音符と音符の間にあるもの

永年ピアノを習っているが、モーツァルトが一番好きだという先生にめぐり合ったことがなかった。多くの先生にとって最も人気のあるピアニストはショパンではないだろうか。そしてショパンのピアノ曲はモーツァルトのものより勝っていると思い込んでいる。モーツァルトは物足りないと感じているから、自ずとモーツァルトを教える際の本気度は低くなる。モーツァルト好きの僕にとっては頭の痛い話だ。

確かにモーツァルトの時代にはピアノはまだ発明されたばかりの新しい楽器で、音量的にも鍵盤の戻りの速さなどのメカニカルな面でも現在のピアノに比べて劣っていた。モーツァルトも旅先で性能の高いピアノに巡り合うと有頂天になったようで、それがしばしば名曲を生み出す契機となっているほどだ。その後も作曲家の要求はピアノの進歩を促し、ピアノの表現力の進歩の原動力となった。そしてショパンやリストの時代になると、ようやく現代のピアノと遜色のない機能を備えたピアノが出来上がったのである。

ショパンの時代にはモーツァルトがやりたくてもやれなかった技巧が可能になり、作曲家はそれを前提に作曲することができるようになった。その結果、ショパンの曲はモーツァルトの曲にはないきらびやかさを具え、高度な技巧を駆使した表現が次々と出てくるようになる。ピアニストにとっては弾き栄えがし、テクニックを誇示するには持ってこいの音楽になっているのだ。多くのピアニストがショパンを好む所以である。

では、モーツァルトや更に昔のバッハの鍵盤曲はショパンのものより劣っているのだろうか。僕にはとてもそうは思えなかった。何度練習しても新鮮な感動を与えてくれるモーツァルトの音楽には何か計り知れない魅力を感じるからだ。モーツァルトに最も力を入れる世界的なピアニストが大勢いるのもそれを裏付けている。

そうした僕のピアノ人生にとうとう幸福が訪れた。モーツァルトの凄さを理解しているS先生に教えてもらうことになったのだ。先生はモーツァルトの音楽に対する評価は明快だった。確かに技巧的にはショパンの時代の音楽に比べて限られているかもしれないが、モーツァルトの音楽の質はそれを差し引いて余りある。むしろ技巧に頼る分だけショパンの音楽は表層的になりがちだ。当時のピアノの能力でモーツァルトが表現した世界は、後にショパンが表現したものと比べてもはるかに豊かなのだ。

譜面を見るだけだと、モーツァルトの曲はショパンに比べはるかに簡単に見える。しかし、その少ない音符と音符を繋いでいくためには演奏者の深い理解と高い技術が要求される。子供には簡単だが、一流ピアニストには難しいと言われる所以だ。現在、K322のソタナに取り組んでいるが、改めてモーツァルトの音楽の多様さに驚くと同時にその難しさを肌で実感している。

ショパンは確かにピアノによる多種多様な感情表現を編み出したかもしれないが、モーツァルトが目指したものはさらに高度な精神世界だったのだと感ぜずにはいられない。

大邱市交響楽団

 去る34日、東京オペラシティーコンサートホールで開かれた、韓国第三の都市、大邱(デグ)市が誇る大邱市交響楽団のコンサートに出かけた。このところ、クラシック音楽界でも韓国勢の躍進が目覚しいと聞いていたので、どんな演奏を聞かせてくれるか楽しみだった。

 全員招待客のためかドレスアップした人が多く、華やかな雰囲気に包まれるなか、それに応えるようにグリンカの「ルスランとリュドミラ序曲」で幕を開けた。弦の細かい動きが多くアンサンブルの良し悪しが目立つ曲だが、演奏はよどみなく流れ、技術の高さを伺わせる。次のグリーグのピアノ協奏曲でも、表現が的確で無駄がない。ピアニストのハン・ドンイル氏のベテランらしいこなれた演奏とも息がぴったりと合っている。

だが圧巻は何と言っても最後のベートーヴェンの「運命」だった。この曲はあまりにも有名だが演奏は楽ではない。感情の起伏が激しくテンポの変化も大きい。何よりも冒頭のテーマからフィナーレまで高度な集中力が求められ、一瞬たりとも気の緩みは許されない。まさにオーケストラの実力が試される曲である。

しかし、出だしから音楽は確信に満ち、その躍動感に演奏する喜びが溢れている。2楽章で楽団員の気持ちの高まりがうねりとなって伝わって来ると、かつて自分がこの曲に心酔していたころの感動が永い時を隔てて蘇り胸が詰まる想いだった。終楽章は、まさに全員が渾身の力を込めた熱演だった。単なる技術を越えてメンバーの一人一人が細かいニュアンスを共有しており、それが力強い表現となって迫ってくる。しかも決して主観に流されることがない。指揮者のクァク・スン氏の高い手腕も伺われた。

曲が終わると、割れんばかりの拍手の渦となった。日本の聴衆が、演奏を理解し心から感銘を受けた様子は、この韓国のオーケストラのメンバーにも十分伝わっているようだった。僕も顔が紅潮し、あまり味わったことのない感動を覚えていた。オーケストラのメンバー全員がこれほど真剣に演奏するコンサートを聴いたことがこれまでにあっただろうか。もちろん、ずば抜けた才能を持つメンバーをそろえたヨーロッパの超一流オーケストラのインスピレーションに満ちた艶のある演奏も魅力的だが、音楽が本来持つ心の叫びを真正面から受け止め真摯に表現することこそ最大の魅力ではないか。今回の演奏は、クラシック音楽の原点を改めて思い出させてくれるものとなった。

こうした演奏は強い精神力と鍛え抜かれた技術があってこそ可能となる。現在、日本でこれほど実直に音楽に取り組んでいるオーケストラが果たしていくつあるだろうか。音楽の可能性を信じて、ひたすら高みを目指す意志の強さは並大抵のものではない。最近さまざまな分野で韓国勢の躍進が著しいが、恐らくその根底には、そうした彼らの純粋さと精神の強さがあるのではないだろうか。韓国文化の本質に触れたような思いがした。

ビートルズ

 いつ終わるともないバンガロー・ビルのけだるいエンディング。口笛が聞こえ拍手がパラパラと起こる。突然、ジョンが大声で何か叫ぶと、間髪を入れず、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスの断固としたギターのイントロが始まった。僕は不意をつかれ全身を雷に打たれたような衝撃が貫く。ビートルズのホワイトアルバムの一節だ。

この9月にビートルズのCDが音質を格段に向上させて再発売されると、凝ったジャケットや解説に所有欲をそそられ、16枚組みのBOXセットを買ってしまった。すでに伝説的な存在となったビートルズだが、久しぶりに真剣に耳を傾けると、どこを切っても創造力が砂のようにあふれ出てくる彼らの音楽には改めて圧倒されるばかりだ。

僕がビートルズに出会ったのは高校1年の時だ。その3年前にすでに彼らは解散していたが、人気はまったく衰えていなかった。クラスの熱狂的なファンに強引に勧められ、それまでクラシック一辺倒だった僕はロック入門を果たしたわけだ。当時の印象的な記憶がある。それはビートルズ入門後、他のバンドを聴いてみようとしたときの独特の違和感だ。一言で言えば、他のバンドはただのロックバンドだったのである。全く物足りないのだ。今にして思えば、それはまさにビートルズのビートルズたるゆえんだったのだ。

解散後、ソロ活動に移ったビートルズの各メンバー達でさえ、結局、ただのロックミュージシャンになるしかなかった。確かにジョンのイマジンは名曲だし、ポールは現在に至るまでトップスターとして活躍してきた。しかし、彼ら自身にとっても時を経るごとにビートルズの存在はますます巨大な壁として立ちはだかったに違いない。解散後のメンバーの人生には常にビートルズの影が亡霊のようにつきまとうのである。

では、一体、ビートルズとは何者だったのだろうか。ジョンは自らの曲「ヘルプ」について、「当時は完全に自分を見失いどうしたら良いのかわからなくなっていた。ヘルプは自らの叫びだった」言っている。20歳そこそこの青年はビートルズという巨大ビジネスに飲み込まれそうになっていたのだ。一つ間違えば、ニルヴァーナのカート・コバーンのように自ら命を絶ったかもしれない。あるいはポリスのようにあっさり解散を選んだかもしれない。ギリギリのところまで追い込まれながらも踏みとどまり、その苦悩を創造のエネルギーに変換し続けたことがビートルズをビートルズたらしめた。そして、それを可能としたのは、4つの全く異なる稀有な個性の奇跡的な出会いであったと言うしかない。

彼らが当時最高の録音技術を駆使し、苦労の末作り上げた音は、現代のデジタル技術では難なく再現できるかもしれない。しかし、ゴッホの油絵がコンピューターグラフィックの前で色褪せることがないように、細部まで手の込んだ作業は現代では決して実現できない厚みと迫力がある。むしろアナログ独特の生々しさは、彼らの荒い息遣い、飛び散る汗をリアルに伝えてくる。

4人の青年は子供のように夢中に歌い、時に火花を散らして衝突し、いつしか魅力的なおとなに成長していった。ビートルズとはそのまぎれもない記録なのである。

天才のいたずら

 一年ほど前、ピアノを習い始めて10年目にして、モーツァルトのK331のイ長調のピアノソナタに挑むチャンスがめぐってきた。終楽章にトルコ行進曲が来るあの曲である。この曲は、数ある彼の作品の中でも最も有名な一曲だろうが、あまりに親しまれているため、子供向きの入門曲だと思っている人も多いだろう。この曲の真価は案外に知られていないように思われる。

20年ほど前、東京文化会館小ホールで開かれたワルター・クリーンのコンサートに行ったときのことである。その日の演目は、モーツァルトのソナタばかり3曲で構成されていた。その一曲目がK331であったが、ゆったりとした出だしが指慣らしに適当だからだろうと思っていた。だが演奏が始まるとすぐに、クリーンが最も得意とする曲を最初に持ってきたことを確信した。そして、その透き通った、あまりに透き通った響きが、僕の全身を金縛りにしてしまったのである。まるで目の前に、神か精霊がいきなり降りたち、ただ歓喜にむせぶしなかいような状態と言ったら良いであろうか。そんな音楽をピアノが発していること自体が信じられなかった。それは劇的な感動でも、情緒溢れる表現でもない。ただモーツァルトの純粋な心が、無邪気に歌っているだけなのだ。この曲の凄さは、いつも無邪気さと同居しているのである。

有名な曲であるにもかかわらず、この曲にはソナタ形式の楽章が一つもなく、ピアノソナタとしては変則的な作品である。現在、その第一楽章の変奏曲に取り組んでいるのだが、随所にこれまた変則的な指の動きがあって弾きにくい。しかもモーツァルトは、わざと弾きにくくして喜んでいる節がある。今、教えていただいているF先生も、「ちょっと遊びすぎですよね」とあきれるほどだ。

しかし、こんな逸話がある。モーツァルトは旅の途中、あるお宅で世話になったが、その旅立ちの日、家族はおおいに別れを惜しんだ。そこで彼はふと思い立ち、玄関ですばやく紙切れに短い曲を書くと、その紙切れを真ん中で半分に破って見送る家族に手渡し、曲の最初からと最後から同時に歌うよう頼んだ。すると、それが物悲しくもなんともおかしい別れの2重唱になったと言う。

K331において、左手のアルペジオが小節の半ばで反転するような動きをするにつけ、僕はこの逸話を思い出さずにはいられない。それらは、彼のいたずらなのだ。しかし、練習を重ねるにつれ、それが面白くなってくるから不思議である。そして、いたずらは彼の創造の源であり、いたずらにこそ彼の天才の秘密があると感じられるようになってくるのである。

この曲は、1楽章だけをやるつもりだったが、以前、指導を受けていたN先生から、「1楽章から通して弾くと、(終楽章の)トルコ行進曲の面白さに改めて気付くのではないでしょうか」という年賀状が届いた。どうやらモーツァルトの仕組んだいたずらが本領を発揮するのは、まだこれからのようである。

グールドのゴールドベルク

 1955年、後に20世紀を代表するピアニストの一人となる無名の22歳の青年がレコードデビューを果たした。曲目はバッハのゴールドベルク変奏曲。当時、チェンバロで弾くのが常識だったこの曲をピアノで弾くことにレコード会社は猛反対したが、それを押し切っての録音だった。しかし、発売されるやいなやそのレコードは世界的なセンセーションを巻き起こし、グレン・グールドの名は一躍世界にとどろくことになったのである。

この演奏は、チェンバロによる従来の演奏に比べてテンポが異常に早い。そもそも、難曲とされるこの曲をこのようなテンポで弾こうとする無謀なピアニストは、それまで誰もいなかった。リピートもすべて省き、息もつかせぬ速さで疾走していく。これがもし一回限りの生演奏だったら、単にそのテクニックに唖然とするだけで終わってしまうであろう。だが、幸いなことにレコードは繰り返し聴くことができる。グールド自身、それを前提としていたに違いない。繰り返し聴くうちに、この演奏の凄さがわかってくるからである。非常に早いテンポにもかかわらず、全くテクニックの乱れは見られない。対位法の各声部は完全な独立性を保ち、しかも互いに精神的に深く絡み合っている。何度聴いても、常に彼の理想はさらにその先を行き、バッハへの深い理解と確信を思い知らされるのである。

 グールドは、30代になって、何の前触れもなく、突然、演奏会から完全に身を引いてしまった。自らの世界の追求を妨げるさまざまな雑音を遠ざけ、スタジオに篭り、録音によってのみ、その音楽を世に問うことにしたのだ。スタジオでの演奏風景を見ると、その集中力には思わず戦慄を覚えるほどで、孤高の天才が目指した高みは計り知れない。だが、そうした極度の集中は、次第にグールドの肉体を蝕んで行ったのである。

1981年、26年ぶりにグールドはゴールドベルク変奏曲を再録音することになった。この変奏曲は、最初と最後のアリアと、それらに挟まれた30の変奏からなるが、新録音ではこのアリアのテンポが極端に遅くなっている。「以前の録音はテンポが速すぎて、聴く人に安らぎを与えることができていない」という反省から、それを聴き手に表明する意図があったと思われる。グールドにとって再録音は非常に珍しい。彼は、「前回の録音では、30の変奏それぞれがばらばらに振舞っていて、元になっているバスの動きについて思い思いにコメントしている」と、以前の録音に対する不満が再録音の理由だったとしている。

この再録音を記録した映像からは、彼はすでに曲を解釈したり表現したりするという次元を超え、曲と一体化しているように見える。そして、あたかも神に問いかけるかのように、自らが生涯最も愛してきた曲に穏やかに問いかけ、応えを聞き、心ゆくまで語り合っているかのようである。

この録音について、音楽評論家の吉田秀和氏は、「生涯にわたって猛烈な憧れをもって探してきたものがどうしても見つからない。そこで彼は、もう一度出発点に帰ろうとしたのではないか」と述べている。録音の翌年、グールドは脳卒中で亡くなった。天才音楽家は、その生涯をかけて探し求めたものを、最後にこのアリアと30の変奏に託したのである。

餃子と運命/F君のこと・その2

 僕がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのは中学2年の頃である。しかし、当時、我が家にはステレオはおろかプレーヤー(電蓄)もなかった。あったのは、英語用に買ってもらったテープレコーダーのみである。しかし音楽ソースは何もない。そこで、誰かステレオを持っている人に頼んで録音してもらおうと思い付いた。近所のF君の家には、お姉さんがピアニストであったことからピアノ室があって、ステレオも完備されていた。たまにその部屋で大音響でクラシック音楽が鳴っていたのを思い出した僕は、まずF君に録音を頼むことにした。曲目はなんと言ってもクラシック音楽の最高峰、ベートーヴェンの「運命」である。

録音はある土曜日の午後、F君の立会いの下で行われた。しかし、もともとオーケストラの音をマイクで拾ってレコードに刻み、それをステレオで再生しているのに、その音をもう一度マイクで録音するという行為に対して、F君はいかにもドン臭いと感じたようで、当初からまじめに取り合ってくれていなかった。雑音が入らないよう体を硬直させ、息をこらす僕の横で、彼は悠々と昼飯を食べ始めたのである。しかも、実況中継でもするかのように、箸で餃子を摘み、わざわざ「ギョーザ!」と声を出してメニューを紹介する。さらに、雰囲気を出すためにマイクに向かってクチャクチャやり始める始末だ。冗談じゃない!僕のいらいらは頂点に達したが、文句を言えば録音されてしまうので我慢するより他はない。

 そうこうするうちに、第1楽章が終わった。だが、その途端、思わぬことが起こった。F君が、「終わったー!」と大声で叫び、レコードを止めようとしたのである。だが、曲はまだ終わっていない。事情のわからぬ彼に、今静かに流れているのは、4楽章のうちの第2楽章であることを説明し、彼にしぶしぶ録音の続行を承諾させたが、またしても余計な雑音が入ってしまった。

 そうしたやり取りは、時に音楽より大きな音で録音されてしまっている。ぴんと張り詰めた運命の主題が流れる中、それと全く関係なく餃子を食べるF君の姿がくっきりと浮かび上がるのである。だが、僕はこのテープを軽く100回以上は聴いただろう。完璧な形式の中で溢れ出すベートーヴェンの情熱と独創性に、僕はたちまち心を奪われ、心酔してしまったのである。しばらくすると、F君の雑音も慣れてほとんど気にならなくなった。

 その後、僕も親に頼んで高音質のラジオを買ってもらうと、FM放送からテープレコーダーに録音できるようになり、いよいよ本格的な音楽鑑賞が始まった。しかし、ある日、もっと良い音で「運命」を聞きたくなり、F君に例のレコードをステレオで聴かせてもらった。しかし、そこで流れてきた音楽は、かつて僕が録音したものと全く違っていた。ゆったりとしたテンポに重厚な弦の響き。この違いは何だ?なんとF君は、以前の録音の際に、33回転/分のLPレコードを45回転/分のSPモードで再生していたのである。

私的「椎名林檎」論

今年の2月、椎名林檎のニューアルバム「平成風俗」がリリースされた。このアルバムでは、猫顔の天才ヴァイオリン奏者、斎藤ネコ氏が、自らのマタタビオーケストラを率い、全面的にアレンジを担当していることでも話題を呼んだ。時を同じくして、NHKで深夜、「椎名林檎お宝ショウ@NHK」という番組が放映された。実はこの番組で、僕は椎名林檎がどういう顔をしているのか初めて知った。なにしろCDジャケットなどで見かける彼女は、いつもコスプレがきつく、その都度、全く別人のようで、たとえ目の前に座ったとしても、彼女であることには気がつきそうもなかったのである。しかし、テレビで初めて椎名林檎が話すのを目の当たりにした僕は、改めて確信した、やはり彼女はオカシイ、と。

「しかし、なーぜに、こんなぁにも目ぇーが乾く、気ーがするーのかしらねぇー」。セカンドアルバム、「勝訴ストリップ」の最初の曲、「虚言症」の、なんともけだるい出だしが流れ始めると、たちまち僕は全身に鳥肌が立ち、同時に郷愁に満ちた陶酔感に包まれた。奇妙な歌詞、独特の節回し、そしてなんとも不思議なメロディーが、麻薬のように僕の脳の奥にしみこんで行く。冷たい水が渇いた身体を癒すように、体じゅうの毛細血管の隅々まで染み渡って行く。それは、ずばり、僕が永い間、求めて続けてきた音楽だった。あまりにも自分の体質に合っているので、初めて聴いている気がしない。それは、なぜかこの21世紀に、突如として僕の目の前に現れたのだ。

彼女の音楽が僕の心に湧き興す胸騒ぎのような感動は、かつて20代の頃、僕が夢中になっていたアングラ劇に覚えたものと似ている。彼女の芝居がかった音楽世界が、僕の眠っていた記憶を呼び覚ましたのだ。だが、アングラ劇は、結局、僕の求めていたものを与えてはくれなかった。それを、彼女は何の苦もなく手品のように僕の前に出して見せたのである。「日常よりリアルな理想」だとか「現実より真実な嘘」といった厄介なものを。

「椎名林檎お宝ショウ@NHK」のなかで、「デビュー以来、ずっとズレていた」と彼女は語る。デビュー当時、高校の頃作った曲を数年を経て歌うことに、すでに大きなズレを感じていたようだ。さらに、自分の狙いとは別のところでもてはやされる。理解する人は少ないのに、なぜか支持者は多い。しかし彼女は、そうした周囲とのズレを、すべて受け入れる。「女だから」と彼女は言う。誰よりもおとななのに、いつも周りを煙に巻かずにはいられない彼女にとって、どうやらズレは自作自演のようである。

カラオケで歌える3-4分ほどの曲を作っている自分が、クリエイターと呼ばれるのはおこがましいと、彼女は言う。が、それは彼女独特のこだわりだ。クリエイターという称号すら受け入れ不可能なのが椎名林檎なのだ。しかし、だからこそ、彼女の胸のすくような完璧な音楽がある。永遠に朽ち果てることのない、椎名林檎の粋な世界があるのである。

レクイエム

去る1116日、ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏で、モーツァルトのレクイエムを聴いた。周知の通り、レクイエムはモーツァルト最後の、そして未完の作品である。彼の死後、弟子のジェスマイヤーが補筆完成させたが、どこまでがモーツァルトの作であるか、永年議論の的となり、演奏者によっても、その解釈に大きな違いがある。かつて斬新な解釈により人々を驚かせたアーノンクールが、円熟期を迎えて、どのような演奏を聴かせてくれるかは、大きな関心を集めた。

レクイエムの冒頭の「入祭唱」と「キリエ」は、ほぼモーツァルト自身の手で完成されており、誰しも最も思い入れの強い部分だが、アーノンクールの演奏は意外にも淡々と抑え気味に始まった。しかし、続く「怒りの日」が激しい調子で始まると、音楽は一気に熱気を帯びる。クセが強いと言われるアーノンクールだが、手兵のコンツェントゥス・ムジクスによる贅肉をそぎ落とした演奏は、鮮やかにモーツァルトの意図を浮かび上がらせていく。その崇高な透明感に、次第に心を洗われるような感動が全身を貫いていった。ジェスマイヤーの補筆が増える後半部に入ると、多くの演奏が光を失うようにトーンダウンするのだが、アーノンクールの気合は全く衰えない。奉献唱の「主イエス・キリスト」の、沸き立つような生命力には、新鮮な驚きに打たれた。少なくとも演奏を聴く限り、アーノンクールはこの曲を完成された曲として弾き切っていた。

アーノンクールは、演奏に先立ち、次のように言っている。「モーツァルトにおいては、生活は音楽に何ら影響を与えなかった。10歳にして、人類に与えられたあらゆる感情を音楽で表現することができた彼は、たとえ母の死のような大きな不幸に直面したときでも、何事もなかったかのように作曲を続けた。しかしレクイエムにおいてだけは、彼は初めて自分の心を音楽に託したのではないか」、と。モーツァルトの生活における諸々の事件は、彼の心に感情を引き起こす前に、まず音楽の主題となって現れた。それはすぐに音楽的な必然性に突き動かされ、縦横無尽に展開された。そして、周りが悲しんでいるときに、彼の心はすでにフィナーレを駆け抜け、晴れやかな笑顔を見せられたのである。しかし、そんな彼にとっても、やはり自らの死は特別なものだったのだろうか。果たして彼は、この曲で自らの魂の安息を願ったのだろうか。

死に対して異常に敏感だったモーツァルトは、音楽的に人生の頂点にありながら、もはや避けられない自らの死を悟り、残る命のすべてを注ぎ込んだ。そんな曲を、死ぬ前に都合よく完成させられるはずはなかった。まさに未完であることこそが、このモーツァルト最後の作品の完成された姿なのである。

毎日モーツァルト

今年はモーツァルトの生誕250周年である。NHKではそれにちなんで、「毎日モーツァルト」という番組をやっている。文字通り、1年を通して毎日1曲モーツァルトの曲を紹介していく番組である。当初は110分ではどんなものかと思ったが、毎日毎日、モーツァルトの曲が、その頃の生活とともに淡々と紹介されていくのを観るうちに、いつの間にか自分のなかに今までとは違ったモーツァルトが棲み始めているのに気が付いたのである。

ベートーヴェンやバッハの音楽は、彼らの人格と良く釣り合いが取れているように見える。しかしモーツァルトにおいては、その偉大な作品に比べ、あまりその人物像が浮かび上がってこない。永年の間にモーツァルト愛好家は、彼の音楽に対し、「完璧な調和」「無限に溢れる楽想」といったレッテルを貼り、彼を人智を超えた超人的な存在として崇めてきた。音楽の神童に、いつしか肉体は似合わなくなってしまったのである。

しかし、「毎日モーツァルト」における彼は、まさに生身の人間である。故郷のザルツブルクを飛び出し、職探しに奔走する彼は、今か今かと朗報を心待ちにする。職に就けない彼は、遂に恋人のアロイジアにも振られてしまう。父へ手紙を書くことすらできないほど落ち込むモーツァルト。そこには、傷つきやすく、しかし決して自らを偽ることのない、まさに彼の音楽そのもののような人間が横たわっているのである。

1887年、彼は大きな不幸に見舞われる。妻のコンスタンツェとザルツブルクの父の元に息子の誕生を報告し、ウィーンに戻ってきたときのことである。乳母に預けてあった幼い息子が、その旅の間に死んでいたのである。驚くべきことに、あの明るいK333のピアノソナタは、その直後にかかれたものらしい。番組で静かに流れ始めた第2楽章に、僕の心は惹き付けられる。

方向性のない主題は、まるで茫然としたモーツァルトの心を映しているようだ。穏やかだが、何かを回想するかのようなメロディーが胸をつまらせる。一瞬、曲は淀み、突如として抑えがたい激情がほとばしり出る。が、すぐにそれを振り払うように、音楽は再び前に進み始める。あたかも幸福は常に悲しみと隣りあわせであり、しかし、どんな悲しみも新たな希望への始まりだと言い聞かせるように。

モーツァルトの音楽の最大の魅力、それは、あらゆる苦労も美談も、その前ではわざとらしく見える程の、彼の音楽の説得力にある。しかし、それは空想の中で生まれたのではない。キリストに肉体があったように、モーツァルトという一人の人間がいたからこそ、彼の音楽がこれほど多くの人の心を動かすことができるのである。

K333

昨年はモーツアルトのK333のピアノソナタの1楽章に、丸1年かけて取り組んだ。この曲は、かつて二十歳の頃、「何としてもピアノを弾きたい」と思わせた曲である。8年前にピアノを習い始める以前にも、何度か自分で練習したことはあったが、我流で弾けるほど簡単な曲ではない。習い始めてからもすぐには手が出せず、ちょうど1年前に、M先生に付いたのをきっかけに、この曲にチャレンジすることにした。とうとうこの曲をやるのか、と思うと感無量だった。M先生はそんな僕の強い思い入れを汲み取りながら、優しく丁寧に、そして粘り強く付き合ってくれた。残念ながら、先生は出産準備のため、昨年いっぱいで休職されることになってしまったが、他でもないK333のソナタをM先生に見てもらえたのは何よりも幸運だった。

あるとき、再現部をどう弾くかが問題になった。この曲では、提示部においてしばしばモーツァルトが見せる、第1主題から第2主題にかけてのめまぐるしい転調は鳴りを潜め、調の移行は単純で、非常におおらかである。逆に、再現部において、主題間の転調がないにもかかわらず、なんともいえない微妙な心理的な効果を生み出していて、ソナタ形式の可能性を追求するモーツアルトの挑戦が見えてくるのである。

この曲の練習を始めてから、永年聴いてきたピリス(マリア・ジョアオ・ピリス)のCDを何度も繰り返し聴いた。しかし変なもので、自分が練習している曲を聴くと、演奏の技術や表現、曲の解釈などを必死に追うあまり、演奏を楽しむことを忘れてしまう。かつて、僕の心を大きく揺り動かし、その残響が30年を経た今でも消えることのないこの曲の魅力はこんなものではなかった。レッスンも最後の数回となったとき、かつて僕のなかにあったこの曲の魅力を、なんとか先生に伝えておきたいと思った。そこで、一旦演奏を忘れ、心が動かされるままにピリスの演奏に耳を澄ませてみた。すると、突如、メロディーが天上の妖精のように軽やかに踊り始め、かつてのイメージが蘇ったのである。同時に、この1年間、どう弾けばいいのか悩むことが多かったが、自らの心の中にあるヴィヴィッドな感動があってこそ表現に集中できることがわかったのである。最後のレッスンの日、そのイメージを心に描いて弾くと、先生もなんともいえぬ表情でうなずいてくれたのだった。

こうしてM先生とともに学んだこの1年の体験は、その時々の試行錯誤がそれぞれ有機的に結びつき、あたかも一つの作品のように鮮やかに僕の心に残った。そして、K333のソナタがそうであるように、いつも優しく、小気味よく語り掛けてくるのである。