記憶の不思議な世界

 最近、テレビでは記憶力を競いあうクイズ番組が真っ盛りだ。視聴者はそれを見て「やっぱりT大出は頭が良いな」などと感心する。記憶力に優れた人が頭が良いというのは社会的な常識であり、誰もが自分の記憶力がもっとよかったらと思ったことがあるに違いない。

 コンピューターの登場以来、人間の記憶はあたかもデータのように脳のどこかのメモリーに蓄えられているかのようなイメージが定着している。だが、実は脳のどこを探してもそうした記憶の痕跡は見つからない。記憶のメカニズムはいまだに謎に包まれているのだ。

 今、自分の意識を探ってみる。すると先ほど飲んだコーヒーの味、朝見た抜けるような青空、あるいは去年の今頃のことが思い出される。それらは特に思い出そうとして思い出したものではない。記憶というのは決してクイズや試験に応えるためだけにあるわけではなく、われわれの意識を形成するベースとなっているのである。われわれの脳には膨大な記憶が眠っており、そのなかで何らかの理由で表面に現れたものが意識として認識されているのだ。

 記憶は創造の源でもある。芸術家が何かを発想する時、けっしてそれは無から生み出されるわけではない。脳裏に蓄えられた様々な記憶が芸術家の独創性により絶妙に絡み合うことで新たな発想が生み出されるのだ。

 記憶は常に変化している。しばらく前の自分の写真を見て、当時はこんなに若かったのかと驚くことがあるだろう。辛い思い出が時を経ることによりいつしか良い思い出に変わることも珍しくない。過去の記憶は新たな体験により常にリニューアルされているのだ。

 そうした記憶は正にその人の人生の証でもある。同じ体験をしても人によって印象が異なり記憶も違ってくる。記憶はその人の物の見方、感じ方、そして生き方を反映しているのだ。つまり、人格を形成しているのは記憶だと言っても過言ではない。 

 われわれの頭脳には人生で蓄えた膨大な記憶が眠っている。確かにその中には人の名前の情報もあり、時としてそれを思い出さなければならない場合もあるだろうが、記憶をそのためにだけ使うのはあまりにももったいない。

 同窓会で昔話に花を咲かせる時の楽しさは格別なものがある。だが、当時、楽しいことばかりあったわけではない。時とともに記憶が熟成し変化しているのだ。そうした記憶の不思議な世界をもっと楽しんでみてはどうだろうか。

自分との出会い

 先日、将棋の藤井聡太7段が史上最年少で8大タイトルの一つ棋聖位を獲得した。だが、コロナウイルスが流行り始めていた頃、その実力はすでに一流だと誰もが認めていたが、強豪ひしめくタイトル保持者からの奪取となるとそう簡単ではないと思われていた。今回の勝利の原因について藤井棋聖自身は、コロナによる対極自粛期間中に自分の将棋をじっくり見つめ直すことができたことが大きかったと述べている。

 それを聞いて自分でも思い当たるところがあった。2月に母が亡くなり頻繁に名古屋と東京を行き来する生活が終わると入れ替わるようにコロナによる自粛が始まった。予定していた行事はことごとく取りやめになり、人との交流もパタリと途絶えた。

 だが、そうしたある日、ふと自分の肩が軽くなっているのに気がついた。それまで特に不安や憂鬱を感じながら暮らしてきたつもりはないが、どうやら普段の生活の中にもさまざまなストレスが隠れていたようだ。コロナのような大きな環境の変化がなければ、ずっと気づかなかったことだろう。

 さらにしばらくすると、まるで深い湖の底にゆっくり横たわっているかのように自分の心が静かになっているのに気がついた。自分が感じていることを手にとるようにはっきりと意識することができる。

 それまで意識と心の間に挟まっていた何か目に見えない板のような障壁が急に取り払われ、自分の心に直接触れることができるようになったような感じだった。僕は何か非常に大切なものを見つけたような気がした。同時にそれまで心の中にあった漠然とした不安感も薄れているのに気がついた。

 人はいつも安心を求めている。何か少しでも心配なことがあればそれに備えようとする。いい大学に入ろうとするのもお金を貯めようとするのもそのためだ。それによって心の中から不安を取り除こうとする。だが、老いや死などのような不安はそうした保険をかけても解消しない。消そうとすればするほど不安は増すばかりだ。

 心が静かになって不安が薄らいだのは、そこに何ものにも替えがたいものを感じたからだ。人生で大切なことは、成果を出して人に認められることでも不安を解消することでもなく、自分の心と触れ合い感じることではないのか。生きるというのは実は自分との出会いではないのか。

 ソーシャルディスタンスがとやかく言われている昨今だが、自分との距離ならいくら縮めても構わないだろう。人生において、今、コロナ禍に見舞われるのも何かの運命だろう。これを機に自分と静かに向き合って行きたい。

遺伝子スイッチと「意識」

 以前、『「意識」は何のためにあるのか』というエッセイを書いたことがある。生物の最小単位である細胞にはわれわれのような高度な「意識」はないだろうが自力でしっかりと生きていける。一方、高度な「意識」を持つわれわれは、飲酒やダイエットなどで肉体を痛めつけたり、時には戦争を起こして命を落とすこともある。脳によって生じる「意識」は生物にとって果たして本当にプラスになっているのだろうか。

 ところが最近、遺伝子スイッチというものの存在を知り、意識の役割について改めて考えさせられることになった。

 これまで遺伝子には、生命活動のためのあらゆる情報が含まれており、生物は一生その情報にしたがって生きていくしかないと考えられていた。ところが最近、遺伝子にはいくつもスイッチがあって生活環境によってそれがオンになったりオフになったりするということがわかってきたのである。つまり自分の遺伝情報は常に変わっているのだ。

 生活は意識的に変えることができるから、人は自分の意識によって遺伝子のスイッチをオンオフし、人生を遺伝子レベルで変えられる可能性があることになる。われわれは親から受け継いだ遺伝子情報に生涯支配されるわけではないのだ。

 従来、進化というのは遺伝子の突然変異により起こると考えられてきた。だが、遺伝子スイッチがあれば誕生以降も生物の遺伝子の働きは変えられ、言わば生まれてからも進化できるということになる。もし、自分の子供が誕生する前に意識的に自らの遺伝子を進化させておけば、自分の子供に進化した遺伝子を受け継がせるということもあり得るのだ。

 さらに想像を広げれば、個人の進化は社会の進化を促すことにもなり得るだろう。社会の変化に遺伝子が関わってくるのだ。そして意識の力で遺伝子に引き起こされた進化は、今度は逆に意識自体にもフィードバックされるだろう。人類の急速な進歩を可能としたのは、遺伝子スイッチによるそうした進化の仕組みが関わっているのかもしれない。

 もともと単細胞生物といえども無生物とは異なり何か意識的なものを感じさせる。だが、そのレベルでは意識はまだ遺伝子スイッチの状態に影響を与えることはできなかったのではあるまいか。しかし、進化により脳が発達し「意識」が生まれると、われわれは自らの周りの環境を意識的に変えることができるようになり、その結果、遺伝子スイッチのオンオフに「意識」が関与するようになって来たのではないか。

 もし、そうであるとすれば、「意識」は単に人間的な行動の源となっているだけでなく、生物の進化を担っているのではなかろうか。これまで進化は偶然の突然変異によって引き起こされ、そこには「意識」が関与する余地はないとされて来たが、実は意識と進化は密接に結びついているのではないか。

 遺伝子スイッチについてはまだ研究が始まったばかりで、あまり想像を逞しくするのは良くないかもしれない。今後の研究の進歩を冷静に見守りたい。

自分の意識と他人の意識

 子供の頃、腑に落ちないことがあった。脳があるから意識があるというが、それではなぜ自分の意識は自分の脳に宿り、友人のF君の脳には宿らないのだろうか。

 我々は各自自分の意識を持っているが、他人に自分と同様の意識があるかどうかは実は確かめようがない。他人にも意識があるというのは我々の勝手な想像なのだ。科学的な立場からすれば、他人の行動を理解するためには必ずしも意識などというものを持ち出す必要はなく、単に脳の発達した生物としての客観的な振る舞いを解析すればよい。

 人間にせよ猫にせよ、あるいはミミズにせよ同じ多細胞生物だ。脳が発達するほど、その行動は複雑になり、どこかの段階であたかも意識を持っているかのような行動をするようになる。脳がどうやってそんな複雑な行動を可能にしているのかは未だに神秘に包まれているが、800億個もある脳細胞から突き出した軸索が複雑に絡み合いことで膨大なネットワークが形成され、それが外部からの刺激に反応することで肉体にさまざまな指示を出す。それによる行動が、他者から見ればあたかも意識があるかのように見えるのだ。

 他人の行動に意識を感じるのは我々の想像に過ぎないが、自分の意識については事情が全く異なる。自分には明確に意識がある。自分の脳とはいえ脳はあくまで客体である。客体である脳が、一体どうやって主体としての自分の意識を生むのだろうか。

 気分が鬱のときは脳の状態はこうだというように、自分の意識と脳の状態の間に密接な関係がある。将来は脳の状態を調べることにより、あなたの満足度は何%、あなたの怒りは何ポイントというように自分の意識の状態を数値化できるようになるかもしれない。

 だが、いくらそんなことをしても自分の意識がどうやって生まれるのかを説明することは出来ない。自分の感覚、自分の感情といったものは客観的に表した途端、この自分が感じている感覚とは全く別物になってしまう。主体を客観的に取り扱うことは本質的に不可能なのだ。

 客観的に扱えない以上、物理的な対象にはなり得ない。つまり、自分の意識は物理的には存在しないと言わざるを得ない。だが、自己として意識は確かに存在する。この矛盾を解決するためには、自己意識は物理的世界とは別の世界に存在すると考えるべきではないだろうか。別の世界とは言っても、それはむしろ我々が勝手に物理的世界だけを世界だと考えているからであって、客観的に取り扱えるものだけでこの世界を理解しようとすることにそもそも無理があるのだ。

 生まれた時から今の自分のような意識があるわけではない。意識は次第に言葉を身につけ、豊かな感情を育み、さまざまな思考を巡らすようになるが、これらは人との関わりのなかで形成されて行くものだ。自分の肉体を介して物理的世界とつながり、さらに多くの人との交流を通して次第に成長する。一言で自己意識と言っても、非常に複雑で曖昧な関係性の上に成り立っているのだ。

「意識」は何のためにあるのか

 生物は進化によって脳を発達させてきた。脳の発達とともに、そこに生まれた「意識」も高度になり、おかげで人類は芸術を生み、科学を発展させ文明を築いてきた。こうした知的な進歩も自然淘汰の結果なのか。あるいは「意識」が絡む別のプロセスなのだろうか。

 近年、脳の研究が進み、脳のどの部分が感情や知覚に関わっているかというようなことは急速にわかってきた。だが、脳がどのように「意識」を生み出すのかという肝心のところは全くわかっていない。記憶についても永年研究されて来たが、未だに脳内に記憶の痕跡は見つかっていない。物理的観点に立てば、脳内に存在するものは物質か電気信号しかない。脳はそれらを使って「意識」を生み出しているのだろうか。

 人間のような多細胞生物は、何十兆個もの細胞がそれぞれ自分の役割を果たしながら互いに連携して個体を形成しているスーパーシステムだ。何か食べれば胃や腸で勝手に消化吸収され、その栄養は全身の細胞にくまなく運ばれる。その仕組みは気が遠くなるほど複雑で巧妙だが、我々は何も指示する必要はない。体が全て勝手にやってくれるのだ。そもそも体のなかで「意識」がコントロールできるのは、せいぜい一部の筋肉くらいのもので、細胞一つ一つはおろか、内蔵も思うようにはならない。もともとスーパーシステムは「意識」などなくても十分やっていけるのだ。

 むしろ発達した「意識」は、肉体にとってかなり厄介なしろものだ。ダイエットを「意識」する女性は体に必要な栄養を十分取ってくれない。酒好きは飲み過ぎて肝臓を痛める。「意識」がやることは、肉体にとってはマイナスである場合が多い。

 もちろん「意識」は肉体を無視して勝手に振る舞えるわけではない。体が栄養の供給をもとめれば空腹感を覚えるし、病気になれば苦しみに耐えなければならない。肉体から「意識」へのフィードバックだ。「意識」は肉体に対して指示を出すが、同時に肉体の状態を常に「意識」させられてもいるのだ。「意識」が自らの欲望を満たそうと肉体を最大限利用するためには、自分の棲む宿主が滅びないように自重する必要があるわけだ。

 「意識」は目や耳をつかって知覚し、さらに脳を使って思考し、判断し、手足を動かして行動する。一方、肉体はそうした「意識」を牽制しつつ、自らは生命システムの管理下で淡々と生きている。こうした「意識」と肉体のやり取りは、脳を含む神経系により媒介されている。おかげで両者は互いに異なる目的を持ちつつも共存しているのだ。

 肉体は老化とともに衰え、やがて死ぬ。だが、それは生命システムに最初からプログラムされた予定通りの成り行きだ。生物は子孫を残せばひとまず目的を達成したといえる。

 一方、「意識」は肉体が衰えた後も、それをも糧としてさらに成長を続けようとする。それは、次の世代に出来るだけ多くのものを伝えようとするためだろうか。あるいは、肉体の死後、「意識」は肉体から離れざるを得なくなるため、それまでに出来るだけ肉体を利用して自らを高めようとしているのだろうか。

意思を育むものとしての生命

 生物を特徴づけるものに合目的性というものがある。ヒラメの表面が海底の砂地とそっくりの模様に変化して自分の身を守ったり、楓の種がヘリコプターのように宙を舞ってできるだけ遠くまで自分を運ぶ巧妙な仕組みを見ると、あたかもそうした生物達は、生存に有利になるように自らの「意思」でそうした機能を身につけたように見える。

 しかし、脳のない楓に果たして「意思」などあるだろうか。もし「意思」があったとしても、自分の体を改造することなどできるのだろうか。もとより進化論は、そうした「意思」を真っ向から否定する。あくまでも突然変異によりある機能を備えるに至った生物が、たまたま他の生物に比べて生存に有利であったがために生き残ったというのが進化論の主張である。現代の分子生物学も進化論の主張を裏付ける。遺伝やたんぱく質合成の仕組みなど、細胞内で起こるさまざまな現象はすべて物理化学的に説明でき、そこに何か物理法則を超えた「意志」のようなものが介在する証拠も必要性も見つかっていないのだ。

 だが、このような進化論や分子生物学の考え方を延長していくと、人間の行動にも「意思」が入り込む余地はないということになる。シェイクスピアがマクベスを書いたのも、アインシュタインが相対性理論を創り出したのも、単なる物理法則の結果ということになる。もちろん、脳の発達した人間の行動は複雑だ。だが、脳といえども細胞からなり、その働きは物理的な原理に従っているはずであり、そこに「意思」が介入する余地はない。人の行動が「意思」によるものであるかのように見えるのは、それを見た人がそう感じるからであって、「意思」という何か実体があるわけではない。人間の「意思」も楓の「意思」も、そういう意味では変わりはないのだ。

 では、自分の「意思」はどこから来るのだろうか。自分はさまざまなことを「意思」によって決めている。時には不屈の努力を続け、苦渋の決断をしているではないか。しかし、客観的に見れば、そうしたことも脳細胞の働きによるということになり、「意思」の出番はない。自分の「意思」を客観的に導き出すことはできないのだ。客観的に導き出すということは原因と結果の問題になることを意味し、そこに「意思」が入り込む場所はないのである。従って、自分という生命がある限り自分に「意思」があると無条件に認めるしかない。

 人は生命に対して特別の思いを持っている。「生きている」という言葉には、科学を超えたものが感じられる。それどころか、科学と相反する響きすらある。それは、「生きている」ということが「意思」と密接に結びつき、生命を単なる客観的な対象から区別しているからに他ならない。

 近年、分子生物学の進歩に伴い、生命の研究はますます分析的になりつつある。しかし、「意思」を育むことが生命の本質であるとすれば、ますますその本質を遠ざけることになる。分析全盛の今こそ、「意思」を見直すことが求められているのではないだろうか。