ケムリが目にしみるう…

 毎年、今頃になると、高校の同級生のTさんの絵を観るために六本木の国立新美術館で開かれる二紀展に足を運ぶ。数百点に及ぶ出品作の中でも彼女の作品は独特の世界を展開しており、年々その存在感を増して来ている。

 画面手前ではサンマが絵からはみださんばかりの迫力で網の上で焼かれている。七輪から立ち上るオレンジの炎にジュージューと炙られ良い色に焼き上がったサンマは、所々皮が剥げて香ばしい匂いを漂わせている。

 その背後で、作者の分身である(と思われる)巨大な顔の少女が七輪から顔を背けて必死で団扇をパタパタやっている。ケムリが目にしみるのだ。団扇は、動きを出すために漫画のように何枚も描かれ、さらに動きに沿って白い線も引かれている。その妹(と思われる女の子)が彼女の足下でうずくまり、彼女とは対照的に冷静にサンマを見つめている。

 そうした情景を手前上に置かれたカメラから俯瞰するように見下ろしている。少女たちの背後には未舗装の路地が続き、その両側には軒下に植え込みのある古い民家が建ち並ぶ。それらは極端な遠近法で後方に吸い込まれ、シュールでレトロな空間を作っているのだ。

 最初に彼女の絵を観に行ったのは10年以上前のことだ。当時の作品は、画面全体にさまざまなものが配置されているが、それぞれバラバラで何が言いたいの皆目分からない。偶然、会場で出会った彼女にどう褒めたものかと迷っていると、「先生方から『幕の内弁当』って言われているんだ」と半ば自嘲気味に言うので、思わず頷いてしまったものだ。

 そんな彼女の絵がしばらくして劇的な変貌を遂げた。祭や神社、縁日など、ちょっと不気味で日本的な題材が独特の厚みのあるタッチで描かれ、新たに登場した彼女の分身が何かを夢中にやっている。遠い記憶の瞬間がエネルギッシュな滑稽さのなかに凝縮され、かつての散漫な印象は影を潜めていた。

 スルメの焼けこげる香り、目にしみる煙、祭の太鼓の音..。彼女の絵は視覚以外にも訴えかけてくる。一方、漫画的な手法を大胆に使うことにより画面に動きを作り出し、それが分身の無邪気な心情をリアルタイムで伝えてくるのだ。

 それ以降、彼女はひたすらその路線を追求してきた。絵画の常識に納まり切らないその手法には恐らく賛否両論あったに違いない。しかし、彼女は自らの技術を高めることでそれに応えようとしてきたのである。

 テーマの賑やかさに比べ、彼女の色使いはかなりストイックだ。デッサンに一部色付けしたような風合いで、植え込みなども砂埃をかぶったように灰色に覆われている。そのなかで彼女がポイントとして好んで使うのは提灯や炎の赤。

 ところが今回は珍しく、画面中央に扇子の裏を使って黄を持ってきた。それが全体に立体感を与え、構図を引き締めている。お見事!気がつけば、そこには既に大家の風格が漂っていた。

バルテュスの衝撃

 2ヶ月ほど前にJRの秋葉原駅でバルテュス展の巨大なポスターを見かけた。そこに用いられていた作品は彼の代表作の一つ、「夢見るテレーズ」だった。少女が椅子に座って片膝をたて、パンツ丸見えの格好で横を向いて目を瞑っている。何か悩みでもあるのか、その表情は硬い。足下では猫が皿の水をなめている。強烈な印象の反面、一目見ただけではその意図は図りかねる。「称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠」というコピーは、その複雑な印象を巧く言い当てているように思えた。

 それからひと月ほどして、NHKの「バルテュスと彼女たちの関係」という番組が偶然目に飛び込んできた。俳優の豊川悦司さんが美術調査員に扮し、バルテュスが関わった女性たちとの関係を追いながら画家の本質に迫って行くと言うミステリー仕立ての番組だ。

 バルテュスは、少女が大人になる瞬間に取り憑かれた画家だった。それゆえ彼は一部の人からロリコン画家のレッテルを貼られてきたのだ。確かに彼は生涯、何人かの少女に心を奪われ、時には田舎の城館に隠棲したこともある。だが、彼がそうした少女に見出したものは、何か我々の想像を超えたもので、そこには天才の鋭い直感と洞察が感じられた。ただ、この番組からだけでは、彼の真の狙い、彼が追い求めた物が何であったのかを実感することは不可能だった。それを確かめるためには、この目で直に観てみるしかない。

 東京都美術館のバルテュス展では、誤解だらけの画家の作品を一目見ようと押し掛けた大勢の老若男女たちがバルテュスの強烈な個性に胸を射抜かれ、普段の展覧会では感じたことのないような熱気に包まれていた。バルテュスの絵には圧倒的な存在感があった。

 まず舌を巻いたのはその技術の高さだった。テーマの特殊性にばかり目が行き勝ちだが、その先入観は見事に裏切られた。彼は誇りを持って自らを職人と称していたが、この確かな技術的な裏付けなしでは、彼が追求する世界を描くことは到底不可能だったのだ。

 片胸はだけた少女が髪をとぎながら鏡に向かう姿を描いた「鏡の中のアリス」では、荒々しい筆のタッチが限りなく柔らかい胸の曲線を描き出しているのに驚かされる。髪はソフトだが、鏡を見る目は真っ白でまるで何かに取り憑かれているかのようだ。一方、足は人形のように無表情だ。これらが一体となることで、まるで汗のにおいが嗅ぎ取れるような濃厚なエロティシズムを発散すると同時に、何か超人的な生命力が描き出されている。

 バルテュスの考え抜かれた大胆な構図は瞬時にこちらの心を捉え、ある種の調和に満ちた安心感をもたらす。だが、同時に得体の知れないエネルギーが磁場のように伝わってきて、画家がそこに込めた世界が容易に見通せるものではないと思い知らされるのだ。

 生涯にわたって画家に強いインスピレーションを与え続けた少女たちに、彼は常に畏敬の念を持ってきたと言う。その思いは作品として結実すると同時に、彼の世界をさらに深めて行った。彼の絵が多くの人を惹きつけて止まないのは、そうした創作を貫くことで次第に純化されて行ったバルテュス自身がそこに現れているからに違いない。

セザンヌの魅力

 先日、国立新美術館で開かれている「セザンヌ-パリとプロヴァンス」展に行った。セザンヌといえばまず思い浮かぶのが、サント・ヴィクトワール山の風景画だろう。しかし、かつては構図的にも色彩的にも僕には何が面白いのかさっぱりわからなかった。ところがいつからかこの絵に何か胸騒ぎのようなものを感じるようになったのである。だが、何が自分の心を揺さぶるのか良くわからなかった。今回の展覧会へは、なんとかその正体を突き止めたいという永年の思いを胸に臨んだのだった。

こちらの思いが通じたのか、セザンヌの風景画は11点がまるで僕の疑問に答えるかのように優しく迎えてくれた。そして、彼の風景画の秘密も包み隠さず教えてくれるようだった。ゼザンヌにとって最も大切なことは自然を観察することなのだ。セザンヌの色彩は決して計算によって出てきたものではない。セザンヌは自然を見て、そこに彼独特の色彩を「発見」する。それは頭の中だけで想像するのとは根本的に異なる。「発見」自体にセザンヌの創造力が凝縮されているのだ。それがわかった途端、筆のタッチの一つ一つが生き生きと動き始めた。僕は彼の絵の誕生の瞬間に立ち会うことができたように感じた。サント・ヴィクトワール山を繰り返し描いたのは、そこに彼の理想の色彩を「発見」するためだったのである。

今回の展覧会では、風景画だけでなく、身体、肖像、静物とカテゴリー分けして展示されており、改めてセザンヌの多様な世界を知ることとなった。

例えば、彼の人物画には風景画とは全く別の魅力がある。これまで、セザンヌは色彩の魔術師であり、人物といえども色彩のためのモチーフに過ぎないと思っていた。しかし、彼の肖像画には、実は描かれたモデルと作者の関係が濃厚に表れている。絵を描くという行為によって、描かれる人物と画家との関係が、普通の人間関係では考えられないような緊密さに達している。その結果、被写体の人間性が見る者に強烈に伝わってくるのである。

セザンヌは決して感性だけの画家ではない。彼の絵には彼が人間に感じる喜びが注ぎ込まれているのである。

セザンヌがピカソなどの20世紀の絵画に大きな影響を与えたことは有名な話だが、その先進性が最も端的に現れているのが静物画だろう。だが、僕はこれまでに彼の静物画を理解できたと実感したことがなかった。今回の展覧会では、彼の最高傑作の一つ、「りんごとオレンジ」が出品されていた。その気品を湛えた迫力ある静物画の前に、だから僕は特別に意気込んで立っていた。しかし、さまざまな角度から見た対象が同一平面に配される独特の構図はやはり簡単には理解できない。作者のさまざまな意図と工夫を感じることはできても、その高度な絵画的世界を解き明かすことは、結局、今回もかなわなかった。

「りんごでパリ中を驚かせてやる」と言い放ったセザンヌが到達した境地は、当分、僕を惹きつけて止みそうもない。

エチュード

 その芝居小屋は大崎駅から御殿山方面に5分ほど歩いた住宅地のなかにあった。近くに高層ビルがせまり取り残されたように建つその建物のなかで演劇が行われているとは誰も気づきそうもない。だが入口をくぐると、そこにはレトロな雰囲気の劇場空間が広がっていて、集まった芝居好きたちが静かに開演を待っていた。

劇団「4つ子」は男3人女1人からなるユニットで、各メンバーは普段は別の劇団に所属している。気鋭のメンバーが何か実験的なことをやってみようと一堂に会したわけだ。

劇は、雑談していたら急に明かりが付いたのでやむなくその場をつくろって始めたかのようにいきなり始まっていた。自然で淀みのない会話が特徴的だ。だがしばらくすると疑念が生じた。これはアドリブだろうか。だが、そうだとすれば完璧すぎる。しかし、台本だとすればあまりにも自然だ。どうもこれは、これまでに体験したことのない劇のようだ。

演じるとはたとえそれが自然な演技と呼ばれるものであっても、日常生活をそのまま見せることではない。「芝居がかる」という言葉があるように、演技とは役を演じる表現行為なのである。だから劇団にはそれぞれ個性があって、訴えたいことをどのような方法で表現するかを観客の前で競うわけだ。例えば、かつての「つかこうへい」の劇では、夥しい量の台詞が舞台の上でぶつかり合ううちに激情となり、それが観客の心に突き刺さった。ところが、今、目の前では日常会話がサッカーのパスのように次々とつながっていく。そこで展開されているのは、言わば「完璧な日常会話」なのだ。

話は荒唐無稽だ。数十年にわたる宇宙旅行に出た4人が1人を残して冬眠するのだが、10年に1度、全員が目を覚まして顔を合わせ、その後、また別の1人を残して眠りにつく。

10年間は長い。ある船員は、その間、一人で起きている孤独をなんとか解消すべく、両性具有化して一人男女二役をこなすことで乗り切ろうとする。そのために自らの手で麻酔なしで性転換手術を行い、その様子を痛みをこらえながら地球の家族に向けて実況中継するのだ。すごい想像力に圧倒されたが、やはり最も印象深いのは自然な会話によってムチのようにしなやかにつながっていく人間関係の表現だ。

芝居が跳ねた後のアフタートークで、この台詞を日常会話化する手法は「エチュード」と呼ばれるものであることを知った。稽古を始めた当初は、打ち合わせだと思っていたらすでに稽古が始まっていたということもあったらしい。また、劇に日常を持ち込むうちに、日常が劇化するという逆転現象も起きたようだ。

日常会話においては様々な感情が生じる。しかし、日頃、会話自体を徹底的に追求することはない。もしそれを突き詰めていけば、人間関係はどんどん深まり濃密なものになっていくのかもしれない。芝居がかった台詞を捨てることで、果たして演劇は新たな世界を切り開くことができるのだろうか。

あらためて演劇とは何か、そして逆に日常とは何かを考えさせられることになった。

宗教画との出会い

先日、プラド美術館展に行ってきた。ベラスケスやゴヤなどの作品が特に目立たないほど名作が目白押しで、久しぶりに絵画がもたらす独特の充実感に浸ることができた。

ところで、ヨーロッパ絵画はキリスト教抜きには語れない。今回の展覧会でも多数の宗教画が出展されていた。しかしキリスト教になじみが薄いものにとって、宗教画にはなんとなく苦手意識がある。作者にとって、聖書から題材を得たその場面を描くことにどのような意味があったのだろうか。もちろん絵画なのだから、それを観てどう感じるかは鑑賞者の自由である。だからと言って、十字架を背負ったキリストの絵を、ゴッホの「ひまわり」を観るのと同じようには観られない。宗教画は作者の信仰心と深くかかわっているからである。現代人は宗教が苦手である。昨今、大ヒットしている「ダ・ヴィンチコード」でも、ダ・ヴィンチの有名な宗教画にある、カトリックの常識から外れた多くの「謎」には注目しているが、画家の信仰心などには全く触れていない。「信仰」を避けてキリスト教を文化として語ることは最近の流行のようである。しかし、謎解きが絵の核心に近づく道だとは思えない。幸いなことに、この展覧会におけるある絵との出会いが、宗教画への眼を開かせてくれた。ムリーリョの「貝殻の子供達」である。

幼子姿のイエスが、やはり幼子姿の洗礼者ヨハネの口元に、水の入った貝殻を近づけ、それを子羊が下から見上げている。ヨハネはその水を口に含みながらも、左手でもった十字架形の杖の先に注意を集中させ、今にも次の行動に移ろうとしている。いかにも幼い子供が無心で遊んでいる様子が伝わってくるが、良く見るとヨハネは非常に聡明そうで、イエスはイエスで後ろに控えてはいるが、その目はまるで我が子を見守るかのようにおだやかで確信に満ちている。そして見れば見るほど、彼らの姿勢や仕草、そして動きはすべて調和に満ち、一部の隙もない。さらに、イエスやヨハネのいかにも幼子らしい純真さが、そうした完璧な調和が「生まれながら」に備わっているものであることを無言のうちに伝えている。僕は静かなその絵のなかに、崇高な熱気が渦巻くのを感じ、しばしそれに焼かれる思いで絵の前に立ち尽くした。同時に、僕のような俗な人間が今後どう生きようとも、こうした世界には決して到達できないだろうという思いが湧き起こり、胸が一杯になったのである。

会場の出口で、この絵のポスターを買ったが、実物に感じた感動は蘇らなかった。本物の柔らかく深みのある質感は、作者の精魂込めた微妙な筆のタッチに支えられており、それを印刷で再現するのは無理そうだ。改めて、作者の驚くべき技術の高さと、それを細部に至るまで注ぎ込ませた作者の心の世界を感じないわけにはいかなかった。