巨大エネルギーの解放

プレートが蓄えた膨大なエネルギーの解放が3・11の巨大地震を引き起こしたが、日本を襲う巨大なエネルギーは地震だけではないようだ。

このところ世界中であまりいい話は聴かない。アメリカ発の経済危機から回復する間もなくヨーロッパではギリシャやポルトガルなどの財政危機問題に直面している。エジプトを始めアラブ諸国でも次々と革命により政権が交代し時代の転機を迎えている。これまで好調だった中国経済も、物価の高騰、格差の急拡大で先行きに陰りが見え始めている。こうした世界の動きは、一見ばらばらに見えるが、実は資本主義市場の巨大エネルギーの解放によって引き起こされているのだ。

そのきっかけとなったのは、22年前の東西冷戦構造の終結である。冷戦の終わりは新興国台頭の幕開けとなった。中国を例に取れば、改革開放が一気に進み、堰を切ったように外資が流入し、瞬く間に世界の工場に登りつめた。中国の安い人件費を求めて先進国が押し寄せたのである。冷戦によって堰きとめられていた資本主義の巨大エネルギーが一気に解き放たれたのだ。

その余震は未だに収まる気配を見せていない。資本主義のエネルギーは、富を求めて世界中の新興国に流入し続けているのだ。その勢いはあまりに強く、もはや国家の統制を越えている。グローバル化といえば聞こえはいいが、制御不能の暴走なのだ。

企業は1つの国に縛られる必要はない。市場、労働力、資金、いずれを得るにも世界中の最も適した場所を選べばよい。しかも、日産やソニーのようにトップが外国人になり、さらに将来、本社機能も海外に移転することになれば、もはやその企業の出身地がどこであるかは重要ではない。企業は多国籍化し、世界を舞台に最も利益が上がる体勢を模索するのみである。企業の世界地図と国家の世界地図ではすでに大きなズレが生じている。

国家は法によって国を治めようとするが、その運転の原資となる税金は企業が稼ぎ出した利益だ。その企業が海外にどんどんシフトして行けば、税収は減り国力は弱まっていく。この15年ほど日本のGDPが全く延びないのは、企業の海外シフトの顕著な表れだ。とはいえ、税収を増やすために増税すれば、海外流出はさらに加速する。社会保障を国債でまかなうしかない日本は、すでに国家としては機能不全に陥っている。

企業は企業で、グローバル化した経済の中でかつてない厳しい国際競争に晒されている。油断すればあっという間に倒産の憂き目にある。今後、事業の海外移転はますます加速していくだろう。国内でも正社員は姿を消し、派遣社員が急増するに違いない。

今回の震災は、奇しくも政府の弱体化を露呈し、企業の海外シフトを加速させている。だが、これは日本だけの問題ではない。新興国の成長が一段落し、競争力が落ちてくれば、厳しい競争も少しは和らぐだろうか。いずれにせよ、国や企業に頼った価値観だけでは、これからの世界を生き抜いていくことは難しそうだ。

 

日光沢温泉

旅行で同じ場所に何度も訪れることはなかなかないものだが、その数少ない例外の一つが日光沢温泉である。鬼怒川の源流域に位置する秘湯で、女夫渕温泉で車を降り、川沿いを2時間ほど歩いて行く。途中、八丁の湯と加仁湯があるが、この両者は林道を利用したバスでの送迎があるため、徒歩でしか行けない日光沢温泉とは全く客層が異なる。

最初にここを訪れたのは、もう20年以上も前の5月初旬だ。その時の目的地は日光沢温泉ではなく、その先の鬼怒沼という高層湿原だった。家内と二人で雨の中、テントを担いで雪道を3時間ほど登って行ったが、湿原にはテントを張る場所がなく、避難小屋に泊まることになった。その晩、上空を前線が通過し、ものすごい風が一晩中鳴り止まず、真っ暗な中、2人だけで不安な一夜を過ごした。

夜が明けても、まだ猛烈な風が残っていた。しかし、おそるおそる外に出てみると、そこには息を呑む光景が広がっていた。真っ青な空に白い雲が切り裂かれるように千切れ飛び、周りを雪に縁取られた湿原が朝日の中でこの世のものとは思えないきらめきを見せていた。湿原の向こうには、頂上付近に雪煙を舞い上がらせる「日光白根」が迫り、振り返れば、尾瀬沼の主「燧ヶ岳(ヒウチガタケ)」が、まだ深く雪に閉ざされた尾瀬の静寂を守るようにじっと佇んでいた。

美しいといわれる鬼怒沼でも、これほど美しさを見せる瞬間はそうはないだろう。それを妻と二人で独占している。感動が何度も全身を貫いて行った。

その時のような絶景は望めないが、その後、日光沢温泉に来るたびに鬼怒沼に登っている。ここの魅力を全身で味わうためには、鬼怒沼まで汗をかくことは不可欠なのだ。

日光沢温泉を切り盛りされる若いご夫婦のサービスは誠実かつ意欲に溢れており、独自の充実感を与えてくれる。登山で適度に疲労した体を温泉に浸し、掃除の行き届いた板の間の廊下を裸足で歩くと、足の裏から気持ちよさが全身に広がっていく。小屋付近で採れた山菜と岩魚を使った料理は野趣に溢れ、素朴だが滋味があり、全身に命を吹き込んでくれる。かつては辺りを散策したり渓流釣りもしたが、最近は鬼怒沼に登る他は何もせず、ここでゆっくりするのが最高だと悟った。

最近、若いカップルも目立つが、猛者もいる。風呂場で一緒になった60過ぎのお年寄り。金精峠から根名草山を越えて来たという。「雪が多くて大変だったでしょう」と聞くと、道に迷って一晩ビバークしたという。全く、命知らずもいたものだ。したたか酒を飲みながら、「カモシカの肉は牛のような味がするんだよ」と上機嫌で話してくれる「マタギ」の斉藤さんも常連の一人。唖然とするような話には、自然と共に生きるパワーが溢れている。

夜も更け、天の川を見上げながらぬるめの露天風呂にゆっくり浸かると、すぐ下を流れる沢の音にけだるさを誘われ、次第に心地良さに包まれて行く。

日光沢温泉は、訪れるたびに魅力が増す不思議な場所なのである。

自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

 

原発事故が迫るもの

 福島の原発事故が発生して数日後、友人から、「原発は、スイッチを切ればすぐに止まると思っていた」という声を聞いて驚いた。多くの人が原発の危険性をあまり認識していなかったのだと改めて思い知らされる気がした。

原発では、ウランの核分裂によって熱を発生させる。核分裂の際、ウランの原子核は二つの原子核に分かれる以外にいくつかの中性子を放出する。その中性子が他のウラン原子核に当たり吸収されるとその原子核も核分裂を引き起す。さらにその際発生した中性子が他の原子核の分裂を引き起し、反応は次々と連鎖的に起こるようになる。このような連鎖反応が一気に起これば原子爆弾となるが、原発ではウランの濃度を5%程度(原爆では90%)に抑えることで、緩やかに連鎖反応を起させている。

こうした連鎖反応はスイッチを切っても止まらない。時間をかけて核燃料の中に制御棒を差し込み、中性子を吸収してしまう必要があるのだ。しかも、制御棒を差し込んでも熱の発生はすぐには止まらない。連鎖反応は止まっても、ウランの核分裂によって生じた不安定な原子核がさらに核分裂して熱を出し続けるからである。もし冷却をやめればたちまち温度が上がり核燃料は溶けてしまう。今回の事故では、なんとか連鎖反応は止められたが、その後の冷却機能が働かず、核燃料の一部が溶けたと考えられている。

原発事故が他のプラントなどの事故と全く異なるのは、放射能(放射性物質)が相手だからである。放射能が発するガンマ線を防ぐには10cm以上の厚さの鉛の壁で身を包まなければならず、現実的には不可能だ。従って、もし施設周辺の放射能がある限度を越えれば、人間は全く原子炉に近づくことができなくなり手の施しようがなくなる。

今回の事故は、従来から指摘されていた津波の危険性を無視したために起こった人災だと糾弾する声が多い。確かに、それは問題だろう。しかし、どのような対策を講じようが、絶対に安全な原発などどこにもない。9.11にニューヨークを襲った旅客機によるテロ攻撃にもびくともしない原発などありえようか。原発事故は常に起こりうる。そして、一旦、事故が起こってしまったら、世界中が放射能に汚染される恐れがあるのだ。原発事故が人災か否か以前の問題として、原発を造ること自体が人災なのである。

では、人類はこれまで、なぜそんな危険な原発を造ってきたのだろうか。電力を安く安定的に供給することは、一国の経済の根幹に関わる重大事だ。原発は自国の経済的な優位性を確保するための重要な手段の一つなのだ。原発の危険性を指摘する声は、そうした経済的優位性の前に退けられてきたのである。これは日本だけの話ではない。世界中が自国の経済的利益のために原発の危険性から目を背けてきたのである。

しかし、これを機に世界中で多くの人が原発の危険性を再認識したに違いない。そして、生命より経済を優先する愚かさに気づいたに違いない。今こそ正常な価値観を取り戻し、脱原発を図らなければ、いつか必ず致命的な事態が起こるに違いない。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。