F君のこと

先日、中学生の娘たちが学校の友達のことを話すのを聴いているうちに、いつしか自分の子供の頃の友達、F君のことを考えていた。どうやらF君のような友達は、娘たちの周りにはいそうにもなかった。思えば、F君は実に稀有の友だった。

F君とは物心ついた頃からの付き合いだった。彼のお父さんは県立高校の校長先生で、家の中には何ともいえぬ高尚な雰囲気が漂っていた。一方、F君は8人兄弟の5番目で、家庭はに大家族独特の開放感が溢れていた。

F君の家は、僕の家から1分もかからないところにあり、せまい路地に面して玄関が2つある変わった構造の家だった。その左の玄関から入り、奥の梯子のような階段を登った屋根裏部屋がF君の部屋だった。彼は、そこで誰にも邪魔されず、マンガを読んだり猫と戯れながら過ごしていた。押入れには、チーズやジャムなどの詰め合わせがいっぱい押し込まれており、F君は時折それらの中から何かを引っ張り出してきては一口二口食べると、残りをあっさりゴミ箱に捨ててしまっていた。僕は、昼夜の区別なく、F君がいないときでもその部屋に勝手に上がりこみ、やりたいことをやっていた。

ある日、小学校から帰ってF君の部屋に行くと、薄っぺらなお菓子の箱の中で何かがごそごそ動いている。僕がギョッとしていると、F君は箱を少し開けて中身を見せてくれた。そこには、狭くて動きが取れないコウモリがもがいていた。夜中に猫がくわえて帰ってきたのだ。F君は猫使いのように猫の扱いには慣れていた。

F君と僕の性格は、正反対と言っていいほど違っていた。僕が内気な優等生タイプだったのに比べて、彼は頭の回転が速いいたずら小僧だった。小2のとき、僕の家で畳にこぼした大量の水を電気掃除機で吸い取って一発で壊してくれたことがある。彼は、しばらく我が家に出入り禁止になった。彼はその時すでに、何人かの友達の家に出入り禁止になっていた。それはひとえに、思いついたことはすぐに実行に移す彼の性格が原因だった。

F君の遊びに対するアクティブさは尋常ではなかった。彼は、毎週、かなり高価なおもちゃを買ってもらっていたが、新しいおもちゃを手に入れる度に、それを使ったユニークな遊びを次々と考案する。時には町内の子供を何人も動員することもあった。そして、遊び終わった後にはいつも、半ば壊れたおもちゃが残骸のように捨てられているのだった。

F君は当初、僕のことをドン臭い奴だと思っていたかもしれない。しかし、彼と夢中になって遊ぶうちに、僕もおもしろいアイデアが次々と浮かぶようになった。そして、中2のある日、「やると決めたことは、確実にやっていく奴だな...。褒めているんだよ」と、突然、彼が言った。いつしか彼も、僕を認めてくれていたのである。

もしF君が近所に住んでいなかったら、僕は自分のなかに隠れている創造性に一生気がつかなかったかもしれない。そして、その後の人生で、僕が常に独創性にこだわってきたのは、まさにF君と遊んだ日々があったからなのである。

中学の頃

 昨年中学に入った長女のこの一年は、けっして平坦なものではなかった。いつもぎりぎりのところで何とか乗り越えてきたが、その都度、必ずと言っていいほど親に当り散らした。そんな彼女に、いつしかかつて自分の中に渦巻いていたものを感じるようになった。記憶は蘇り、当時の自分を映画で見るような妙な錯覚を覚えるようになったのだ。

中学に入ってしばらくすると、僕はいつの間にかすっかり漫画に夢中になっていた。学校の帰り道に貸し漫画屋さんがあって、借りてきては毎日取り憑かれたように読んだ。漫画の多様な世界は、あたかも渇いた体が水を求めるように無条件で吸収されていった。それまで優等生に収まっていた僕にとって、漫画を読むことは一種の反抗だったのかもしれない。しかし1年ほどして、店にあった何百冊もの漫画をほとんど読みつくしてしまったころ、突然、ぱたりと読むのをやめてしまった。漫画から得られる充実感に限界を感じたのだ。取って代わって僕を捕らえたのはベートーヴェンの音楽だった。そこには漫画にはない高度で深い世界があった。その聴き方は音楽を楽しむというより、音によって心の中に描きだされる世界をむさぼるように感じ取ろうとするものだった。人生で初めて、絶対的に信じられるものに出会った気がした。そしてその感動は、僕の心に何かを成し遂げなければならないという強烈な使命感を呼び起こした。200年の時を経て、シュトゥールム・ウント・ドランクの嵐が僕の心の中にも吹き荒れたのである。

一方で、僕は当時、「ラプラスの魔」に悩まされていた。宇宙の全ての原子は物理法則に支配されており、従って全ての事象はその法則にしたがって進行する。人が何を考えても、それ自体が物理的な帰結であり、「意思」は決して物理法則を超えることはできない。ニュートン物理学の継承者、ラプラスが描いたこの決定論的世界観は、ベートーヴェンによって引き起こされた使命感と真っ向から対立した。もともと論理的に考える癖のあった僕は、容易に逃れられないジレンマに陥っていたのである。

そんなことにばかり悩んでいたので、成績はぱっとしなかった。親から、「勉強しろ」と叱咤が飛んだのも当然である。それに対して、「勉強の前提として、生きる目的を解明する必要がある」と泣きじゃくりながら主張する僕に、親は相当手を焼いたことだろう。勉強など、言われなくても分っている。その前に、何故おとなは子供にとって大切なことに無頓着なのか。その鈍感さが我慢ならなかったのである。

この春、次女も中学校に入学した。彼女はこの一年間、変っていく姉と悩める親を冷めた目でじっと見てきた。彼女もまた親の想定を超えたことを言い出すのだろう。しかし、こちらは度胸を据えて見守るしかない。なぜならそれこが子供の成長の証なのだから。

おじさんのラーメン

まだ、僕が名古屋で中学生だった頃、夜も11時を過ぎたあたりに、家の近くでチャルメラを鳴らす屋台のラーメン屋さんがあった。当時からラーメン好きだった僕は、それを聞くたびに悶々としていたが、ある日、遂に我慢できず、弟と2人で寝静まった町に繰り出すと、闇の中に明るいガス灯に照らされ、白い湯気を立ち昇らせる屋台があった。

澄んだ醤油味のスープの中に、沸騰する大鍋で茹で上げた麺をさっと滑り込ませ、半割りの卵とチャーシュー、鳴門とメンマ、そして海苔を手早くのせ、湯気越しに、「どうぞ」と木製のカウンターに差し出すおじさんの仕草は、何の気取りもなく淡々としていた。しかし、その麺を一口すすって唖然とした。それは、最近のラーメンに良くある、「しばらくするとまた食べたくなる」というような曖昧な味ではない。はっきりとした主張がしっかり詰まっていた。複雑で深く、かつ完成された味だった。いったいどうすればこんな味が出せるのか。屋台の周りに漂う、腰が抜けるような濃厚で複雑なスープの匂いに、その秘密の一端が隠されていることは間違いなかった。

「こんな仕事してますがね、私、法政出なんですよ。」無口なおじさんが、他の客相手にふと口を開いたことがある。「大学出た後、親が出してくれた元手で事業を始めたけど失敗してね。それでも、サラリーマンにはなりたくなくて、小さくても一国一城の主にこだわって屋台を始めたんですよ。」おじさんを尊敬するわれわれには、おじさんのラーメンにかける自負がひしひしと伝わってきたものだった。

ある夜、すでに灯を消して足早に家路を急いでいたおじさんの屋台に、弟と2人で息を切らして追いつき、スープだけ飲ませてくれと頼んだことがある。おじさんは屋台を止め、再び店を広げると、丼にスープを注ぎ、いつもよりたっぷりネギを浮かせてくれた。そして、それを一滴も残さずに飲むわれわれを静かに見守っていた。値段を尋ねると、「また今度食べてくれればいいから」と言い残し、再び闇の町に消えて行った。

それから、12-3年ほど時が流れた。当時、すでに東京に住んでいた僕が帰省した折、かつての自宅の近くで、弟と2人でおじさんの屋台を待ち伏せたことがある。運良くその日、おじさんはかつてのように屋台を曳いて現れた。事情を告げると、「君達があのときの兄弟なのか!」と実に感慨深げに目を輝かせた。まさに夢のような再会だった。

その後、20年余り、うまいといわれるラーメン屋があると、まめに行ってみた。しかし、かつてのあの味に比較できるラーメンに出会ったことは一度もない。おじさんはまだ健在だろうか。そして、今でもわれわれ兄弟のことを覚えていてくれるだろうか。