ファラデーの嘆き

 電気と磁気の効果は現代の科学技術において不可欠である。モーターは電磁気的な力の最も直接的な利用法だ。電波も電磁気的な現象であり、テレビや携帯電話などあらゆる通信技術を支えている。電気を流さなければ動かない現代の家電やIT関連装置も、すべて電磁気的効果の恩恵を受けている。電磁気現象をいかに使いこなすかが、20世紀以降の科学技術の進歩そのものだと言っても過言ではない。

19世紀より前は、電磁気現象の利用はせいぜい方位磁石くらいのもので、電気と磁気の相関も知られていなかった。ところが1820年に、電線に電流を流すと近くに置いた方位磁石が動く「電磁気現象」をエルステッドが発見した頃から、電磁気学は急速に発展し始め、19世紀後半にはニュートン力学と並ぶ物理学における一大分野を形成するに至る。

その過程で多くの物理学者が登場したが、イングランド出身のファラデーとスコットランド出身のマクスウェルの貢献度は別格である。ファラデーはマクスウェルより40歳ほど年長で、マクスウェルが大学を卒業する頃にはすでに物理学会の重鎮だったが、その新進気鋭の若手を尊敬し、マクスウェルもファラデーに対して心から敬意を払っていた。しかし、物理学の歴史においてこの2人ほど対照的な研究者もいないのである。

抜群の数学力に恵まれたマクスウェルは、複雑な電磁気現象をたった4つの微分方程式(マクスウェル方程式)にまとめあげ、しばしばニュートン、アインシュタインと並ぶ物理学史上の巨人とされる。一方、ファラデーの数学に関する知識は初等数学以上のものではなかったらしい。そのことが原因で、ファラデーの考え方を評価しない人たちがいた。数学を駆使した、いかにも難しい理論こそが物理学であるという偏見は、当時からすでに定着していたのである。だが、彼には数学力にも勝る宝、すなわち優れた実験技術と、そこから理論を導き出す抜群の眼力が備わっていたのである。

現代物理学においては、数学の権威はさらに支配的である。しかし、ニュートンもアインシュタインも、最初から数式を使って考えていたわけではない。マクスウェル方程式も、ファラデーが直感的に見抜いた物理的なイメージ抜きには生まれ得なかった。

数学は、それが一旦書き下されると独り歩きを始める。数学には数学的なイメージがあり、それに慣れると物理学者は数学がつくり上げた美しい世界に安住し、いつしかそこから抜け出せなくなる。確かに数学的な手法は、さまざまな現象を簡潔に説明する強力な武器であるが、数学イコール物理学ではない。だが、多くの物理学者は、新たな数学を駆使することこそが新たな物理学を生み出すことだと信じ込んでいる。

ここ数十年の物理学の発展を見ると、物理学的に脆弱な土台の上に建てられた数学的な高層建築を、ひたすら上へ上へと伸ばそうとしているように見える。新たな数学を操ることが新たな物理学であるかのような驕りが物理学を迷走させている。ファラデーが生きていたら、そう嘆くのではないだろうか。

ゼノンの矢

ゼノンは今から2500年ほど前、ギリシャの植民地であった南イタリアのエレアで活躍した哲学者である。彼はいくつかのパラドックスを考え出し、若きソクラテスをはじめ当時の人々を大いに混乱させた。

いくつかあるゼノンのパラドックスの一つに、「飛ぶ矢は動けない」というものがある。空中を飛ぶ矢は、どの瞬間にも一つの場所に静止している。従って矢は動くことができないというものだ。矢は実際に飛んでいるのだから、何をバカなことを言っているのだと思う人も多いだろう。しかし、このパラドックスは永年に渡って多くの人を悩ませ、現代物理学に対しても時間と空間の本質について問いを投げかける難問なのである。

 物理になじみのある人なら、時間を変数として位置が決まる関数によって矢の運動が記述できることを知っている。時間を連続的に変化させていけば、矢の描く軌道を得ることができる。さらに、ある時刻で矢の位置を時間で微分すれば速度が求められる。ニュートンの考えたこのモデルによって運動の問題は完全に解けたと思われた。

ゼノンの矢はある瞬間に静止していたが、このモデルでは速度を持っている。では矢は動けるようになったのだろうか。瞬間の速度というのは、動いた距離を時間で割り、その時間を無限にゼロに近づける操作で得られたものである。つまりそもそも矢が連続的に動くイメージが前提となっている。このモデルは、あくまでも動く矢を数学的に説明するために考え出されたものであって、矢が動くことを証明するものではないのだ。

飛ぶ矢を物理的に観測する場合、矢が「いつ」「どこに」あるかを測定する必要がある。だが、一瞬の切れ目もなく連続的に測定することは不可能である。測定は常に不連続なのだ。人類は連続的な運動を捉えたことなど一度もないのである。にもかかわらず、一旦、ニュートンが連続的な関数で矢の運動を表すと、いつしか誰もそれを疑わなくなった。客観的な観測に基づいているはずの物理学も、知らぬ間に主観が忍び込んでいるのだ。

ニュートンから200年あまり経ち、原子レベルのミクロの世界では彼のモデルは破綻する。代わりに唱えられた量子力学では、連続的な軌道というものを想像してはならないということになった。原子レベルのミクロな矢は、軌道を描くことが許されないのだ。では矢はどのように動くのだろうか。ある量子状態から別の量子状態に突如ジャンプするのだろうか。一体、どうやって...。ゼノンが聞いたら、とても納得するとは思えない。

かつて哲学者は、自然の中に法則性を見出せば、その本質、その意味についてどこまでも考えようとした。しかし、客観的な事実を重視する科学は、法則の意味については踏み込まないよう注意した。確かにそうした科学の方法論は画期的で、人類の飛躍的な進歩をもたらした。しかしその成功は、次第に人類から本質を追及する力を奪い、気がつけば、現代のような結果オーライの薄っぺらな社会をつくり上げてしまったのではないか。

空中に静止するゼノンの矢を目にしても、今や気に留める人は誰もいない。

数学の罠

 物理学者はこの宇宙の森羅万象は物理法則で決定されていると信じているが、物理学は数学抜きでは語れない。言わばなくてはならない商売道具なのだ。一方、数学者は物理学に用いられると考えて数学を作ったわけではない。彼らにとっては、幾何にしろ代数にしろ、矛盾のない論理体系を築き上げることが目的なのである。ピタゴラスやユーグリッドなどが活躍したギリシャ時代には、数学はすでに高度なレベルに達していたが、彼らにとっての関心事は数の世界に隠された真理の探究であって、数学を何かに役立てようという考えは全くなかった。物理学が誕生して数学が本格的に物理に応用され、科学の時代が花開くには、それから2000年以上待たねばならないのである。

微分積分学をニュートンが考えたのは、運動する物体のある「瞬間」の速度を決めるためだった。移動した距離を時間で割ると平均の速度が出るが、ある瞬間の速度を求めるためには、時間を無限に短くしなければならない。しかし、その極限では時間も移動距離もゼロになり、ゼロでゼロを割ることになってしまう。これは数学ではご法度である。かつて、ギリシャの数学者はこの点に危うさを感じ、結局、運動の問題には手を出さなかったのである。しかし、ニュートンはゼロの代わりに、無限に小さいがゼロではない数、「無限小」で割ることにした。詭弁のような話だが、「えい、やー」とやってしまったのだ。彼は自身も偉大な数学者だったが、道具としての有用性を重視し、数学的な厳密さには目をつぶったのである。彼は数学者である以上に物理学者だった。

こうして、数学は本格的に物理学に用いられるようになり、その後の200年余りはニュートン力学の発展に力が注がれた。しかし、20世紀初頭にアインシュタインの相対性理論が登場すると、物理学は従来の数学の枠組みをはみ出し、直感的にわかりやすかったそれまでのニュートン的な宇宙は、奇妙なアインシュタインの時空へと変貌する。

さらに1925年に量子力学が発見されると、それまで目で追うことのできた物体の運動は、波動関数という直接には観測できない量に置き換えられた。この観測できない物理量は、物理学における数学的自由度を大きく拡げることになる。物理学は日常的な直感を離れ、数学によってのみ描かれる抽象的な世界に足を踏み入れていくのである。

すると物理学に必要な数学は、数学の世界にすでに用意されていたことがわかってきたのである。これは驚くべきことだった。宇宙を見る前から、人類はすでにその構造を頭の中だけで見出していたことになる。いつしか物理学者の仕事は、自らの理論を拡張のための答を過去の数学のなかに求めることになった。そして気がつけば、最先端の物理学は日常感覚とはかけ離れた抽象的な世界になってしまったのである。

 確かに数学的な美しさは人を魅了する。しかし、高度な数学を身につけたごく一部の物理学者にしか理解できないものが、自然を理解する方法として妥当だろうか。物理学はどこかで袋小路に迷い込んでしまったのではないだろうか。

エントロピーと時間

 ニュートンは、時間は宇宙のどこでも均一に過去から未来へ流れていると仮定したが、彼が発見した運動方程式は時間に対して対称になっている。つまり、運動方程式から導かれる現象が過去から未来へ向かっているのか、あるいはその逆なのか区別できないのである。この事情は相対性理論や量子力学に至っても変わらない。一方、日常を映したビデオを逆回しにすれば、われわれはすぐにそれに気がつく。過去と未来は対称ではないのだ。この時間の矢の問題は、物理学における永年の謎となっている。

一方で物理学の一分野で気体のような膨大な分子の集合体を扱う熱物理学においては、時間の向きを定める指標がある。エントロピーである。エントロピーとは平たく言えば乱雑さの度合いである。例えば水にインクを入れてかき混ぜると、水とインクが分離している状態よりも混ざり合った状態のほうが、より乱雑な状態といえるだろう。そして、一旦混ざってしまった水とインクが、再度分離することはない。つまり、自然界の現象は乱雑さが増す方向、つまり、エントロピーが増す方向に進む傾向があるのである。

 覆水盆に帰らずというが、一旦起きたらもとに戻らない現象は日常に溢れている。それらを注意深く観察してみると、必ずエントロピーが増大していることがわかる。われわれは日常において、エントロピーが増大するような現象、すなわち乱雑さが増す現象を自然だと感じるようになっている。つまり、エントロピーが増大する方向こそが時間が流れる方向だとわれわれは感じているのである。

しかしながら、何ゆえエントロピーは増加するのであろうか。水とインクを混ぜるということは、インクの分子と水の分子が容器の中である配置を取るということである。この配置にはものすごい種類の組み合わせがあるだろうが、全組み合わせの中でインクと水が整然と分離している場合は相当特殊だろう。こうした状態が起きる確率は、均等に混じる場合の確率に比べて極めて小さい。これは計算によって確かめることができる。つまり、エントロピーが高い状態は、確率的により安定な状態なのである。

しかし、もともと運動方程式で時間の向きが決まらないのに、どうしてエントロピーはそれを決めることができるのだろうか。それは、運動方程式では粒子の運動を一意的に決めてしまい確率の入る余地がないのに対して、一方の熱物理学では、確率的に起こりやすいことが起こるという前提に立っているためである。両者の間には論理的な飛躍がある。

実はこの問題はさらに深い謎をはらんでいる。もし運動方程式からエントロピーの増大が説明できたとすれば、エントロピーもまた時間に対して対称な物理量になってしまい、時間の進む方向については何も言えなくなってしまうだろう。物理学にとっても、時間は相当厄介な問題なのである。

物理学におけるHOWとWHY

 20世紀初頭、物理学の世界では量子力学が出現し、原子レベルのミクロの現象が非常によく説明されるようになった。その結果、光は何なのか、なぜ金属は電気を通すのに水晶は通さないのか、あるいは、なぜ鉄は磁石にくっつくのか、なぜガラスは透明で金属はぴかぴかしているのかなどなど、さまざまな身近な現象も目からうろこが落ちるように理解できるようになった。さらに量子力学は、半導体に代表される人工的な材料の発明を可能にした。それがトランジスターのような素子開発につながり、さらにはテレビやコンピューターなどを次々と生み出して、現代のIT社会を造り上げたのである。

ただ、そうした大成功の裏で、物理学は不確定性原理、つまり粒子の位置と運動量(速度)を同時に正確には予測できないという制約を科せられることになった。今、目の前にあった電子が、次の瞬間には宇宙のどこにあるのかわからない。確率はわかるが、調べてみなければわからない。そんなことになってしまったのである。予測するのが商売である物理学にとっては、看板に偽りありである。それ以来、物理学者は、ずっとこのジレンマに悩まされ続けることになったのである。

不確定性原理は、理論的に導かれるものではなく、実際に電子などの振る舞いから出て来た制約である。そして量子力学は、その実験事実を満たすように作られたのである。しかし、なぜ不確定性原理が存在するのであろうか。実は物理学の世界では、この質問はタブーとなっている。事実がそうなのだから、そんな疑問は持ってはならないと戒める人もいる。ミクロの世界では、日常的な常識が通用しないのは当たり前だと言うわけだ。

確かに量子力学は大成功し、科学技術の飛躍的な進歩を可能にした。それとともに、当初は量子力学に異論をとなえていたアインシュタインのような人々も次第に姿を消し、物理学者はその気持ち悪さから目をそらすようになった。しかしながら、その有効性はともかく、この宇宙の基礎をなす理論が、そんなもどかしさを残したままで良いのだろうか。

物理学はHOWの学問だと言われてきた。これは、物理学の創設者、ニュートンが万有引力の法則を発見した際に、「なぜ、万有引力は存在するのか」という疑問を自ら封印し、物体の運動をいかに記述するかにとどめたことに始まる。なぜそうなっているかは、「神のみぞ知る」と言うわけだ。それ以来、物理学は数学を用いて自然現象をいかに(HOW)記述するかに努めて来た。量子力学の構築も、その典型的な例と言えよう。しかしながら、HOWに答えられれば、WHYは無視してもよいと言うことではない。ニュートンは、HOWの手法、つまり科学的な方法によって、ギリシア哲学以来のWHYのアプローチを超え、より深い自然の理解に到達したが、同時にそれはWHYに対しても大きな説得力を持っていたのである。

量子力学はHOWに対してすばらしい答えを出してきた。しかし、依然としてWHYに対して納得のいく答えを出せないとしたら、自然の根本を記述し、すべての科学の基本となる理論としては、やはり不十分だと言わざるを得ないのではないだろうか。

確率と物理学

天気予報で降水確率30%と言われても、傘を持っていくべきかどうか判断しかねる。確率は数値で示されるため、一見、客観的な指標であるかのように見えるが、それをどのように利用するかは各人の主観的な判断に委ねられているのである。

ところが、最も客観性を重んじる学問である物理学においても、実は確率が用いられている。相対性理論と並び現代物理学の基礎を成す量子力学の世界では、現在から導かれる未来は1つではなく、特定の確率でさまざまな現象が起こり得るのである。しかもそれは原理的に避けられないことなのだ。

ニュートンはかつて運動方程式を解くことにより天体の運行や木から落ちたリンゴの動きを正確に予測できることを示した。そして、それ以降、永年に渡って物体の運動は物理法則にしたがって正確に予測できるものと信じられてきた。しかし19世紀後半になって発見された原子レベルのミクロの世界の現象は、ニュートンの古典物理学では全く説明できなかった。これを解決したのが、20世紀初頭に誕生した量子力学である。しかしこの理論は古典物理学に深刻な修正を迫ることになった。古典物理学では正確に予測できたはずの物理現象が、量子力学では確率的にしか予測できなくなったのである。これに対して、かのアインシュタインも、「神様はサイコロを振らない」と反論し、ついに死ぬまで量子力学を認めなかった。自然を厳密に記述すべき物理学において、何が起きるかはっきり予測できないようなものは理論とは言えない、というのが彼の信念であった。

しかしながら古典物理学でミクロな世界の現象を説明できないことは厳然たる事実であった。例えば、原子では原子核の周りを電子が回転しているが、古典物理学によれば電磁波を放射し、あっという間にエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまうはずである。つまり原子自体が理論的に存在不可能なのである。これでは話にならない。新たな理論は、電子が原子核に落ち込まないという結果を導くものでなければならない。ところで、古典物理学において未来が正確に予測できたのは、物体の位置と速度(運動量)を同時にかつ正確に決定できるとしてきたからである。では、もし電子の位置と速度の間に一定の関係を持たせ、両者を同時に正確には決定できないように制約を課したらどうなるだろうか?これではもちろん正確な予測はできなくなる。しかし、一方で電子が原子核に落ち込むことにより、その位置と速度が正確に決まってしまうようなことは起こり得なくなる。つまり、正確に予測することを放棄することで、原子は潰れることを免れるのである。この位置と速度を同時に正確には決定できないという制約を、量子力学の創設者ハイゼンベルクは「不確定性原理」と呼んだ。そして不確定性原理のもとに構築された量子力学は、古典物理学が抱えていた矛盾を次々と解決することに成功したのである。

量子力学の予測が確率的であることは、アインシュタインをはじめ多くの物理学者を苛立たせ悩ませてきた。にもかかわらず、未来を正確に予測できないことが、この宇宙を成り立たせるための不可欠な条件であることも、紛れもない事実なのである。

生物における「合目的性」

1965年にノーベル医学生理学賞を受賞したフランスの生物学者ジャック・モノーは、有名な「偶然と必然」という著書の中で、次のように言っている。「生物学が科学として成り立つためには客観性が必要だが、一方、生物は明らかに合目的的性格を持ち、それが生物であることの証でもある。そこに生物学が内包する矛盾がある」。ここで言う、合目的的性格とは、生物の振る舞いには、常に何からの目的があるように見えることを言う。

例えば、卵子と受精する精子は、頭部から生えた鞭毛を螺旋状にし、スクリュウのように回転させて前進するが、その螺旋の形状を流体工学的に調べてみると、精子が最も速く進める形状(ピッチと振幅)になっていることがわかる。卵子と受精できるのは何億もの精子のうち1個だけであるから、精子は出来るだけ早く卵子に到達しようとするわけである。さらに、卵子にたどり着いた精子は、一転して鞭毛の動きを回転運動から平泳ぎのキックのような前後の運動に変える。これについても流体工学的に調べてみると、今度は進む力が最も強くなる泳ぎ方になっているのである。卵子にたどり着いた精子が受精するためには、卵子の細胞膜を破って核に侵入しなければならない。そこで、もっとも推進力が得られる泳ぎ方に切り変えたのである。

精子に限らず、昆虫の行動にも、植物の種子を飛ばす方法にも、「なんと巧妙な!」と驚かされる振る舞いをしばしば目にする。そうした、「合目的的」振る舞いは、生物にしか見られないものであり、生物を非生物から区別するものと考えられてきた。

一方で、物理学に代表される現代科学の手法においては、客観性が重視され、分析的な理解を目指す。生物のあらゆる振る舞いや構造は、基本的にすべて物理法則に帰することができると考え、「目的」のような主観的な見方は極力排除しようとする。

20世紀に入り、量子力学が登場し、物理学が次々と自然の仕組みを解明していくなか、モノーの時代には、まだ、「生命」にだけは、物理学では説明できない何か形而上学的なものが隠され、それが生物の「合目的的」な振る舞いの起源ではないかという期待があった。しかし、その後の分子生物学の急速な発展は、そうした期待を次々と退けていった。結局、生命現象といえども物理学に矛盾するものは、何もみつからなかったのである。

しかしながら、生物の行動が単なる物理的な帰結だとすれば、何故その振る舞いは「合目的的」に見えるのか。分析的な方法は、永久にその疑問には応えてくれそうにもない。しかし、逆に、ア・プリオリに「合目的性」を仮定してみると、巧妙に物理法則を利用し、進化を続ける生物のしたたかな姿が見えてくる。宇宙さえも、実は生物に進化の舞台を与えるために生まれてきたのかもしれないのである。