かしているうちに、それまでいくら注意してもつかえていた箇所が急に魔法のように通るようになり、力を抜くことの重要性を思い知らされることになったのだ。弾けないと、余計むきになって指をコントロールしようとする。しかし、コントロールしようとする思いこそが、実は手首を固まらせ、指の動きを妨げるのである。このピアノにおける体験は全く新鮮で、自分が人生でそれまで取ってきたアプローチの限界をはっきり悟らされることになった。つまり、ピアノに限らず、物書きにおいてもビジネスにおいても、自分が向上しようと取り組む全てのことに当てはまるように思えたのである。

「脱力」しなければならないのは、すでに余計な力が入っているからだが、そもそも理にかなった力の入れ方をするにはどうすればよいのか。ピアノにおいては、何をおいてもまずよく音を聴くことが大切だ。そして指を動かそうとするのではなく、イメージした音を響かせるよう心がける必要がある。それをピアノ以外のことにどうやって応用するかが、今年の課題である。何をやるにしても、無闇に力を入れる前に、何が最も大切であるかをはっきり意識しなければならないのは間違いない。

とはいえ、最初からあまり構えてみても始まらない。まずはいつも「脱力」を心がけることから始めよう。そして、時には億劫がらずに椅子から立ち上がり、手をぶらぶらさせてみるのである。

教わるということ

何でも自分でやらないと気がすまない性格のせいか、この歳になるまであまり人に何かを教わったという覚えがない。習い始めて7年ほどになるピアノも、教わると言うよりアドバイスを受ける程度の感じだ。先生方(僕よりずっと若い)も、僕のような大人の生徒に対しては、あまり細かいことは言わない。音大を受けるわけでもなし、あくまでもピアノを楽しむことが前提だからだ。そんな僕に、最近、思わぬ転機が訪れた。先生が交代したのである。

S先生に代わった当初、僕の演奏は「機械的で全く表情がない」と評された。一方で、僕が曲の解釈について一通りの能書を並べるので、「言いたいことはあるようだが、全く演奏に現れていない」と思ったようだ。そこで表情に関していろいろ指示が出された。どう歌うかよく頭に描いて!もっと大きく表情をつけて!気持ちはクレシェンドで、でも音は大きくしないで!...などなど。しかし、こんなことを立て続けに言われても技術が追いつかない。そもそもどういうふうに弾けばよいのかすらピンと来ない、そんなレベルである。イメージのないままもがいても、ますます肩に力が入るだけだ。いっこうに音楽的になってこない僕の演奏に先生の苛立ちは募って行った。だが、正しい弾き方さえ理解すれば必ず弾けるようになる、という彼女の信念が揺らぐことはなかったのだ。

僕の練習を横から見つめ、じっとどこが悪いのか集中する。表情が付かない原因の一つは、一つ一つの音に十分注意が払われていないためだ。それを僕に自覚させるため、恐ろしくゆっくり弾くように指示される。気持ちが指先から鍵盤に完璧に伝わるように意識を研ぎ澄まさなければならない。なるほど、と思った次の瞬間、彼女は「この弾き方では絶対に弾けない!」と叫ぶ。「力が入っていて手首が全く使われていない!」確かにそのせいで僕の演奏は固いのだ。ただ、力を抜くのは楽ではない。手首にばかり注意が行くと、すかさず、「音楽に集中していない!」と叱咤が飛んだ。「心で歌わなければ、指が動くはずがない!」。それはそうなのだ。

そんなS先生に、先日、突然「驚くほど上手くなった」と言われた。指導の効果が出はじめたのだ。ちゃんと教われば、上達するものなのだ。しかも、その影響は僕の生きかた全体に及び始めている。ピアノを通して教わったことが、自分の中に眠っていたものを徐々に引き出しつつあるからである。