「経済最優先」の嘘

 先日、日銀がマイナス金利を導入した。銀行が日銀の当座預金にお金を預ける際に、利息を払う代わりに手数料を課すことにしたのである。

 これまで日銀は金融緩和政策により銀行から国債を買い上げ銀行に資金を供給してきた。その資金が企業への融資に回ると期待したからだ。ところが、肝心の企業の投資意欲は低く融資は拡大しない。やむなく銀行は日銀にその金を預け利息を取ってきたが、これでは金融緩和策の効果がない。そこで日銀は企業への融資にもっと力を入れるよう銀行にプレッシャーをかけたわけである。しかし、それで必要のない金を企業が果たして借りるだろうか。

 本来ならば企業の資金ニーズを増やすのが筋だ。そのためには新たな投資意欲を刺激するような政策が必要だ。しかし、今の日本では新規事業を立ち上げようとしてもすぐに規制の壁にぶち当たる。また、銀行は実績のない新参者にはけっして金を貸さない。今の銀行には将来有望な企業を発掘して育てていくという能力が決定的に欠如しており、金融緩和をしても融資が増えない一因となっている。

 日本経済を蝕むそうした問題に切り込まなければ、本格的な景気の回復は期待できない。だが、そんなことをすれば既得権者から反発が起き、政府に対する逆風も強まるだろう。なんとか痛みを伴わず見栄えのする景気対策はないものか。そこで熟慮の末考え出されたのが大規模な金融緩和政策だった。

 だが、ここに来てそうした安直な政策もメッキが剥がれてきたようである。マイナス金利の導入により、一旦は800円あまり上昇した株価は、その後、1週間足らずで元に戻ってしまった。政府は原油安や中国の景気悪化など外部にその理由を求めているが、市場はすでに金融緩和の限界を悟り、逆にそのリスクの回避に動き始めている。

 これまで安倍政権は「経済最優先」を高らかに掲げ、金融緩和によって円安に誘導し株価を吊り上げてきた。それによって得た高い支持率を背景に選挙に大勝し、その勢いを借りて強引に安保法制を可決させた。憲法違反などどこ吹く風である。原発の再稼動も開始した。国民の生命を脅かす使用済み核燃料のような頭の痛い問題はもちろん棚上げで、すっかり福島第1原発事故前に逆戻りしてしまった感がある。一方、最優先だった経済はどうか。実質賃金は4年連続低下で消費は低迷、GDPも2期連続の減少という惨憺たる結果だ。

 こうした経緯を振り返ると、安倍氏が心血を注いだのは自らの独善的な政策の実現だけで、「経済最優先」はそれらを遂行するための巧妙なカモフラージュに過ぎなかったと言わざるを得ない。少なくとも最優先で経済に取り組む覚悟があったとは思えないし、またその能力もなかったのだ。もっとも、安倍氏当人は金融緩和マジックで経済が立ち直ると本気で信じていた節もあるが。

 ここに来て次の選挙を睨んだ人気取り政策がまたぞろ繰り出されている。だが、いつまでも騙されているわけにはいかない。ツケを払わされるのは国民なのだ。

アベノミクスに見る危うさ

 先日、日経夕刊のトップに、大きな見出しで「賃金4年ぶり増加」(2014年)とあった。だが、よく見るとその横に小さく「物価上昇で実質2.5%減」とある。これはリーマンショック後の2009年の2.6%減に次いで過去2番目の減少幅だそうだ。

 輸入企業にとってアベノミクスに伴う急激な円安は深刻だ。76円代だったドルがこの2年半ほどで120円程に上昇し、仕入れ価格は1.5倍以上にもなっているのだ。これほど仕入れコストが上がれば値上げするしかない。だが、消費税の引き上げで売り上げが落ちている状況では値上げは難しい。また、値上げしたくてもスーパーなどの売り先は簡単には許してくれない場合もある。そうなれば小さな企業はとても持ちこたえられない。

 自動車を始めとする輸出企業にとっては確かに円安は有利だ。ドルベースで見た日本製品の価格は下がり、企業は現地で値下げして販売増加を狙うか、価格を維持して利益を増やすかのいずれかを選択できるわけだ。もっとも、政府の期待に反して多くの企業は後者を選んだ。その結果、輸出企業の利益は急増したが肝心の輸出量は増えない。そのため設備投資は増えず、そうかと言って利益が全て給与に回る訳ではない。常に厳しい競争に晒されている輸出企業が降って湧いたような円安に有頂天になり大盤振る舞いするわけがない。

 そもそも今回の量的緩和による円安誘導には、かつて日本経済を支えていた輸出企業の競争力が円高によって低下し、それが日本経済全体を沈滞させているという認識の上に立っていた。だが、日本の競争力を低下させたは円高ではない。安い労働力を武器にした中国などの新興国の台頭が最大の要因なのだ。かつてない強力なライバルが現れたのである。

 それに対抗するため、日本企業は新興国に打って出てその安い労働力を利用する戦略を取った。その結果、日本の物価は大幅に下がり、給与は増えずとも実質的に生活の質を向上させて来たのである。日本は徐々に輸出で稼ぐ国から輸入で稼ぐ国に体質転換してきたのだ。事実、今回の円安によって輸入コストが急増し、貿易収支は過去最悪となった。アベノミクスでは、デフレが諸悪の根源のように言っているが、デフレは新興国のパワーを日本の利益として取り込んだ結果でもあったのである。

 「物価が上昇すれば、値上がり前に買おうと言う人が増え経済の好循環が生じる」と安倍首相はいまだに繰り返している。しかし、かつてのバブル崩壊に懲りた日本人は、多少賃金が上がったくらいでは無駄遣いはしない。さらに今の日本では誰もが大きな将来不安を抱えている。少子高齢化は社会保証費を増やし将来世代の負担を増大させる。非正規雇用の広がりによる格差の拡大も深刻だ。そんな状況で簡単に財布のひもが緩むはずがない。

 アベノミクスは実質賃金を低下させるだけで、経済の好循環には結びつかないのではあるまいか。昨年12月に、突如、経済最優先を唱え解散総選挙に打って出た安倍首相は既にそう思っていたのではないか。失敗も集票につなげる手腕には恐れ入るが、肝心なことには手をつけず、巧みなすり替えによって独善的な政策を推し進める政治手法は要注意だ。

自治体消滅

 先日、日本創世会議が公表した「消滅可能性市町村リスト」が話題になった。日本の人口減少に伴い地方の過疎化が加速し2040年までに約半数の自治体が消滅するという衝撃の予想だ。この数字自体には異論もあるようだが、地方の職の減少が若者の都市への流出を加速し地方の人口減少に拍車が掛かっているのは紛れもない事実だ。

 かつて登山などで田舎に行くといつも疑問に思うことがあった。この辺りの人たちは一体どうやって生計を立てているのだろうか。工場があるわけでもなく、山間の土地は農業にも向かない。観光客目的の飲食店や土産物屋の客もまばらだ。にもかかわらず、道路はきれいに整備され、目を見張るような立派なトンネルが通っている。何十億もかかるそうした土木工事がいったいどれほどの観光収入につながるのだろうか。だが、ある時、それは観光目的などではなく、地元の雇用創出のためなのだと気づき目から鱗が落ちた。

 公共事業と並んでもう一つ田舎の経済を支えているのが年金である。田舎では高齢化が進み年金受給者の比率が大きい。年金は生活費として消費されるため、それを目当てとしてスーパーなどが進出する。繁盛しているのであたかも経済が回っているかのような錯覚に陥るが、ひたすら年金を消費しているだけで何かを生み出しているわけではない。

 現代の日本社会は、都会の生産活動で得られた利潤を税金や社会福祉費として吸い上げ、公共事業と年金を通じて地方に回す構造となっている。こうした仕組みが出来上がった裏には政治家の票稼ぎがある。時の政権は選挙対策として公共事業予算をばらまき、地方もそうした予算を当てにしてきた。だが、永年のそうした体質が地方から自力で何かを生み出す力をすっかり奪ってしまったのである。

 こうした構造は、日本の国際競争力と言う点からも大きなマイナスである。日本の国民一人当たりのGDPは世界第24位(2013年)と主要先進国の中ではもっとも低い水準だ。票稼ぎに奔走してきた政治家達の永年の方策が、日本を非常に生産効率の悪い国にしてしまったのである。大都市への産業や人口の集中は、ある意味ではこうした低い生産性を是正しようとする流れとも言える。国際競争が日本の弱者を振るい落とそうとしているのだ。

 消滅から逃れるために多くの自治体は定住を促し人口の流出を抑えるのに必死だ。住人に対するさまざまな優遇策を打ち、またそのための予算を獲得するために血眼になっている。しかし、国全体の予算状況が厳しい中、予算頼みの方策には限界がある。

 それよりも、都会にはない地方独自の魅力に目を向けるべきではないだろうか。海外の観光客から見れば、豊かな自然や伝統的な食に恵まれた日本の田舎は宝の山だ。地方が自立するためには、そうした自らの貴重な資源を最大限に生かす知恵と工夫が大切だ。

 自治体消滅は地方だけの問題ではない。自治体が消滅すれば地方から都市への人材供給がストップし、次は都市を労働人口不足が襲う。ばらまき体質と決別し、国を挙げて地方の資源を生かす対策に本気で取り組まなければ日本の明日はない。

大国の憂鬱

 今年2月、ロシアのソチでは悲願だった冬期オリンピックの開催を宣言するプーチン大統領の満足そうな姿があった。だが、その大会の最中、目と鼻の先のウクライナで親ロシア派のヤヌコービッチ大統領に対する抗議デモが起き、大統領は国外に逃亡した。この事件を機にロシア系住民が多いクリミア自治区ではウクライナからの独立の機運が高まり、国民投票を経て瞬く間にロシアに編入されてしまった。

 一方、東アジアでは、このところ中国の海洋進出が目立ち、日本だけでなくベトナムやフィリピンとも領土問題で緊張状態が続いている。中国は国内でも新疆ウイグル自治区などでしばしば発生している民族問題を力で抑え込もうとしている。先日の天安門事件25周年においても、5年前の20周年のときに比べ政府のはるかに神経質な対応が目についた。

 かつての冷戦時代に東側を代表したこの2大国は、今になってなぜこうした強権的な行動に出ているのだろうか。

 25年前に冷戦が終結すると、ロシアも中国も資本主義経済に舵を切った。90年代のロシアは経済危機に見舞われたが、プーチンが大統領に就任した頃から天然資源の価格が高騰し経済は急速に回復した。一方、中国では改革開放政策による外資の呼び込みに成功し、2000年代に入ると驚異的な経済成長を遂げた。もはやイデオロギーの時代は終わり、いつかはこの両国も資本主義経済の枠組みに取り込まれ、世界は一元化していくのではないかと期待された。だが、両国の発展の裏ではさまざまな矛盾が生じていたのである。

 ロシアでは、欧米的な近代化を推し進めるために製造業を立ち上げようとしたが、産業を牽引する中間層が育たず、結局、国家が管理する天然資源に頼る体質に逆戻りしてしまった。その一方で、グルジアやウクライナなどかつてソ連に属した国々が次第にヨーロッパとの関係を強め、ロシアが描く地域秩序と安全保障を脅かすようになった。

 中国では人件費の高騰による国際競争力の低下により経済が減速し始め、国民はかつてのように明るい未来を描くことができなくなってきた。貧富の格差が広がり環境問題も深刻さを増す中で、下手をすれば不満の矛先は一気に共産党政権に向きかねない状況にある。

 こうした現状を打開するために、かつての冷戦時代の統治手法が復活しつつあるのだ。両国に共通するのは、資本主義経済に移行後も自分たちの価値観を西側に合わせるつもりはないという点である。未だに民主主義は育たないし、育てようとする気も見られない。独裁的な権力の下で国家主導の発展を目指し、国民もそれを支持する体質は、かつての冷戦時代、ひいてはそれ以前の帝政時代と本質的に変わっていない。

 だが、冷戦時代とは決定的に異なる点がある。それは彼らが経済的に世界中と深く結びついていることである。身勝手なやり方は、すぐに我が身に跳ね返ってくるのだ。

 強引な態度はむしろ彼らの弱みの裏返しだろう。日本を含め各国は、挑発に乗らず事態の正確な分析と冷静な対応が望まれる。

ストレスを避けるスマホ社会

 先日、NHKのある番組で道徳教育の問題を取り上げていた。ネットの影響による最近の子供の常識のなさを観ていると何らかの対策が必要だと感じるが、国家主導の道徳教育でそれが何とかなるとは思えない。とはいえ、家庭だけで解決できるレベルでもなくなってきている。番組を見ているうちにこちらも頭が痛くなってきたが、ふと、問題の所在は全く別のところにあるのではないかと思い至った。

 そもそも道徳などというものは、社会との交流なしに身に付くはずがない。周りを気遣うことの大切さを実感するには、実際に町に出て経験することが必要で、学校で美談ばかり聞かせても意味がない。子供たちの道徳観の欠如の根底には、子供同士、あるいは社会と子供が直に交流する機会の不足があるのではないか。

 今の子供たちは、実社会との交流よりもネット社会に慣れている。子供同士の人間関係も希薄だ。友達同士で集まっても、各自が勝手にゲームに没頭しているようでは人間関係とは言えない。

 僕が子供の頃は、好きな友達もちょっと嫌な奴も一緒に遊んでいた。だからいつも人間関係は微妙だった。いじめる奴がいれば、いじめられている奴の味方になる者もいた。親しい仲間同士でもしょっちゅう衝突があった。今思えば、かなりストレスのある環境だが、当時はそれが当たり前で、それでも十分楽しかった。

 誰もがこうした環境のなかでさまざまな体験をすることにより成長した。問題児も次第に広い社会に出るにつれて人間関係の中で揉まれ、自然に常識をわきまえるようになった。そこにはいつもストレスがあったはずだが、それを乗り越えることで一人前になったのだ。だが、最近は子供に限らずおとなもそうしたストレスを避ける傾向にある。

 その背景には、スマホに象徴されるIT技術の進歩がある。もともとスマホは情報の伝達を助けるための技術である。確かにネットに接続すればどこにいても世界中の情報が得られるし、LINEを使えば誰にでもいつでも要件を伝えられる。SNSの発達は、アラブの春に象徴されるような大きな社会的ムーブメントをも可能にした。一見、コミュニケーションは高度化したかに見える。

 しかし、そうした派手さの裏で人と人の直接の交流は明らかに減って来ている。スマホによる交流の方がストレスが少ないからだ。LINEやFacebookの急速な普及は、単に便利さだけによるものではなく、そこではストレスなく自己主張できるからなのだ。

 自動車の普及で人類は歩かなくなり、運動不足からさまざまな健康上のトラブルに悩まされることになった。一方、スマホの普及は人間同士の直接の交流を減らし精神的な成長を阻害している。その結果、ストレスに脆く粘りのない不安定な社会が形成されつつある。このところ運動不足を補うためにはジムに通う人が増えたが、スマホによって失われた精神的な強さを補うためのリハビリが求められる日も近いうちにやって来るのだろうか。

フリー社会

 ネット社会の大きな特徴の一つは、さまざまなサービスが無料(フリー)で受けられることだ。かつてGoogle Mapが登場した時、このような便利な地図サービスがなぜ無料で使えるのか誰もが不思議に思っただろう。おかげで当時何万円もしていた多くの地図ソフトはたちまち姿を消してしまった。

 普段ネットを観る時、われわれは当たり前のようにGoogleやYahooの検索システムを用いている。もはやそうした検索システムが無料であることに疑問を感じる人はいない。しかし、検索システムなしではネットの利用はほとんど不可能だ。ある日、Googleがそのシステムを、突如、有料化したとしたら、ユーザーはお金を払わざるを得ないだろう。しかも、こうしたサービスの提供にGoogleは莫大な費用を投じている。なにゆえGoogleはそうしたサービスを無料にしているのだろうか。

 もちろん、Googleは何らかの形で収益を上げている。メインはネット広告だ。Googleはユーザーが検索した全ての履歴を記録している。その人が何を探し何を買ったのか、スポーツに興味があるのか政治に興味があるのか、どのアイドルに興味を持っているのか、全ての情報は蓄積され分析される。そうした膨大な情報に基づき、その人が今まさに求めている情報を広告としてパソコンやスマホに表示するのである。こうしたシステムは日夜洗練されており、将来的にはその人の性格や行動パターン、人間関係から人生観に至るまでユーザー当人以上にGoogleが知っているという時代がくるだろう。Googleにとっては、検索システムを無料化しても、それを補って余りある見返りがあるというわけだ。

 しかし、無料化の理由はそれだけではない。ネット業界ではネット上のサービスを無料化し、別のところでその分を回収するというビジネスモデルが徹底的に研究されている。広告の場合には、広告を出す企業がお金を出す。ネット上のサービス自体が物品の販売促進になる場合は、もちろんそれを買った一部の人が負担することになる。かつてはサービス自体に課金するケースもあったが、無料サービスが急増し、無料だけで十分足りるようになると、特別な場合を除き有料サービスは見向きもされなくなってしまったのだ。

 もちろん、無料化がいつもうまく行くとは限らない。無料で提供する分をどこかで取り返さなければ、そのサービスは破綻する。多くのサービスがそのギリギリの線で運用されている。その代表例がFacebookだ。いまやSNSの雄となったFacebookだが、広告収入を増やそうとすればFacebookというブランドの価値が下がってしまうというジレンマがあり、永年にわたって収入より出費の方が多い状況に苦しんできた。投資家は将来、Facebookという無料サービスが莫大な利益をもたらす方法が見つかることを期待しているが、今でもそれは未知数なのである。

 フリーは必ず誰かがそれを負担することが必要だ。だが、その一定の負担が無限のフリーサービスを生み出す。フリーは、従来の価値観を覆す現代の打ち出の小槌なのである。

ネット新世代

 このところスマートフォンの無料通信ソフト、LINEが急速に広まったことにより、中高生の間では、いわゆる既読スルー(KS)が問題となっている。LINEではメッセージを読むと相手に既読通知が届くため、読んだらすぐに返事をしないと相手はわざと無視されたと感じることになる。その結果、メッセージを受け取ったらすぐに返事をしなければならないという強迫観念が常に中高生たちを覆い、大きな精神的な負担となっているのだ。

 同様の現象はかつて携帯メールが普及した際にもあったが、携帯メールが1対1であるのに対してLINEはグループ内の全員が同時にメッセージを受け取る。グループで情報を共有できる利点がある反面、常にグループ全員に気を使う必要があり、下手をすれば村八分にされる恐れがあるのだ。

 そもそもメールなどの短文による連絡は誤解を生みやすい。冗談で言ったことが本気で受け取られたり、好意を悪意と受け取られることもある。その微妙なすれ違いが何かのきっかけでグループ内で増殖し、特定のメンバーに対するいじめに発展することもあるのだ。

 いろいろな人間関係の中で生きてきた大人たちにとっては、LINEは単なる道具に過ぎず、既読スルーなど理解できないかもしれない。しかし、人間関係に対して免疫がななく、LINEへの依存度が過剰な中高生にとっては、その影響は計り知れないものがある。

 恐らくLINEが開発された当時は、このような状況は予想できなかっただろう。もともとFacebookのような不特定多数に広がるネットワークに個人情報上の不安を抱いたユーザーに対して、グループ内のみに範囲を限定することでより安心してコミュニケーションの場を提供することがLINEの狙いだった。しかし、個人でも不特定多数でもない「グループ」という中間的な規模が、思いもよらぬ複雑な人間関係を生むことになってしまったのである。

 スマートフォンの登場によりインターネットが身近になり、実社会で人間関係を築く前にネット社会にデビューする若者たちが急増している。ネットでの情報収集が日常的な彼らは、新聞や本はもとより、テレビにもほとんど関心がない。あらゆる情報はネットから得られると信じているのだ。

 テレビなどの旧来の報道では誰もが同じ情報を目にするため、社会がそれを監視することができた。だが、ネット社会では膨大な情報の中から各人が勝手に情報を選択し、社会的な情報の共有がない。受け手は、たまたま見た情報を信じる傾向が強くなり、それが誤りであっても気がつく術がない。誰がどのような情報を得ているのか、その情報からどのような影響を受けているのか誰にもわからないのだ。

 今後、実社会よりネット社会に先にデビューする世代が急速に増えて行く。人格はその人が育った社会環境に大きく左右されると言われるが、彼らの人格形成に得体の知れないネット社会が大きな影響を与えることは避けられない。それがどれほど深刻な事態を招くか、今はまだ誰にもわからない。

巨人の出現

 安倍政権になっても尖閣問題により悪化した中国との関係改善の糸口がつかめず、むしろ対決姿勢が強まっているように見える。安全保障の問題は確かに重要だが、その点ばかりをクローズアップしていたのでは状況を大きく見誤りかねない。

 最近、元外交官の河東哲夫さんの本の中にこんな下りがあった。「ソ連の崩壊は冷戦という観点から見れば高々45年の歴史に終止符を打ったに過ぎないが、中国の復活は300年間に及ぶ西欧支配、つまりは植民地主義が終焉を迎えたことを意味する」。この20年の中国の復活は、世界のパワーバランスを根本的に変えてしまったのである。

 産業革命による西欧帝国主義の隆盛と清王朝の衰退により世界は西欧中心に動き始め、中国は長い低迷の時期に入った。その後、辛亥革命、日中戦争、共産主義革命、文化大革命と大きな転機は何度もあったが、近代化は進まず低迷から脱する事はできなかった。いつしか世界中の人たちは、中国はイデオロギーの壁の向こうにある巨大な後進国家であり続けると信じて疑わなくなったのである。

 毛沢東の死後、改革開放が始まったが、それでも発展の速度はなかなか上がらなかった。だが、転機は突然やってきた。100年は続くと言われた冷戦があっさり終結したのだ。

 中国の人口はヨーロッパとアメリカを足したものに匹敵する。冷戦の終結とともに、その労働力を求めて世界中から投資の波が中国に押し寄せた。中国の労働力をいかに自分たちの利益として取り込むか、そして中国の市場をいかに早く切り開くか、出遅れれば致命的な打撃を受けることになったのだ。

 結果的に、中国をめぐる先進国のそうした競争が中国の近代化の扉を一気に開くことになったのである。冷戦という堰が切られ、近代化という水が一気に中国に流れ込んだのだ。気がつけばそこには、20年前には誰も想像しなかった巨人が立っていたのである。

 この突然の出来事は、さまざまな歪みを世界中に生じさせた。中国国内では急速な経済発展が貧富の格差や環境問題、さらには昨今話題の金融のゆがみなどを引き起こし、海外においては産業の空洞化、資源獲得競争激化、領土問題などで各国を悩ませている。中国発の巨大津波が世界中を駆け巡っているのだ。

 こうした問題はあまりにも急速な中国社会の変化にともなう副作用で、大地震後の復興のように解決には時間がかかる。だが、そうした個別の問題への対処にばかり注意していては事の本質を見誤る事になる。それよりも新たに出現した巨大パワー、現代中国とどのような関係を構築して行くかというグランド

「不確定性原理」の謎

先日、日本経済新聞の一面に、「物理の基本原則にほころび 『不確定性原理』修正か」いう記事が載った。もともとこの原理は量子力学の創始者の一人、ハイゼンベルクによって1927年に提唱されたものだが、一般の人にはほとんど馴染みがない。にもかかわらずこうした記事が日経一面を賑わしたのは、その衝撃の大きさを物語っている。

「不確定性原理」とは、ミクロの世界では「物の位置と速度を同時にある精度以上に測定することはできない」というものである。これは位置と速度を決めることにより物体の運動を正確に定めることができたニュートン力学に制約を課している。しかし、なぜそのような制約が出てくるのだろうか。ハイゼンベルクの説明は以下のようなものだ。例えば、電子の位置と速度を定めるためには電子に光を当て電子を見る必要がある。しかしミクロの世界では光を当てるという行為自体が電子の速度に影響を与え、結果的に位置を正確に見ようとすればするほど速度が曖昧になってしまうのだ。

ところで量子力学では、電子は「粒子」ではなく空間全体に広がる「波」として表わされる。実はこの「波」で表された電子は、自動的に不確定性原理を満たしている。位置の正確な「波」は速度が曖昧になり、速度が正確な「波」は位置が曖昧になるのだ。

では、この「波」が電子そのものの空間的な分布を表しているのだろうか。そう簡単には行かない。電子は観測すれば決まった電荷を持ったれっきとした「粒子」であり、「波」のように広がっているわけではないのだ。

では、この「波」は何なのだろうか。N・ボーアのグループは、「波」の振幅が電子が観測される確率に対応しているという説を提唱した。空間に分布している「波」は電子自身ではなく、電子が観測される確率の大小を表しているのだ。こうして電子は、「粒子」ではあるが、どこにいるかは確率的にしかわからないということになった。従って、ニュートン力学のような軌道は定まらない。ハイゼンベルクは、このような状態の「粒子」の位置と速度の間に「不確定性原理」が成り立っていることを導いたのである。「不確定性原理」は、量子力学と観測される物理量の関係について述べた原理なのだ。

不思議なことだが、量子力学と観測の関係はこれまでにあまり正確に検証されておらず、ハイゼンベルクの「不確定性原理」が一人歩きしてきた観がある。そこに異議が唱えられても不思議はなかった。今回の報道は、以前から「不確定性原理」の不正確さを指摘していた小沢教授(名古屋大学)の理論が実験的に証明されたというものだった。

「不確定性原理」の背景になっているのは、観測するまではさまざまな可能性を持っている物理量が、観測によって一つの値に定まるという考え方である。これは量子力学を築く上での基礎にもなっている。しかしながら、そのメカニズムはどうなっているのか、それが何を意味するのかは謎のままである。「不確定性原理」は、観測という物理学の基本が何を意味しているのか未だ不確定であることを露呈しているようにも見えるのである。

巨大エネルギーの解放

プレートが蓄えた膨大なエネルギーの解放が3・11の巨大地震を引き起こしたが、日本を襲う巨大なエネルギーは地震だけではないようだ。

このところ世界中であまりいい話は聴かない。アメリカ発の経済危機から回復する間もなくヨーロッパではギリシャやポルトガルなどの財政危機問題に直面している。エジプトを始めアラブ諸国でも次々と革命により政権が交代し時代の転機を迎えている。これまで好調だった中国経済も、物価の高騰、格差の急拡大で先行きに陰りが見え始めている。こうした世界の動きは、一見ばらばらに見えるが、実は資本主義市場の巨大エネルギーの解放によって引き起こされているのだ。

そのきっかけとなったのは、22年前の東西冷戦構造の終結である。冷戦の終わりは新興国台頭の幕開けとなった。中国を例に取れば、改革開放が一気に進み、堰を切ったように外資が流入し、瞬く間に世界の工場に登りつめた。中国の安い人件費を求めて先進国が押し寄せたのである。冷戦によって堰きとめられていた資本主義の巨大エネルギーが一気に解き放たれたのだ。

その余震は未だに収まる気配を見せていない。資本主義のエネルギーは、富を求めて世界中の新興国に流入し続けているのだ。その勢いはあまりに強く、もはや国家の統制を越えている。グローバル化といえば聞こえはいいが、制御不能の暴走なのだ。

企業は1つの国に縛られる必要はない。市場、労働力、資金、いずれを得るにも世界中の最も適した場所を選べばよい。しかも、日産やソニーのようにトップが外国人になり、さらに将来、本社機能も海外に移転することになれば、もはやその企業の出身地がどこであるかは重要ではない。企業は多国籍化し、世界を舞台に最も利益が上がる体勢を模索するのみである。企業の世界地図と国家の世界地図ではすでに大きなズレが生じている。

国家は法によって国を治めようとするが、その運転の原資となる税金は企業が稼ぎ出した利益だ。その企業が海外にどんどんシフトして行けば、税収は減り国力は弱まっていく。この15年ほど日本のGDPが全く延びないのは、企業の海外シフトの顕著な表れだ。とはいえ、税収を増やすために増税すれば、海外流出はさらに加速する。社会保障を国債でまかなうしかない日本は、すでに国家としては機能不全に陥っている。

企業は企業で、グローバル化した経済の中でかつてない厳しい国際競争に晒されている。油断すればあっという間に倒産の憂き目にある。今後、事業の海外移転はますます加速していくだろう。国内でも正社員は姿を消し、派遣社員が急増するに違いない。

今回の震災は、奇しくも政府の弱体化を露呈し、企業の海外シフトを加速させている。だが、これは日本だけの問題ではない。新興国の成長が一段落し、競争力が落ちてくれば、厳しい競争も少しは和らぐだろうか。いずれにせよ、国や企業に頼った価値観だけでは、これからの世界を生き抜いていくことは難しそうだ。