時間の進む速さ

 時計は時間を測るための道具だが、われわれは普段どれだけ時間が経ったかを測るために時計を用いることは少ない。通常は今何時か知るために用いている。時計の精度が増した現代社会では世界は時事刻々と動いており、かつての日時計の時代に比べわれわれは時刻に対してはるかに敏感になっている。

 一方、物理学では時刻を知るために時計を用いることはあまりない。あくまでも時間の経過を測るために用いる。物理では今何時かを知る必要はなく、ある現象が起きるのにどれだけ時間がかかったかが重要なのだ。

 もっとも時計は時間を感知する特殊なセンサーではない。地球が一回転する間に短針が2周するように作られたただの機械だ。ただし、厳密に同じように作られた機械は宇宙のいつどこでも同じ時間を示すことが大前提となっている。物理学では観測できるもの以外は考えてはならない。われわれが漠然と思い描く時間はそのままでは意味がなく、時計の針が指し示す数値になって初めて意味を持つ。

 特殊相対性理論によれば、自分に対して動いている人の腕時計は自分の腕時計より遅れることが示される。その遅れは相手の動く速さが速いほど大きくなり、速度が光速に近づくとほぼ止まってしまう。これは時計の機械に何か負荷のようなものがかかって遅れたわけではない。時計は全く正常に動いている。物理学では時計が示すものが時間であるから、時計の遅れは時間の遅れと解釈するしかない。自分に対して動いている人の時間は自分の時間より遅れるのだ。時間は宇宙のどこでも一様に流れているわけではない。

 相手が動く速さが小さい場合はこうした遅れはわずかなものだが、もし光速に近い速さで動いているとすると個々の時計が示す時刻は大きく異なってくる。しかし、各人にとっては自分の時間は普通に流れている。あくまでも、自分から見て動いている他人の時間がゆっくり流れているのだ。自分にとって静止している限り宇宙のどこでも時間は同じように流れており、自分にとって動いている世界では別の時間が流れているのだ。

 では、自分の時間の進む速さはにはどのような意味があるのだろうか。もし時間の流れる速さが遅くなったら何が起きるだろうか。周りの動きがゆっくりになるのだろうか。いや、その時はあらゆる物理現象の速さが変わり、脳の働きも変わるので何も気づかないだろう。そもそも時計で時間を測るとすれば、その時計の進む速さなど測りようがない。自分の時間の進む速さという概念には意味がないのだ。

 では、われわれが常に時間が進む速さを意識するのはなぜだろうか。恐らくそれは、われわれが日々時間に追われているからではないだろうか。時間が速く経つと感じる場合も、決して時計の針が進むのを見てそれが速いと感じるからではない。あくまでも自分に必要な時間と残された時間との比較から時間の経つ速さを意識しているのだ。時間が進む速さという概念は、時間に縛られるようになった人間が生み出した想像なのである。

原子時計

 先日、高校の同窓会で原子時計を研究している同窓生に会った。われわれが普段、何気なく用いている1秒や1時間という単位は、元々地球の自転周期を何等分かしたものだが、その後、地球の自転周期には変動があることがわかり、1967年以降は原子時計による原子時が基準となっている。

 現在、正確な時計には例外なく何らかの周期的な現象が使われている。最初に時計に利用された周期的な現象は振り子である。振り子時計はゼンマイを動力として振り子が1回触れるごとに歯車が決まった角度だけ回転しそれで針を動かすことができるようにしたものだ。

 振り子の揺れる周期は振り子の長さだけによって決まり、揺れ幅やおもりの重さには依存しないため、周期の調節が楽で使い勝手がいい。だが、持ち運びには不便だ。

 そこで懐中時計や腕時計では振り子の代わりに渦巻き状のバネにつけられたテンプと呼ばれる輪っかの往復回転運動を用いる。振り子やテンプの周期は数秒から0.1秒程度なので、それを用いて測定できる最短の時間もその程度である。

 こうした機械式時計に比べて大幅に精度を高めたのが水晶振動子を用いたクォーツ時計だ。薄い水晶の板に交流電圧をかけるとある周期の時に共振が起きる。この周期を電気的に検出して振り子の代わりに使う。クォーツ時計の水晶振動子の周期は32,768分の1秒と短く、機械式時計に比べてはるかに短い時間を測ることができる。また電気的に信号を取り出すため誤差が少なく精度も大幅に上がった。

 さらに精度が高いのが原子時計で、現時点では最も正確な時計である。セシウム原子にマイクロ波(光の波長を長くしたもの)を照射すると、マイクロ波の振動が1秒間に91億9263万1770回になった時、セシウム原子がマイクロ波のエネルギーを吸収し共鳴が起きる。その時のマイクロ波の振動を振り子の代わりとして用いることで、原子時計では数千万年に1秒という高い精度が得られている。

 それにしてもそれほど正確な時計を必要とする場合があるのだろうか。距離、質量、時間というのは最も基本的な3つの物理量だ。その中で今では時間の測定精度が最も高い。そこで距離の測定にも時計が用いられている。アインシュタインの光速不変の原理により光の速度は常に一定だ。そこで光が進んだ時間を測れば、その距離が正確にわかるわけである。

 カーナビやスマホで自分がどこにいるか知るために使われているGPS(Global Positioning System)では、まさにその技術が使われている。GPSでは最低3つの人工衛星からの電波(光と同じ電磁波の一種)をカーナビが受診するまでの時間を衛星に搭載された原子時計で測りそれぞれの衛星までの距離を求めてそこから位置を割り出しているのだ。カーナビの技術は原子時計によって成り立っているのだ。

 かつて振り子時計の発明により天体観測の精度が上がりニュートン力学の誕生につながったが、現在も時計の進歩はさまざまな分野で科学技術を支える鍵となっているのである。

霊的なものと科学

 毎年夏になると、お盆にちなんで死者の霊に関連したテレビ番組を目にする。先日、NHKで放映された「シリーズ東日本大震災 亡き人との”再会”」でも、震災で突然大切な人を失った人たちの亡き人への強い思いが引き起こすさまざまな不思議な体験が紹介された。

 幼い息子を亡くした母は、時が経っても悲嘆にくれる毎日から抜け出せずにいた。ところが、震災から2年を経たある日、息子が使っていたオートバイ型の三輪車の警笛が傍らで突如鳴り響いた。彼女は即座にそれが息子が自分に送った「近くにいるから心配しないで良いよ」というサインだとわかった。それをきっかけに彼女は息子の存在を身近に感じられるようになり、久しぶりに晴れやかな笑顔が戻ったのである。

 現代ではこうした体験は心理的なものだと片付けられるのが普通だ。あまりにも強く息子との再会を求める母の気持ちが、偶然起きたアクシデントを息子の霊と結びつけ、自らの心理に変化を引き起こしたのだ、と。だが、そうした考え方は果たして正しいのだろうか。

 現代は科学の時代だ。もともと科学は迷信などの弊害から逃れるために発達してきた。各人の思い込みを排し客観的な事実のみを信じることにより、人々を理不尽な迷信から解放し、同時に人類にかつてない繁栄をもたらしてきたのだ。その結果、霊のようなものは非科学的とされ、次第に表舞台から消え、今では公に口にするのもはばかられるようになった。たとえ今のところ科学で説明できないことがあっても、それらはいつかは説明されるはずであって、下手に霊の話など持ち出せば見識が疑われかねない。

 しかし、本質的に科学では答えられない問題もある。例えば、死と意識の問題だ。死ぬと自分の意識はどうなるのか。死ぬと意識も消えるというが、そもそも自分に意識がない状態というのはどういうものなのか。脳科学は人の意識と脳の働きを対応づけられるかもしれないが、死ぬと自分の意識がどうなるかという疑問には、結局、答えられない。「我思う故に我あり」というのは科学的な答ではないのだ。

 客観的な現象についても科学で全て説明できるわけではない。生命現象を始め科学で説明できないことはいくらでもある。にもかかわらず、すべてが科学で説明できるはずだと考えることは、言わば「科学原理主義」で、現代人はそこから抜け出せなくなっている。それは実は科学的ですらない。

 もし、死者の霊に静かに耳を傾ければ何か聞こえるかもしれない。そしてそれが自分を慰めてくれるかもしれない。死者だけではない。耳を澄ませば、神も何かありがたい啓示を与えてくれるかもしれない。科学ではないから再現性は期待できない。他人に何か証拠を見せることもできないだろう。だが、そうしたことを抜きにして果たして現代人は真の安らぎが得られるのだろうか。死と正面から向き合うことができるだろうか。

 科学的でないものにどのような態度で臨むかということは、科学の時代だからこそ真剣に向き合うべきテーマではないだろうか。

時間とは何か 3-物理的時間の是非

 われわれは現在を生きていると思っているが、現在のみを意識しているわけではない。人と話すときには、相手がそれまで何を話したか意識しながら話すし、自分の話したことに相手がどんな反応をするのか予想しながら話している。われわれの意識には現在と同時に常に過去と未来が同居しているのである。

同様に「変化」という概念も、決して現在という瞬間だけで捉えられるものではない。変化を感じるためには過去から未来への時間の広がりがなければならないのだ。しかし、これはあくまでも時間感覚の話で、現実の時間はそうではないと物理屋は言うだろう。

物理学では時間は時計によって測定される。時計は振り子のように周期的な運動が何度繰り返されたかで時間を測る。その結果得られるのは、時刻を表す単なる数値だ。そこには過去も未来もなく、時間感覚が入り込む余地はない。

だが、ニュートンが時計によって時間を定義した際、時間は宇宙のどこでも同じように流れており、時計はそれに従って連続的に時を刻んでいると考えた。物理的には時間は単なる数値だが、その背後にはわれわれが感覚的に認識するような時間があることを暗黙のうちに想定したのだ。しかし、果たしてニュートンが定義した時計で測る時間は、彼の想定通りわれわれの時間感覚を反映できたのだろうか。

彼の期待は250年後に崩れることになる。アインシュタインの相対性理論では、時間を時計で測ることには変わりがないが、宇宙全体を一定の速さで流れる時間があるわけではなく、各慣性系で異なることが示されたのである。物理的な時間と感覚的な時間との間にズレが生じ、物理的な時間が独り歩きを始めたのだ。

アインシュタインの結論によれば、われわれの時間感覚は現実とはズレているということになるが、1つの数値で表される物理的な時間の定義には問題はないのだろうか。

実は時計も運動をしている物体に過ぎない。従って時計で時間を測ると言っても、実際には時計という物体の運動を基準に他の物体の運動と比較しているだけなのである。

確かに大砲の弾の軌道を求めるのに時計の動きと比較するのは妥当なことかもしれない。しかし、ニュートン以降の物理学は進歩し、光のような従来の物体とは質の異なるものや原子レベルのミクロの世界を扱うようになった。このような世界を解き明かすのに時計によって定義された時間が有効かどうかは怪しい。原子の世界を理解するために、時計のようなマクロな運動を基準にすることはいかにも無理がある。

実は、現代の物理学者は時間が時計で測られるということを忘れがちだ。一旦、時間を数学的に取り扱えば、後は数学的な世界で考えるほうが楽だからである。その結果、根本のところで物理的な時間の概念が揺らいでいるにもかかわらず、宇宙の年齢は137億年などと平気で言うのである。現代物理学が迷走状態を脱するためには、時間の定義にまで遡って考え直す必要があるように思えてならない。

時間とは何か2-時間の相対性

アインシュタインの相対性理論によれば、自分の前を通り過ぎる人の時計は自分の時計よりゆっくり進む。彼はこの宇宙で時間の進み方が一様ではないことを示した。

振り子の等時性を始め多くの物理法則を発見したガリレイは、時間を測るために自らの「脈」を用いた。時計というのは周期的な運動がどれだけ繰り返されたかをカウントし表示する機械だ。振り子時計では、振り子が振れるたびに針が進み、その針が示す目盛りでどれだけ時間が進んだかを知ることができる。

ガリレイの後、ニュートンはこうした時計の動きと物体の動きの「比」を取ることで速度という概念を導入し、運動を数学的に扱うことに成功した。彼は時間が何であるかについては深入りしていない。暗黙のうちに、われわれが漠然と感じていた時間を時計の針が指し示す数値にそっと置き換えたのである。

ニュートンは、十分に正確な時計は宇宙のどこでも同じように動くと考えた。つまり時間は宇宙のどこでも一様に進むと仮定したのだ。当時、特にそれに文句をつける者はいなかった。しかし250年後、アインシュタインはニュートンの仮定が誤りであると主張した。動いている時計と止まっている時計では進む速さが異なるのだ。

ニュートン力学では、速度の加算側が成り立つ。ダルビッシュが自動車に乗って投げた球は、彼の球速に自動車の速度が加算される。同じ理屈で言えば、走っている自動車のヘッドライトの光は、止まっている自動車から出た光よりも速いはずである。ところが不思議なことに、光の速度は変わらないのである。

アインシュタインは、この「光速不変」という奇妙な現象は、移動している時計の進み方が遅くなると仮定すればつじつまが合うと気づいた。そして「光速不変」を現実として受け入れる換わりに時間の方が相対的に変化する相対性理論を作り上げたのである。

こうして時間は宇宙空間に無数に存在することになった。地球上で人が着けている腕時計は全て進み方が異なる。自分が生きた50年間に自分の親は10年しか生きておらず、親のほうが若くなってしまうというようなことも理論的には起こり得る。これは決して時間がでたらめに進むということではない。自分の時計と他人の時計の進み方の相関は、お互いが相対的にどのような速度で動いて来たか、その履歴により正確に決まるのである。

しかし、時計が遅れるからと言って時間の進み方も遅くなると言って良いのだろうか。注意すべき点は、誰にとっても自分自身の時間の進み方は常に同じだということだ。

そもそもニュートンは、自然界のさまざまな「変化」を観測するための「基準」として時計を用いた。本来主観的な時間感覚を時計という客観的なものに置き換えたのだ。その結果、時間は一人歩きを始め、アインシュタインに至り時間は相対的になったのである。

時間を客観的に扱う物理学は、果たして時間を正しく捉えているのだろうか。あるいは何か大切なものが抜け落ちてしまっているのだろうか。注意して見て必要がある。

時間とは何か2-時間の相対性

アインシュタインの相対性理論によれば、自分の前を通り過ぎる人の時計は自分の時計よりゆっくり進む。彼はこの宇宙で時間の進み方が一様ではないことを示した。

振り子の等時性を始め多くの物理法則を発見したガリレイは、時間を測るために自らの「脈」を用いた。時計というのは周期的な運動がどれだけ繰り返されたかをカウントし表示する機械だ。振り子時計では、振り子が振れるたびに針が進み、その針が示す目盛りでどれだけ時間が進んだかを知ることができる。

ガリレイの後、ニュートンはこうした時計の動きと物体の動きの「比」を取ることで速度という概念を導入し、運動を数学的に扱うことに成功した。彼は時間が何であるかについては深入りしていない。暗黙のうちに、われわれが漠然と感じていた時間を時計の針が指し示す数値にそっと置き換えたのである。

ニュートンは、十分に正確な時計は宇宙のどこでも同じように動くと考えた。つまり時間は宇宙のどこでも一様に進むと仮定したのだ。当時、特にそれに文句をつける者はいなかった。しかし250年後、アインシュタインはニュートンの仮定が誤りであると主張した。動いている時計と止まっている時計では進む速さが異なるのだ。

ニュートン力学では、速度の加算側が成り立つ。ダルビッシュが自動車に乗って投げた球は、彼の球速に自動車の速度が加算される。同じ理屈で言えば、走っている自動車のヘッドライトの光は、止まっている自動車から出た光よりも速いはずである。ところが不思議なことに、光の速度は変わらないのである。

アインシュタインは、この「光速不変」という奇妙な現象は、移動している時計の進み方が遅くなると仮定すればつじつまが合うと気づいた。そして「光速不変」を現実として受け入れる換わりに時間の方が相対的に変化する相対性理論を作り上げたのである。

こうして時間は宇宙空間に無数に存在することになった。地球上で人が着けている腕時計は全て進み方が異なる。自分が生きた50年間に自分の親は10年しか生きておらず、親のほうが若くなってしまうというようなことも理論的には起こり得る。これは決して時間がでたらめに進むということではない。自分の時計と他人の時計の進み方の相関は、お互いが相対的にどのような速度で動いて来たか、その履歴により正確に決まるのである。

しかし、時計が遅れるからと言って時間の進み方も遅くなると言って良いのだろうか。注意すべき点は、誰にとっても自分自身の時間の進み方は常に同じだということだ。

そもそもニュートンは、自然界のさまざまな「変化」を観測するための「基準」として時計を用いた。本来主観的な時間感覚を時計という客観的なものに置き換えたのだ。その結果、時間は一人歩きを始め、アインシュタインに至り時間は相対的になったのである。

時間を客観的に扱う物理学は、果たして時間を正しく捉えているのだろうか。あるいは何か大切なものが抜け落ちてしまっているのだろうか。注意して見る必要がある。

「不確定性原理」の謎

先日、日本経済新聞の一面に、「物理の基本原則にほころび 『不確定性原理』修正か」いう記事が載った。もともとこの原理は量子力学の創始者の一人、ハイゼンベルクによって1927年に提唱されたものだが、一般の人にはほとんど馴染みがない。にもかかわらずこうした記事が日経一面を賑わしたのは、その衝撃の大きさを物語っている。

「不確定性原理」とは、ミクロの世界では「物の位置と速度を同時にある精度以上に測定することはできない」というものである。これは位置と速度を決めることにより物体の運動を正確に定めることができたニュートン力学に制約を課している。しかし、なぜそのような制約が出てくるのだろうか。ハイゼンベルクの説明は以下のようなものだ。例えば、電子の位置と速度を定めるためには電子に光を当て電子を見る必要がある。しかしミクロの世界では光を当てるという行為自体が電子の速度に影響を与え、結果的に位置を正確に見ようとすればするほど速度が曖昧になってしまうのだ。

ところで量子力学では、電子は「粒子」ではなく空間全体に広がる「波」として表わされる。実はこの「波」で表された電子は、自動的に不確定性原理を満たしている。位置の正確な「波」は速度が曖昧になり、速度が正確な「波」は位置が曖昧になるのだ。

では、この「波」が電子そのものの空間的な分布を表しているのだろうか。そう簡単には行かない。電子は観測すれば決まった電荷を持ったれっきとした「粒子」であり、「波」のように広がっているわけではないのだ。

では、この「波」は何なのだろうか。N・ボーアのグループは、「波」の振幅が電子が観測される確率に対応しているという説を提唱した。空間に分布している「波」は電子自身ではなく、電子が観測される確率の大小を表しているのだ。こうして電子は、「粒子」ではあるが、どこにいるかは確率的にしかわからないということになった。従って、ニュートン力学のような軌道は定まらない。ハイゼンベルクは、このような状態の「粒子」の位置と速度の間に「不確定性原理」が成り立っていることを導いたのである。「不確定性原理」は、量子力学と観測される物理量の関係について述べた原理なのだ。

不思議なことだが、量子力学と観測の関係はこれまでにあまり正確に検証されておらず、ハイゼンベルクの「不確定性原理」が一人歩きしてきた観がある。そこに異議が唱えられても不思議はなかった。今回の報道は、以前から「不確定性原理」の不正確さを指摘していた小沢教授(名古屋大学)の理論が実験的に証明されたというものだった。

「不確定性原理」の背景になっているのは、観測するまではさまざまな可能性を持っている物理量が、観測によって一つの値に定まるという考え方である。これは量子力学を築く上での基礎にもなっている。しかしながら、そのメカニズムはどうなっているのか、それが何を意味するのかは謎のままである。「不確定性原理」は、観測という物理学の基本が何を意味しているのか未だ不確定であることを露呈しているようにも見えるのである。

科学と欲望

現代人の生活は科学抜きでは考えられない。しかし、先般の原発事故では、われわれが日頃から恩恵を受け依存している科学技術が、実は十分にコントロールされているわけではないと知って衝撃を受けた。さらに、誰が聞いてもおかしい関係者の言い訳を聞くに及んで、人々は科学神話の裏に深刻な病巣が広がっていることに気づいたのである。

西洋の科学はもともとそれが現れる以前の様々な迷信めいたものから逃れたいという科学者の強い願望によって発展してきた。旧来の権威に対して、「地球は太陽の周りを回っている」と胸を張って言えないことに科学者達は苛立ちを募らせていたのだ。しかし、ニュートン物理学が登場するに至って、科学者は自然を語る権利を一気に自分の足元に引き寄せた。人々はこの世界が神の摂理ではなく自然法則によって成り立っているという考え方に目覚めた。かつては無関係な現象と考えられていたことがある法則によって統一的に説明されるのを目の当たりにして、人々は科学こそ真理だと考えるようになっていった。

やがて科学は技術と結びつき、19世紀には世界の工業化を加速する。だが、その結果、世界的な競争が激化することになる。科学は単なる思想的な革命から、人が富を得るための強力な武器となっていったのである。

科学技術が発展し高度化されるにつれて進んだのが細分化である。同じ科学者でも専門外のことは全く理解できなくなった。その結果、様々な専門技術が集結してできている現代の科学技術をひとりの科学者が理解することは全く不可能になってしまった。たとえば自動車は様々な技術の結晶だと言われるが、その全ての素材や素子を完全に理解している技術者は一人もいないだろう。そうした自動車にわれわれは命を預けている。現代社会を支える科学技術という土台は、実はかなり危ういものなのである。

とはいえ、もし自動車の至上命題が安全性にあるなら、ほとんど事故を起こさない自動車を作ることは不可能ではないだろう。しかしながら、自動車メーカーは安全のために自動車を作っているのではない。利益を上げることが目的なのだ。ユーザーも安全性だけでは自動車を選ばない。科学技術のもたらす安全性は常に経済性とのトレードオフに晒されているのだ。

放射性物質が絡む原発の安全性を確保するためには、莫大な科学的な情報と技術力が必要である。しかし原発の場合、巨大事故の実例が非常に少ないため、必然的にデータが足りない。ほとんどの危機対応は机上の計算を元にしている。情報は全く不足しているはずである。しかも安全性を担っているのが、利益を上げることが目的である電力会社と来ては、安全が守られるはずがない。

こうした事情を隠蔽し人々を騙すためにも科学は用いられてきた。御用学者が理解不能な専門用語を羅列し、「科学的データに基づき」と称して説明するときは要注意である。

科学に対する社会の認識を改めるような議論が必要な時期に来ている。

物理学者のおごり

 先日、相対性理論について調べる必要があり、学生時代に使っていた教科書を引っ張り出してきてみた。しかし、ページを開くと当時の自分に対する同情と無念さが沸き起こってきた。その頃はわけがわからず、ひたすらもがいていたが、自分のめざす物理学は、当時の環境ではやりようもなかったのである。

 物体の速度というのは、それを測る人と物体の相対的な速度である。同じ野球のボールでも、それに向かっていくのと遠ざかるのとでは速さは異なってくる。しかし、光の速度に関してはこうしたことが成り立たない。どのように測っても常に同じ速さなのだ。19世紀末、物理学者はこの奇妙な現象をいかに説明するかに苦労していた。そこに現れたのがアインシュタインである。彼はこの「光速不変」を絶対的事実として受け入れ、代わりに従来のニュートン物理学に根本的な修正を加えるという英断を下したのである。

こうして生まれた相対性理論からは、常識を覆すさまざまな結果が導かれた。動いている人と止まっている人では時間の進み方が異なり、同じものを測っても長さが違ってくる。アインシュタインは、ニュートン物理学の基礎であった時間と空間の絶対性をあっさりぶち壊したのである。

相対性理論を発表した当時、アインシュタインはその数学的な取り扱いについてはあまり関心がなかった。彼の学生時代の指導教官であり、数学に秀でたミンコフスキーがどんどん理論を発展させるのを見て、「それは数学であって、物理学ではない」と不快感を露わにしたほどだ。彼にとって相対性理論は、物理観の革命である点にこそ価値があったのだ。

しかし、僕の教科書では、彼が光速不変に至る経緯についてはわずかに触れているだけで、大半はニュートン物理学を修正する数学的手法についての説明だ。相対性理論はすでに常識であり、学生の仕事は黙って演習問題を解くことなのだ。

その後、相対性理論はもう一つの奇妙な理論、量子力学と結びつき、相対論的量子力学へと発展して行く。しかし、それが一応の完成を見た1970年代以降、物理学の進歩は行き詰まってしまった。物理学者たちはひたすら完成をもとめて理論を発展させようとしたが、結局、理論自体がはらむ矛盾に動きが取れなくなってしまったのである。本来ならば、光速不変の意味、さらにはニュートン力学の意味を再考してみるべきではないか。しかし、物理学者たちに後戻りする気はなかった。一旦、数学的世界に慣れてしまうと居心地が良いため、物理学者は簡単にはそこから抜け出せなくなる。数学は科学の最大の武器だが、その便利さは真の物理的な思索を怠らせる禁断の果実でもあるのだ。

昨今の原発事故は、科学に対する過信が人類をとんでもない不幸に陥れかねないことを思い知らせた。しかし、そうした過信は、当の物理学にもはびこっているのではないだろうか。自然に対する謙虚さを忘れ科学万能主義に傾けば、物理学自身が成り立たなくなるのである。

ファラデーの嘆き

 電気と磁気の効果は現代の科学技術において不可欠である。モーターは電磁気的な力の最も直接的な利用法だ。電波も電磁気的な現象であり、テレビや携帯電話などあらゆる通信技術を支えている。電気を流さなければ動かない現代の家電やIT関連装置も、すべて電磁気的効果の恩恵を受けている。電磁気現象をいかに使いこなすかが、20世紀以降の科学技術の進歩そのものだと言っても過言ではない。

19世紀より前は、電磁気現象の利用はせいぜい方位磁石くらいのもので、電気と磁気の相関も知られていなかった。ところが1820年に、電線に電流を流すと近くに置いた方位磁石が動く「電磁気現象」をエルステッドが発見した頃から、電磁気学は急速に発展し始め、19世紀後半にはニュートン力学と並ぶ物理学における一大分野を形成するに至る。

その過程で多くの物理学者が登場したが、イングランド出身のファラデーとスコットランド出身のマクスウェルの貢献度は別格である。ファラデーはマクスウェルより40歳ほど年長で、マクスウェルが大学を卒業する頃にはすでに物理学会の重鎮だったが、その新進気鋭の若手を尊敬し、マクスウェルもファラデーに対して心から敬意を払っていた。しかし、物理学の歴史においてこの2人ほど対照的な研究者もいないのである。

抜群の数学力に恵まれたマクスウェルは、複雑な電磁気現象をたった4つの微分方程式(マクスウェル方程式)にまとめあげ、しばしばニュートン、アインシュタインと並ぶ物理学史上の巨人とされる。一方、ファラデーの数学に関する知識は初等数学以上のものではなかったらしい。そのことが原因で、ファラデーの考え方を評価しない人たちがいた。数学を駆使した、いかにも難しい理論こそが物理学であるという偏見は、当時からすでに定着していたのである。だが、彼には数学力にも勝る宝、すなわち優れた実験技術と、そこから理論を導き出す抜群の眼力が備わっていたのである。

現代物理学においては、数学の権威はさらに支配的である。しかし、ニュートンもアインシュタインも、最初から数式を使って考えていたわけではない。マクスウェル方程式も、ファラデーが直感的に見抜いた物理的なイメージ抜きには生まれ得なかった。

数学は、それが一旦書き下されると独り歩きを始める。数学には数学的なイメージがあり、それに慣れると物理学者は数学がつくり上げた美しい世界に安住し、いつしかそこから抜け出せなくなる。確かに数学的な手法は、さまざまな現象を簡潔に説明する強力な武器であるが、数学イコール物理学ではない。だが、多くの物理学者は、新たな数学を駆使することこそが新たな物理学を生み出すことだと信じ込んでいる。

ここ数十年の物理学の発展を見ると、物理学的に脆弱な土台の上に建てられた数学的な高層建築を、ひたすら上へ上へと伸ばそうとしているように見える。新たな数学を操ることが新たな物理学であるかのような驕りが物理学を迷走させている。ファラデーが生きていたら、そう嘆くのではないだろうか。