何のための憲法改正か

今年の憲法記念日、安倍首相は2020年までに憲法改正を目指す意向を示した。だが、その改正案は意外なものだった。

 日本におけるこれまでの憲法改正論議は、そのほとんどが第9条、特にその2項の改正についてのものだった。9条2項には、「前項(平和主義)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。これを改正して軍隊を持てるようにするか否かが主な争点だったのである。

 ところが、今回の安倍首相の提案は、2項をそのままにして新たに3項を設け、そこに自衛隊の存在を明記するというものだった。現行憲法では自衛隊を違憲とする意見があるので、憲法に自衛隊の存在を明示し、自衛隊の存在を保障しようというのだ。

 しかし、この3項が2項に矛盾しないためには、自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないことが必要だ。だが、これまで9条改正派は、自衛隊を「陸海空軍その他の戦力」であると認め、それに合わせて9条2項を改正すべきだと主張してきたのである。

 実際には現行憲法においても海外からの侵略に対して自国を守る権利、つまり個別的自衛権は認められている。自衛隊が自衛のためだけの戦力である場合には違憲ではないとされているのだ。つまり自衛のためだけの自衛隊なら、わざわざ3項を加える必要はないのだ。

 安倍首相は2年前に集団的自衛権の行使を容認する安保法案を可決させている。その彼が自衛隊を個別的自衛権の範囲に留めようとするはずがない。ただ、多くの憲法学者が、個別的自衛権の範囲内ならば合憲とされる自衛隊も、集団的自衛権を行使すれば違憲であると主張している。安倍氏はその点を何とかしたいと考えているのかもしれない。

 9条改正派は、現行憲法は敗戦直後という特殊な状況下でGHQによって無理やり押し付けられたもので、その結果、日本は軍隊を持てず一人前の独立国家たり得ないと主張する。さらに北朝鮮のミサイル問題や中国による海洋進出などを引き合いに出し、日本を取り巻く環境は急速に悪化しているなどと危機感を煽っている。だが、だからと言って果たして9条を改正する必要があるのだろうか。

 たとえ「軍隊」を持ったとしても日本単独で自国を守れる訳ではなく、日米安保に頼る体制は変わらない。また、最近では直接的な軍事衝突よりもテロやサイバー攻撃の脅威が急速に増しており、強力な軍隊で国を守るという考え方は陳腐化しつつある。そして何よりも、もし軍隊を持てば、日本は「戦争をしない国」の看板を下ろさざるを得なくなる。その外交的な損失は計り知れない。それによって軍事バランスが崩れれば周辺国を刺激し緊張が高まることは間違いない。テロの標的になるリスクも高まるだろう。むしろ戦争放棄と平和主義を積極的に掲げ、現在の防衛体制を強化する方がはるかに現実的ではなかろうか。

 何れにせよ憲法はオリンピックに合わせてあわてて改正するようなものではない。いったい何のために憲法を改正するのか、国民一人一人がよく考える必要がある。

アフィリエイター

 ネットであることを調べようとすると、記事はいくらでも見つかるのだが内容に大差がない。もっと深く知りたいと思っても、そうした記事は見つからない。まるでどこかに大元があって、大勢に人がそれをコピーしてUPしているとしか思えない。不審に思ってネットに詳しい友人に話すと、「それはアフィリエイトだよ」と教えてくれた。

 ネットを検索していると、そのサイトには記事に関連したさまざまな広告が出ている。アボカドダイエットを調べると、痩せるサプリメントの広告が多数出てくる。このサイトを検索した人は痩せたい人が多いだろうから、そうした広告をクリックすることは多いはずだ。

 だが、どうしてその記事に都合よく関連した広告が貼り付けられているのだろうか。これはそうした記事を選んで誰かが広告を載せているわけではない。広告を載せるために記事を書いているのだ。これはアフィリエイトと呼ばれる行為で、ダイエット法やお金の増やし方、旅行など話題について記事を書き、そこに広告を貼り付けているのだ。

 そうした広告のバナーはAmazonなどから提供されており、それを自分の書いた記事に貼り付けておいて誰かがクリックするとその人にお金が落ちる仕組みなっている。

 こうしたアフィリエイトが成功するためには、まず自分の記事をユーザーに検索してもらわなければならない。そのためにはGoogleでいかに上位に表示されるかが最も重要だ。Googleで上位に表示されるためには検索者が用いる話題のキーワードを漏らさず含んでいる必要があるが、それだけではだめだ。Googleはユーザーにできるだけ質の高い情報を提供できるようAI(人工知能)を用いて、日夜、記事をチェックしており、ユーザーの誘導を目的としてキーワードばかりを散りばめたような記事はすぐに見抜かれ除外されてしまうからだ。従って、それなりに評価されるためのツボを押さえた記事を書く必要がある。

 アフィリエイトを生業としている人たちはアフィリエイターと呼ばれているが、彼らがまった広告収入を得るためには、少なくとも毎日10本程度の記事を書き続ける必要があると言われている。多くの時間はかけられないので、どこかからの借用になる。一見、専門家が書いているように見える記事も、大半は大元の記事をアレンジしただけの使い回しなのだ。

 そうした記事には、商品の広告だけでなく「関連サイト」の広告も貼ってある。だが、そのサイトもそのアフィリエイターが作ったもので、そこに誘導して新たな広告を見せるのが目的だ。検索者は得たい情報を餌に引き回され、広告ばかり見せられることになる。

 それだけならいいが、問題は記事の信憑性である。あたかも専門家が書いているようでも実は素人だから、記事の内容が誤っていても当人にはわからない。その結果、誤った情報が流布され、例えば健康に深刻な危害を及ぼすようなダイエット記事が氾濫するような事態も起こりうるのだ。

AIが生み出す未来

 最近、I o Tという言葉をよく目にするようになった。身の回りの様々な製品が次々とインターネットにつながることで、われわれの生活が大きく変貌を遂げようとしている。

 I o Tは単に製品がネットにつながるだけの話ではない。自動車の自動運転は、自動車という従来の製品をネットを通じて制御することで実現するI o Tの代表的な例だが、ネットの向こうではコンピューターに搭載されたAI(人工知能)が運転中に得た情報を迅速に処理し、危険を回避するための指示を常に自動車にフィードバックし続けているのだ。

 街中で人型ロボット「ペッパー」が店頭に立ち接客をしている光景を目にすることがある。だが、人が彼に話しかけた言葉はペッパーに内蔵されたコンピューターで処理されるわけでない。ネットでつながれた先のAIが処理しているのである。つまり最近のI o Tの進歩はAIの急速な進化に支えられているのだ。

 ネット通販で何か買おうと検索すると、その後、画面に鬱陶しいほどその関連情報が表示される。われわれがパソコンやスマホでどのサイトを覗いたかは全てGoogleなどに情報として蓄積される。ネットの向こうのAIはそうした情報からその人が何に興味がありどのような生活をしているかを分析し、その人に必要な情報を広告として提供する。さらにその広告の効果を分析・学習することで、随時、より効果的な広告の打ち方を見出していくのだ。

 薬を検索すれば、その人が健康上何らかの問題を抱えているということがわかるが、それにあわせてサプリメントや運動器具を勧めるだけでなく、年齢や家族構成、他に何を検索しているかなどを総合的に分析し、ストレス解消が必要だと判断すれば、例えば薬とは一見関係のない旅行を勧める場合もありうる。

 さらにI o Tによってわれわれが日頃使ってきた製品がネットにつながるようになると、パソコンやスマホだけでなくその製品を通じてさまざまな情報がAIに吸い上げられる。健康管理を助けるI o T機器を使えば、われわれの体温、血圧、さらには睡眠中の寝返りの回数やいびきの大きさまで、日夜、AIに蓄積され分析される。自動運転車に乗れば、いつどこに行き何を買ったかも全て記録されるのだ。われわれの生活に関わる全てのデータがI o Tによって記録されAIによって分析・把握されサービスに反映される。さらに、そのサービスに対するわれわれの反応を分析・学習してサービスの質を限りなく改善し続けるのである。

 そうした情報収集・学習はまだ始まったばかりだが、そう遠くないうちに本人よりもAIの方が自分のことを詳しく知るようになりそうである。AIはわれわれの健康を管理し、人間関係の相談に乗り、注文しなくても必要なものを手元に届けてくれるようになるのだ。

 AIによって世の中がどう変わるのかは想像がつかない。ただ、生活の利便性が高まるだけには留まらないことは確かだろう。例えば、選挙の投票行動に影響を与えたり、株や為替相場などにも深く関わってくるかもしれない。どこかの国の大統領選やその後の金融相場の予想外の動きなどを見ると、すでにAIの影が忍び寄っているのかもしれない。

経済成長という幻想

 最近、ニュースでは経済成長という言葉が金科玉条のように毎日繰り返されるようになった。だが、経済成長は本当に必要不可欠なものなのだろうか。成長が滞るとととんでもないことになると誰もが思い込まされているが、果たしてそうなのだろうか。そんな疑問が募る中、世界の経済成長はすでに限界を迎えているという興味深い番組があった。

 250年前、アダム・スミスは「皆が己の利益を追求しても、『見えざる手』に導かれるように市場は調整されうまくいく」と説いた。資本主義の始まりだ。その後200年あまり、世界経済は好況と不況を繰り返しながらも成長を続けてきた。ところが20世紀後半になると成長率の鈍化が顕著になってきた。

 それを打破するためにさまざまな手が打たれた。その一つが金融ビジネスの発明である。様々な金融商品が開発され、以前とは桁違いのお金が動くようになった。だが、結局、行き着いた先はリーマンショックだった。その後も世界各国は何とか高い成長率を回復しようと大幅な金融緩和を行っているが一向に効果が現れない。その結果、資本主義の必然として経済は成長するという考え方自体が実は幻想ではないかと考える人が出てきたのである。

 そもそも成長と言えば聞こえがいいが、実は一部の先進国が後進国から搾取することで潤ってきただけではないのか、と彼らは指摘する。資本主義の推進力である競争は、未開の国に犠牲を強いることで先進国内ではかなり和らげられて来た。だが、今やかつての後進国は次々と発展を果たし、先進国のツケを押し付ける先がなくなってきている。

 そうした中で先進国が従来の成長を維持しようとすれば必然的に競争が激化する。その結果、どうなるか。これまで国外に強いてきた犠牲を国内のどこかに押し付けるしかなくなる。近年、世界中で格差が急速に広がりつつある背景にはそうした事情がある。

 格差はもともと資本主義の宿命でもある。競争では勝者がいれば敗者がいる。放っておけば勝者は1人だけになり、残りは全て敗者になりかねない。それを防ぐために国家はさまざまな規制を設けてきた。だが、国際競争が激しくなるにつれて、国も競争力確保のために国内でのそうした規制を緩め、格差容認に舵を切らざるを得なくなってきたようだ。

 安倍政権は常々、強者を富ませればそのおこぼれで弱者にも富が行きわたると説明し強者を優遇してきた。だが、そうした恩恵が弱者に及んだという話は聞かない。儲かっている企業に給与を増すよう奨励しているが、競争が激化する中で法的拘束力もないそんな呼びかけに応ずるわけがない。政府の本音は、経済成長を振りかざすことで社会の批判を巧妙にかわしつつ格差社会の定着を図ることなのではないだろうか。

 そもそも経済成長と幸福はイコールではない。成長を追いかけることで格差が広がり不幸になったのでは元も子もない。にもかかわらず政府はいまだに経済成長があらゆることを解決してくれると信じている。いい加減に幻想から覚め、もっと多様な視点で生活の質を向上させる方策を本気で考えるべきではないだろうか。

現実逃避

 かつて学生だった頃は、今に比べて日本人も謙虚で、「欧米人に比べると日本人は堂々と意見を述べることができず、相手を説得することが苦手だ」というような言葉をしばしば耳にした。ところが最近では逆に日本人の良いところを誇示するような報道が目立つようになった。そうした日本礼賛において必ず引き合いに出されるのが中国である。

 この15年ほど仕事で中国に関わってきたが、だからと言ってことさら中国の肩を持つつもりはない。当局の一方的な主張には、時にはムッとくることもある。しかし、それにしても日本のマスコミのあまりにも偏った無責任な報道には違和感を覚えるだけでなく腹が立つ。なぜなら、そうした報道によって損をするのは結局我々日本人だからだ。

 20年ほど前には中国に脅威を感じる日本人などほとんどいなかった。当時、日本の経済力は中国の5倍もあり、それを背景に政府も自信を持って中国に対応して。しかし、その後の中国の急拡大と日本経済の長期にわたる停滞により、今では中国のGDPは日本の3倍ほどになった。立場がすっかり逆転してしまったのである。

 政府としてはこうした自国の体たらくを国民にさらけ出したくはない。国民としても、かつて上から目線で見ていた中国に対して現実を受け入れるのには抵抗がある。そんな空気を読んでマスコミは反中意識を煽り、国民の自尊心をくすぐるような報道に力を入れるようになったのではないか。だが、自ら反省することなく他人のアラばかり探すのは現実逃避に他ならない。そのツケは必ず自分たちに返ってくることになる。

 中国は国土も広く政治体制も日本とは異なる。そこには日本人が想像できないような多様な価値観が存在する。それを「尖閣」「爆買い」「シャドーバンク」などのわずかな、しかも負の側面からばかり見たキーワードで理解することは到底不可能だ。

 日本のテレビなどで中国の不動産バブルや理財商品で大損をした人たちが紹介されると、中国人は強欲で愚かな人々であるかのような印象を受けるだろう。確かに中国人はお金に対して日本人より関心が高い。常にお金を増やすことを考えている。しかし、だからと言って彼らはいわゆる金の亡者ではない。お金に対する執着心はむしろ日本人のほうが高いのではないか。ある意味、彼らはお金を冷めた目で見ている。だが、マスコミは決してそうした価値観の違いを伝えようとはしない。

 一方で、中国の若者の多くは漫画やアニメを通して日本の文化を吸収し、日本人の微妙な心の機微にも通じている。日本文化に憧れ日本のことが大好きな人も少なくない。「だから日本は優れているのだ」と自己満足に浸る日本人も多いが、相手を知るという点では日本は中国に完全に遅れをとっていることを認識すべきだろう。

 日本に好感を持ち日本語も解する中国人が、日本のマスコミの報道を見てはたしてどう思うだろうか。相手の良いところを語れなければ、相手を批判する権利はない。もう少し大人になって現実を見据えてみてはどうだろうか。

人口知能

 先日、グーグル傘下のディープマインド社が開発した人工知能囲碁ソフト、アルファー碁が、世界最強囲碁棋士の一人であるイ・セドル9段との5番勝負に4勝1敗で勝利した。

 これにより、とうとう人工知能が人間の知能を凌駕する日が来たと嘆く声が聞かれる一方、すでに将棋ではプロ棋士に勝っている人工知能が囲碁で勝っても不思議はないという意見もあった。人工知能と一口に言ってもその意味は曖昧で、今回の結果をどのように評価すべきかは、一部の専門家を除けばよくわからないというのが正直なところではないだろうか。

 チェスにおいては20年ほど前にすでにコンピューターが世界チャンピオンに勝利しているが、その際、コンピューターはあらゆる手筋をしらみつぶしに計算した。しかし、囲碁や将棋においてはチェスに比べて指し手のパターンがはるかに多く、コンピューターといえども全てを読み切ることはとてもできない。そこで登場するのが人工知能の技術だ。先を読む計算に加えてコンピューターに過去の膨大な棋譜を記憶させ、それを参考にしての各局面を判断し最善と思われる手を打っているのである。

 こうした話をすると多くの人が、人工知能は自らの知識で状況を判断しているのだと思うだろう。だが、実はその判断基準を決めているのは人間なのである。あらかじめ様々な局面を想定し、打てそうな手を幾つか選び出し、一つ一つにどの程度有利な手か点数を付けておくのだ。その際の人間の判断が、事実上コンピューターの強さを決めているのである。

 当然、この作業は膨大で人間がやれる範囲には限りがある。そのため、将棋においてはこのところプロ棋士並みに強くなったが、さらに指し手のバリエーションが多い囲碁では、コンピューターは最近までプロ棋士には全く歯が立たなかったのである。

 人間に頼らず人工知能が自ら局面の特徴を判断し最善手を見つけ出すことはできないものだろうか。実は囲碁や将棋に限らず画像や言語などの認識においても、人工知能が自ら特徴を見つけ出し学習していくことは苦手なのである。たとえば、人は一度コアラを見ればすぐにその特徴をつかみ、次にコアラを見れば一目でコアラだとわかる。しかし、人工知能ではあらかじめコアラの特徴を人間がインプットしてやらなければならないのだ。この特徴を学習する能力の低さは人工知能の最大の弱点であり、人工知能の利用範囲を著しく狭めてきたのである。

 ところが、2012年にその状況を一変させる事件が起きた。「ディープラーニング」の登場である。トロント大学のJ・ヒルトン教授が開発したこの方法により、人工知能が自ら特徴を見つけて学習する能力が飛躍的に高められた。その効果は絶大で、囲碁ソフトは専門家も驚くほど急速に強くなったのである。

 ディープラーニングは、現在、人工知能に革命を起こしつつある。それは囲碁に限らず、自動車運転の自動化のような劇的な変化を日常生活に引き起こすと考えられている。われわれは、今、人類史上稀に見る変革の時を迎えつつあるのかもしれない。

「経済最優先」の嘘

 先日、日銀がマイナス金利を導入した。銀行が日銀の当座預金にお金を預ける際に、利息を払う代わりに手数料を課すことにしたのである。

 これまで日銀は金融緩和政策により銀行から国債を買い上げ銀行に資金を供給してきた。その資金が企業への融資に回ると期待したからだ。ところが、肝心の企業の投資意欲は低く融資は拡大しない。やむなく銀行は日銀にその金を預け利息を取ってきたが、これでは金融緩和策の効果がない。そこで日銀は企業への融資にもっと力を入れるよう銀行にプレッシャーをかけたわけである。しかし、それで必要のない金を企業が果たして借りるだろうか。

 本来ならば企業の資金ニーズを増やすのが筋だ。そのためには新たな投資意欲を刺激するような政策が必要だ。しかし、今の日本では新規事業を立ち上げようとしてもすぐに規制の壁にぶち当たる。また、銀行は実績のない新参者にはけっして金を貸さない。今の銀行には将来有望な企業を発掘して育てていくという能力が決定的に欠如しており、金融緩和をしても融資が増えない一因となっている。

 日本経済を蝕むそうした問題に切り込まなければ、本格的な景気の回復は期待できない。だが、そんなことをすれば既得権者から反発が起き、政府に対する逆風も強まるだろう。なんとか痛みを伴わず見栄えのする景気対策はないものか。そこで熟慮の末考え出されたのが大規模な金融緩和政策だった。

 だが、ここに来てそうした安直な政策もメッキが剥がれてきたようである。マイナス金利の導入により、一旦は800円あまり上昇した株価は、その後、1週間足らずで元に戻ってしまった。政府は原油安や中国の景気悪化など外部にその理由を求めているが、市場はすでに金融緩和の限界を悟り、逆にそのリスクの回避に動き始めている。

 これまで安倍政権は「経済最優先」を高らかに掲げ、金融緩和によって円安に誘導し株価を吊り上げてきた。それによって得た高い支持率を背景に選挙に大勝し、その勢いを借りて強引に安保法制を可決させた。憲法違反などどこ吹く風である。原発の再稼動も開始した。国民の生命を脅かす使用済み核燃料のような頭の痛い問題はもちろん棚上げで、すっかり福島第1原発事故前に逆戻りしてしまった感がある。一方、最優先だった経済はどうか。実質賃金は4年連続低下で消費は低迷、GDPも2期連続の減少という惨憺たる結果だ。

 こうした経緯を振り返ると、安倍氏が心血を注いだのは自らの独善的な政策の実現だけで、「経済最優先」はそれらを遂行するための巧妙なカモフラージュに過ぎなかったと言わざるを得ない。少なくとも最優先で経済に取り組む覚悟があったとは思えないし、またその能力もなかったのだ。もっとも、安倍氏当人は金融緩和マジックで経済が立ち直ると本気で信じていた節もあるが。

 ここに来て次の選挙を睨んだ人気取り政策がまたぞろ繰り出されている。だが、いつまでも騙されているわけにはいかない。ツケを払わされるのは国民なのだ。

アベノミクスに見る危うさ

 先日、日経夕刊のトップに、大きな見出しで「賃金4年ぶり増加」(2014年)とあった。だが、よく見るとその横に小さく「物価上昇で実質2.5%減」とある。これはリーマンショック後の2009年の2.6%減に次いで過去2番目の減少幅だそうだ。

 輸入企業にとってアベノミクスに伴う急激な円安は深刻だ。76円代だったドルがこの2年半ほどで120円程に上昇し、仕入れ価格は1.5倍以上にもなっているのだ。これほど仕入れコストが上がれば値上げするしかない。だが、消費税の引き上げで売り上げが落ちている状況では値上げは難しい。また、値上げしたくてもスーパーなどの売り先は簡単には許してくれない場合もある。そうなれば小さな企業はとても持ちこたえられない。

 自動車を始めとする輸出企業にとっては確かに円安は有利だ。ドルベースで見た日本製品の価格は下がり、企業は現地で値下げして販売増加を狙うか、価格を維持して利益を増やすかのいずれかを選択できるわけだ。もっとも、政府の期待に反して多くの企業は後者を選んだ。その結果、輸出企業の利益は急増したが肝心の輸出量は増えない。そのため設備投資は増えず、そうかと言って利益が全て給与に回る訳ではない。常に厳しい競争に晒されている輸出企業が降って湧いたような円安に有頂天になり大盤振る舞いするわけがない。

 そもそも今回の量的緩和による円安誘導には、かつて日本経済を支えていた輸出企業の競争力が円高によって低下し、それが日本経済全体を沈滞させているという認識の上に立っていた。だが、日本の競争力を低下させたは円高ではない。安い労働力を武器にした中国などの新興国の台頭が最大の要因なのだ。かつてない強力なライバルが現れたのである。

 それに対抗するため、日本企業は新興国に打って出てその安い労働力を利用する戦略を取った。その結果、日本の物価は大幅に下がり、給与は増えずとも実質的に生活の質を向上させて来たのである。日本は徐々に輸出で稼ぐ国から輸入で稼ぐ国に体質転換してきたのだ。事実、今回の円安によって輸入コストが急増し、貿易収支は過去最悪となった。アベノミクスでは、デフレが諸悪の根源のように言っているが、デフレは新興国のパワーを日本の利益として取り込んだ結果でもあったのである。

 「物価が上昇すれば、値上がり前に買おうと言う人が増え経済の好循環が生じる」と安倍首相はいまだに繰り返している。しかし、かつてのバブル崩壊に懲りた日本人は、多少賃金が上がったくらいでは無駄遣いはしない。さらに今の日本では誰もが大きな将来不安を抱えている。少子高齢化は社会保証費を増やし将来世代の負担を増大させる。非正規雇用の広がりによる格差の拡大も深刻だ。そんな状況で簡単に財布のひもが緩むはずがない。

 アベノミクスは実質賃金を低下させるだけで、経済の好循環には結びつかないのではあるまいか。昨年12月に、突如、経済最優先を唱え解散総選挙に打って出た安倍首相は既にそう思っていたのではないか。失敗も集票につなげる手腕には恐れ入るが、肝心なことには手をつけず、巧みなすり替えによって独善的な政策を推し進める政治手法は要注意だ。

自治体消滅

 先日、日本創世会議が公表した「消滅可能性市町村リスト」が話題になった。日本の人口減少に伴い地方の過疎化が加速し2040年までに約半数の自治体が消滅するという衝撃の予想だ。この数字自体には異論もあるようだが、地方の職の減少が若者の都市への流出を加速し地方の人口減少に拍車が掛かっているのは紛れもない事実だ。

 かつて登山などで田舎に行くといつも疑問に思うことがあった。この辺りの人たちは一体どうやって生計を立てているのだろうか。工場があるわけでもなく、山間の土地は農業にも向かない。観光客目的の飲食店や土産物屋の客もまばらだ。にもかかわらず、道路はきれいに整備され、目を見張るような立派なトンネルが通っている。何十億もかかるそうした土木工事がいったいどれほどの観光収入につながるのだろうか。だが、ある時、それは観光目的などではなく、地元の雇用創出のためなのだと気づき目から鱗が落ちた。

 公共事業と並んでもう一つ田舎の経済を支えているのが年金である。田舎では高齢化が進み年金受給者の比率が大きい。年金は生活費として消費されるため、それを目当てとしてスーパーなどが進出する。繁盛しているのであたかも経済が回っているかのような錯覚に陥るが、ひたすら年金を消費しているだけで何かを生み出しているわけではない。

 現代の日本社会は、都会の生産活動で得られた利潤を税金や社会福祉費として吸い上げ、公共事業と年金を通じて地方に回す構造となっている。こうした仕組みが出来上がった裏には政治家の票稼ぎがある。時の政権は選挙対策として公共事業予算をばらまき、地方もそうした予算を当てにしてきた。だが、永年のそうした体質が地方から自力で何かを生み出す力をすっかり奪ってしまったのである。

 こうした構造は、日本の国際競争力と言う点からも大きなマイナスである。日本の国民一人当たりのGDPは世界第24位(2013年)と主要先進国の中ではもっとも低い水準だ。票稼ぎに奔走してきた政治家達の永年の方策が、日本を非常に生産効率の悪い国にしてしまったのである。大都市への産業や人口の集中は、ある意味ではこうした低い生産性を是正しようとする流れとも言える。国際競争が日本の弱者を振るい落とそうとしているのだ。

 消滅から逃れるために多くの自治体は定住を促し人口の流出を抑えるのに必死だ。住人に対するさまざまな優遇策を打ち、またそのための予算を獲得するために血眼になっている。しかし、国全体の予算状況が厳しい中、予算頼みの方策には限界がある。

 それよりも、都会にはない地方独自の魅力に目を向けるべきではないだろうか。海外の観光客から見れば、豊かな自然や伝統的な食に恵まれた日本の田舎は宝の山だ。地方が自立するためには、そうした自らの貴重な資源を最大限に生かす知恵と工夫が大切だ。

 自治体消滅は地方だけの問題ではない。自治体が消滅すれば地方から都市への人材供給がストップし、次は都市を労働人口不足が襲う。ばらまき体質と決別し、国を挙げて地方の資源を生かす対策に本気で取り組まなければ日本の明日はない。

大国の憂鬱

 今年2月、ロシアのソチでは悲願だった冬期オリンピックの開催を宣言するプーチン大統領の満足そうな姿があった。だが、その大会の最中、目と鼻の先のウクライナで親ロシア派のヤヌコービッチ大統領に対する抗議デモが起き、大統領は国外に逃亡した。この事件を機にロシア系住民が多いクリミア自治区ではウクライナからの独立の機運が高まり、国民投票を経て瞬く間にロシアに編入されてしまった。

 一方、東アジアでは、このところ中国の海洋進出が目立ち、日本だけでなくベトナムやフィリピンとも領土問題で緊張状態が続いている。中国は国内でも新疆ウイグル自治区などでしばしば発生している民族問題を力で抑え込もうとしている。先日の天安門事件25周年においても、5年前の20周年のときに比べ政府のはるかに神経質な対応が目についた。

 かつての冷戦時代に東側を代表したこの2大国は、今になってなぜこうした強権的な行動に出ているのだろうか。

 25年前に冷戦が終結すると、ロシアも中国も資本主義経済に舵を切った。90年代のロシアは経済危機に見舞われたが、プーチンが大統領に就任した頃から天然資源の価格が高騰し経済は急速に回復した。一方、中国では改革開放政策による外資の呼び込みに成功し、2000年代に入ると驚異的な経済成長を遂げた。もはやイデオロギーの時代は終わり、いつかはこの両国も資本主義経済の枠組みに取り込まれ、世界は一元化していくのではないかと期待された。だが、両国の発展の裏ではさまざまな矛盾が生じていたのである。

 ロシアでは、欧米的な近代化を推し進めるために製造業を立ち上げようとしたが、産業を牽引する中間層が育たず、結局、国家が管理する天然資源に頼る体質に逆戻りしてしまった。その一方で、グルジアやウクライナなどかつてソ連に属した国々が次第にヨーロッパとの関係を強め、ロシアが描く地域秩序と安全保障を脅かすようになった。

 中国では人件費の高騰による国際競争力の低下により経済が減速し始め、国民はかつてのように明るい未来を描くことができなくなってきた。貧富の格差が広がり環境問題も深刻さを増す中で、下手をすれば不満の矛先は一気に共産党政権に向きかねない状況にある。

 こうした現状を打開するために、かつての冷戦時代の統治手法が復活しつつあるのだ。両国に共通するのは、資本主義経済に移行後も自分たちの価値観を西側に合わせるつもりはないという点である。未だに民主主義は育たないし、育てようとする気も見られない。独裁的な権力の下で国家主導の発展を目指し、国民もそれを支持する体質は、かつての冷戦時代、ひいてはそれ以前の帝政時代と本質的に変わっていない。

 だが、冷戦時代とは決定的に異なる点がある。それは彼らが経済的に世界中と深く結びついていることである。身勝手なやり方は、すぐに我が身に跳ね返ってくるのだ。

 強引な態度はむしろ彼らの弱みの裏返しだろう。日本を含め各国は、挑発に乗らず事態の正確な分析と冷静な対応が望まれる。