中国の経済構造・私論

 歩道に面した軒先で、肉まんや野菜まんを蒸かすセイロから美味そうに湯気が立ち上る様は、上海の街中で毎朝見られる光景である。そうした点心の類は、いずれも手抜きのない本場の味だが、一個およそ0.7元(=約10円)。一方、市内のいたるところで見かけるスターバックスコーヒーは、一杯20元(約300円)以上。実に肉まん30個分である。

 上海で働く人たちの平均月収は45万円だといわれている。しかし、外資系の企業に勤める部長クラスのサラリーマンでは、年収4500万円(夫婦合わせればその2倍)の人も珍しくない。彼らは、150㎡以上の高層マンション(34000万円)に住み、大型のプラズマディスプレーでサッカーを楽しみ、大抵は外車を2台は保有している。もちろん家事は家政婦任せである。こうした人々は、店先の肉まんを食べることなどめったにない。

 そうした富裕層は、近年の中国経済の急成長の賜物だが、その急激な成長を支えているのは、低所得層の安い労働力である。上海あたりでも、地方の農村からの出稼ぎの人などは、月に1万円以下で生活していることも珍しくない。上海のような大都会で、なぜそんなに安い賃金で生活が成り立つのだろうか。日本と根本的に異なるのは、中国では田舎に行くほど物価も賃金も急速に安くなるということである。大都市には、そうした田舎から、安い食材や衣料品などがいくらでも入ってくる。だからジューシーな肉まんが、わずか0.7元で食べられるのである。住居に関しては、社会主義の中国では最低限の補償がある。贅沢さえ言わなければ、大都会でも1万円で十分生活していけるのである。

こうした都会の人々の生活を支える田舎の人たちの収入はさらに低い。しかし彼らも、自分達と同等以下の収入の人たちが生産したもので生活している限り、十分豊かに暮らせる。確かにスターバックスコーヒーや海外ブランド品には縁がないかもしれないが、彼らはそもそもそんなものには関心がない。こうして遡っていくと、最後に、自然の恵みによって農耕し、家畜を養って生活する人々に行き着く。果たして彼らは貧しいのであろうか。それは彼ら自身に聞いてみないとわからないが、「中国経済は一部の富裕層を支えるために、多くの貧乏な人が犠牲になっている」と簡単に決め付けることはできないのである。

現在の中国の経済発展は、確かに安い労働力なしでは成り立たない。従って、13億の国民すべてが、アメリカ人並みの生活レベルになることは、当面はあり得ない。しかし、そもそもそれは必要なことだろうか。現在の富裕層と呼ばれる人たちが、その賃金格差と同じだけ幸福な暮らしをしているかどうかは疑問である。豊かさは必ずしも資本主義的な尺度だけで計ることはできない。社会主義を保ちつつ、急速に資本主義を発展させる中国は、本質的な豊かさを目指して、壮大な実験を進めているのであろうか。

宇多田ヒカル研究

先日、筑波大学の帰り、秋の気配が迫り来る広いキャンパスをバスが抜け、開通したばかりの筑波エクスプレスのエントランスに立ったとき、ふと、宇多田ヒカルの「ディープリバー」を口ずさんでいる自分に気がついた。自分が無意識に口ずさむメロディーが、案外その時の心理状態を絶妙に言い当てていて、なるほどと手を打つことは珍しくない。ところがその時は、この曲が湧き上がらせる独特の印象が鮮やかに心に残っているのに、なぜそれを口ずさんだのか、うまく言葉で説明できないのである。

オートマティックなどの大ヒット曲を擁した彼女のデビューアルバム「ファーストラブ」が、あまりにもセンセーショナルだったため、宇多田ヒカルというと未だにこのアルバムを思い浮かべる人も多いが、彼女の音楽はその後も止まることなく進化を続けている。そして彼女が結婚した19歳のときに発表された3枚目のアルバム「ディープリバー」で、彼女の新たな才能が花開くことになるのである。

もとより彼女の音楽の魅力はその即興性にある。しばしば見せる急激な音程の立ち上がりは、ノリに任せたアドリブでなければ決して出てこない。それがまた、彼女の音楽をポップでおしゃれに仕上げてもいるのである。「ディープリバー」ではそれがさらに進化して、それまでなかなか感情について来なかったメロディーが、彼女の心の叫びを自在に歌い始めたのだ。強力な磁場のように聴くものを捕らえて離さないそのメロディーは、宇多田ヒカルという個性と何度も共鳴して生まれたものなのだ。

恋に破れ、傷ついてもなお、その恋のときめきを否定しない。喜びも絶望も、恋であり人生なのだ。彼女の歌は、悲痛ななかにも常に前向な意思を見せる。傷ついた瞬間も、幸福をあきらめることはないし、幸福の絶頂に潜む不安のなかでも、堂々と胸を張り、前を見続ける。それは強がりでも負け惜しみでもない。幸福とか不幸とかいうものは、決して到達点ではないのだ。自分を信じ、時に自分を励まし、前を見て進む。彼女の歌は、常にそんな響きに包まれている。

陰と陽が絡み合う彼女の音楽は、聴くものの心の深い部分に入り込み、眠っていたものを呼びさまし、予想もしなかった感情を引き起こす。それは懐かしさにも似ているが、決して感傷的ではない。言葉にならないのは、むしろ当然なのかもしれない。

もっとも、この天才歌姫にとって、自分の歌の面倒臭い分析などどうでも良いに違いない。彼女の目は未来を見つめている。そんなの当たり前ジャン!彼女は、ポンと肩を叩いて走り去っていくだろう。頑張って!と言い残して。

心の住みか

 10年ほど前に家を建てようと思ったことがある。どうせ建てるなら、山から自ら材木を調達し、とにかく無垢の木と石をふんだんに使って、自然素材に抱かれる家にしたいと思っていた。しかしこの計画は、処事情により宙に浮いてしまい、結局、今だに賃貸マンション暮らしを続けている。すでに土地があることもあり、ずっとマンションを買うことなど考えたことがなかったのだが、最近、この十数年の間に払った家賃が馬鹿にならないことに気が付き、ふと、中古の分譲マンションでも探してみようかという思いが浮かんだ。試しにインターネットで検索してみると、案外、手の届きそうな物件がちらほらある。さっそく不動産屋さんに頼んで、いくつかの部屋を見せてもらうことにした。

 家族で住む家は、僕一人の一存で決められるものではない。今住んでいる場所は、僕にとってはもともと縁もゆかりもない土地であるが、子供達にとって事情が違う。特に、現在通っている学校に、今後も無理なく通い続けることができるという条件は、彼らにとっては譲れないものなのだ。従って、まずエリアに大きな制約がある。さらに、広さ、間取り、日当たり、外観、セキュリティーなどの諸条件が、現在の賃貸マンションより改善しないと、家族は納得できないらしい。駅からあまり遠いのも困る。しかも、住居費が現在より下がらなければならないとなると、これはもう、そう簡単に見つからない。間取り図と地図をにらみながら悪戦苦闘する日々が始まった。

そんな矢先、TVで建築家の藤森照信氏を紹介する番組があった。氏はもともと建築史家であったが、15年ほど前に、ある資料館の設計を依頼されたのをきっかけに、設計を手がけるようになった。徹底的に自然素材にこだわる氏の建物は、現代のモダニズム建築とは全く逆を行く。縄文人はかつて、竪穴式住居のなかで、どんな気分で暮らしていたのだろうか?住居が持っていた、原始的な肌触りを現代の建築に取り入れたい。氏の思いはひたすら非工業的なものに向いて行く。その結果、住居の壁や屋根一面に植生を生やし、毎日の水遣りを欠かせばたちまち枯れてしまう住居ができあがる。果たして住みやすいかどうかは疑問である。しかし、そこでは家は単なる「箱」ではない。家自体と強く係わるうちに、ついにはそこに住む人の心に棲みついてしまう、そんな家なのである。

藤森氏によれば、人は自分が生まれ育った家や路地などを前にしたとき、最も強く「懐かしい」という感情を抱くそうである。家は、知らず知らずのうちに、そこに住む人の心に深く入り込んでいるのである。今回、いろいろ観てみて、分譲マンションと言えども、それぞれ個性があり、驚くほど違った印象を覚えた。今回のマンション巡りは、どうやら我が家のメンバーが、自らの心の住みかを探す出発点になりそうである。

戦後60年

この夏は、戦後60年ということで、テレビでもさまざまな番組が放映された。そうした中で、日ごろは日常に隠されてしまっている戦争の影が、実は60年にわたって絶えることなく日本人の心の底に棲みつづけてきたことを改めて認識させられることになった。

 私の父は15歳のとき、予科練で終戦を迎えた。おそらく軍隊にかかわった人のなかではもっとも若い世代だろう。それだけに純粋で、軍国主義から受けた影響も大きく、50歳で死ぬまで永く一生尾を引いた。戦後の動乱の中で、学校も満足に卒業できなかった父にとって、予科練での8ヵ月間は、お国のために命を捨てる覚悟で臨んだ、精神的にも肉体的にも、人生でもっともひたむきに生きた時間であった。戦地に赴くことなく終戦を迎えたことは幸運としか言いようがないが、張り詰めた若い精神の糸は終戦によりプッツリと切れ、その後の人生において決して修復しきれない傷跡を残したのである。

 「靖国」の問題も、今年は多く取り上げられたが、有識者の方々の論議を聞くうちに、置き去りにされてきた日本人の心の戦後処理の問題が浮かび上がってくるように感じた。東京裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和条約で国際舞台に復帰した日本は、A級戦犯が引き起こした犯罪として戦争を清算し、復興に向けて歩み出した。しかし一方では、家族を失った悲しみ、死んだ戦友に対する生き残ったものの思い、戦争に負けた悔しさといった様々な思いは、簡単に消え去るものではない。そうした思いを、「靖国」という戦前の思想により吸収しようとしたところに、靖国問題の核心があるように思えた。結果的に、日本人は戦争に対する真の反省の機会を失ってしまったのである。

 今回、番組に出演した有識者の中にも、「お国のため」に死んだことは尊いことであり、戦没者の名誉のために靖国神社へ合祀するのは当然という意見が根強いのに驚かされた。戦後60年も過ぎ、本来ならば、日本は何ゆえ戦争という手段を用いざるを得なくなったのか、日本を戦争に導いた根本的な過ちとは何であったのかというようなことを、すでに詳しく分析し、国民一人一人がしっかりとした考えを持っていても良いはずである。そうした問題を棚上げし、不戦の誓いばかりしていても、軍国主義の亡霊は永久に消えはしない。

 戦争で心に傷を負ったのは日本人ばかりではない。日本以上に戦争で心に傷を負った中国や韓国の人からの批判に対して、首相の靖国参拝を単純に理屈で正当化しようとしても無理である。彼らの感情を尊重することは、戦争の当事者である日本として当然のマナーであろう。しかし、彼らが本当に望んでいるのは、日本人がもう一度真正面から戦争と向き合い、自らの過ちに気がつくことではないだろうか。

コスト競争の落とし穴

先日、かつて勤めていたハイテクメーカーS社で展示会を行ったが、全体的に元気がない。かつては日本の強さの象徴だった彼らも、今では韓国や中国のメーカーに追い上げられ、口を開けばコストの話ばかりである。ハイテクに限らず、現在、世界の市場は供給過剰であると言われている。メーカーは消費者が必要とする何倍もの製品を生産し、それを無理やり売ろうとしている。当然、価格は下落し、メーカーは一層のコストダウンを強いられる。こうしたコスト競争は、一見、消費者にとってありがたいことのように見えるが、実は逆に消費者離れを促進する原因となっているように思える。

電気製品の急激なコストダウンが始まったのは、バブルの崩壊期と重なる。景気の低迷で購買力が低下しはじめた1990年代のはじめ、各電機メーカーは、コスト低減のために競って生産の海外シフトを図った。その際、どこで誰が作っても同じものができるように、部品の共通化、一体化を推し進めた。当時始まったデジタル化による技術革新がそれを後押しした。AV機器の心臓部は共通化され、安いものでも十分なクオリティーが得らようになっていった。そして今や、メーカーや価格帯によらず、蓋を開ければ中身はほとんど同じである。こうして先端技術を投入し、ひたすら画一化によりコストダウンを図ってきた各メーカーが、今、他社と差別化できずに苦しんでいるのである。

現在、市場では、低価格品と高級ブランド品との両極化が進んでいる。低価格品では、必要最小限の機能のみを残し、コストを極限まで抑える。しかし、そうした安物にすべての消費者が満足するわけではない。そこでコストは二の次にし、消費者の満足度を第一に考えた製品の市場、つまり高級ブランド市場ができる。ブランド品というと、それを所有するステイタスばかりが強調されがちだが、真のブランド品とは、低価格品では決してかけられないコストを十分にかけ、低価格品では決して得られない満足を与えることができる製品を言うのである。

かつてハイテクという言葉は、技術の先進性をブランド化した言葉であった。他人より優れた性能を所有することは喜びであり、それによる価格の上昇は、むしろ所有する者に一種のステイタスをもたらした。しかし今やハイテクは、すっかりブランド性を失い、むしろ画一化の同義語になりつつある。

コストダウンに反対する人はいない。それはあたかも錦の御旗のようだ。しかし、その結果、企業は製品に魅力を吹き込む術を忘れしまった。消費者から見放された企業を待つのは、さらに厳しいコスト競争だけである。

石油がなくなる日

このところ石油価格は不気味な上昇を続けている。これまでひたすら増え続けてきた産油量は、ここに来てそのペースに翳りが見え始めている。多くの専門家の間では、今後の採掘技術の進歩を考慮しても、石油の産出量は現状がほぼ限界で、将来的に減少に転じ、2050年頃には今の半分くらいまで落ちるのではないかと予想されている。限りある資源であるにもかかわらず、人類は石油を使い放題使い続けてきたが、産油量の頭打ちという事態に至って、市場もとうとうその重大さに気が付いたのである。

もし突然、石油の供給がストップしたらどうなるか。クールビズで省エネする程度で済む話ではない。そもそも、20世紀の世界の人口の急増は、食料生産や物流などの能力が、石油という地下から湧き出た恩恵によって飛躍的に向上したおかげである。石油がなくなれば、途端に現在の世界人口をまかなうことはできなくなる。さらに、20世紀に人々の生活の質を劇的に変えた科学技術、そしてそれによる世界的な経済の拡大は、石油なくしてはありえなかった。現代社会は石油の上に成り立っていると言っても過言ではない。

もちろん石油はある日突然なくなるわけではない。それに向かう過程でさまざまな対策が打たれるだろう。石油に代わる再生可能な資源として、昨今ではバイオマス(生物資源)の有効利用を叫ぶ声も高い。しかし、これまで石油に頼ってきたものを、バイオマスですべてまかなうことは、量的にも質的にも到底無理である。石油はそれだけ並外れて手軽で便利な資源だったのである。ポスト石油社会においては生活の便利さは間違いなく低下する。人類は生活と価値観を大幅に変える必要に迫られるに違いない。

今後、石油をめぐる争いはますます熾烈になっていくだろう。イラク戦争が石油利権の獲得を目的にしたものであったことは周知の通りである。今後、石油の争奪戦が人類を戦争にすら巻き込んでいかないとも限らない。一方で、企業においては石油を使わない技術開発もすでに始まっている。自動車メーカーが省エネカーや燃料電池車の開発にしのぎを削っているのはその典型だろう。ポスト石油への対応は、石油が不足してからでは遅い。石油不足にいち早く対応できた企業のみが優位に立つことができる。石油がなくなる日を見据えての、企業間の生き残りをかけた壮絶な戦いはすでに始まっている。

石油の不足は、社会のパラダイムシフトを引き起こすに違いない。これまでのように大量生産し大量消費させたものが勝つ時代は遠からず終わるからである。その結果、人々の関心が物質的なものから精神的なものに向かうと期待するのは楽観に過ぎるだろうか。

おじさんのラーメン

まだ、僕が名古屋で中学生だった頃、夜も11時を過ぎたあたりに、家の近くでチャルメラを鳴らす屋台のラーメン屋さんがあった。当時からラーメン好きだった僕は、それを聞くたびに悶々としていたが、ある日、遂に我慢できず、弟と2人で寝静まった町に繰り出すと、闇の中に明るいガス灯に照らされ、白い湯気を立ち昇らせる屋台があった。

澄んだ醤油味のスープの中に、沸騰する大鍋で茹で上げた麺をさっと滑り込ませ、半割りの卵とチャーシュー、鳴門とメンマ、そして海苔を手早くのせ、湯気越しに、「どうぞ」と木製のカウンターに差し出すおじさんの仕草は、何の気取りもなく淡々としていた。しかし、その麺を一口すすって唖然とした。それは、最近のラーメンに良くある、「しばらくするとまた食べたくなる」というような曖昧な味ではない。はっきりとした主張がしっかり詰まっていた。複雑で深く、かつ完成された味だった。いったいどうすればこんな味が出せるのか。屋台の周りに漂う、腰が抜けるような濃厚で複雑なスープの匂いに、その秘密の一端が隠されていることは間違いなかった。

「こんな仕事してますがね、私、法政出なんですよ。」無口なおじさんが、他の客相手にふと口を開いたことがある。「大学出た後、親が出してくれた元手で事業を始めたけど失敗してね。それでも、サラリーマンにはなりたくなくて、小さくても一国一城の主にこだわって屋台を始めたんですよ。」おじさんを尊敬するわれわれには、おじさんのラーメンにかける自負がひしひしと伝わってきたものだった。

ある夜、すでに灯を消して足早に家路を急いでいたおじさんの屋台に、弟と2人で息を切らして追いつき、スープだけ飲ませてくれと頼んだことがある。おじさんは屋台を止め、再び店を広げると、丼にスープを注ぎ、いつもよりたっぷりネギを浮かせてくれた。そして、それを一滴も残さずに飲むわれわれを静かに見守っていた。値段を尋ねると、「また今度食べてくれればいいから」と言い残し、再び闇の町に消えて行った。

それから、12-3年ほど時が流れた。当時、すでに東京に住んでいた僕が帰省した折、かつての自宅の近くで、弟と2人でおじさんの屋台を待ち伏せたことがある。運良くその日、おじさんはかつてのように屋台を曳いて現れた。事情を告げると、「君達があのときの兄弟なのか!」と実に感慨深げに目を輝かせた。まさに夢のような再会だった。

その後、20年余り、うまいといわれるラーメン屋があると、まめに行ってみた。しかし、かつてのあの味に比較できるラーメンに出会ったことは一度もない。おじさんはまだ健在だろうか。そして、今でもわれわれ兄弟のことを覚えていてくれるだろうか。

発想の転換

先日、ピアノの練習で画期的な進歩があった。僕は昔から、譜面を睨んだまま、できるだけ手元の鍵盤は見ないで弾くようにこころがけてきた。大人になってから自己流でピアノを始めたため、それが正しい練習方法だと信じてきたのである。しかし、音程が大きく飛ぶような場合、鍵盤を見ないとどうしても音をはずすことが多くなる。先生は、そうしたときだけ手元を見るように勧めるのだが、永年見ない癖がついているので、下手に見ようとすると余計に間違える。先生と対策を練った結果、思い切って暗譜してみては、ということになった。譜面を全部覚えてしまえば、後はずっと鍵盤を見て弾けばよい。しかし、子供にとっては発表会の前に必ずする「暗譜」という作業を、僕は一度もしたことがなかった。案の定、やってみると大いに戸惑った。譜面を睨んで指の位置を探るのと、音を覚えて鍵盤を見て弾くのでは、全く異なる作業である。そもそも鍵盤を見て弾けば、間違えないのは当たり前ではないか。これでは練習した気がしない。満足感がないのである。

ところが、暗譜を始めるとすぐに思わぬことが起こった。単に音をはずさなくなっただけでなく、演奏が急に表情豊かになったのである。これには先生も驚いた。それまではどうやら、譜面を見て指に指示を出すのに、脳の全パワーを使い切っていたようである。簡単なところは問題ない。しかし、弾きにくい箇所に差し掛かると、指で鍵盤を探ることに集中しなければならない。肝心の音楽がお留守になるのは、考えてみれば当然のことである。傍で聴いていた先生は、僕の演奏が時として急にぶっきらぼうになるのになんとも言えぬ違和感を覚えていたようである。何かが欠けている。しかし、その何かが鍵盤を見るなどという初歩的なことだとは思いもよらなかったのだ。最近では、ピアノを弾く際、今まで感じたことのない音楽の豊かさを感じるようになった。一つ一つの音に気を配るようになり、フレージングは滑らかに、かつダイナミックになった。演奏に表情がないという永年の課題に対して、思わぬ形で大きく前進したのである。

一生延命やっているのに、なかなかいい結果がでない。今度こそ頑張ろうとよりいっそう努力はしてみるが、結果はやはり芳しくない。そうした場合、本人は自分なりに工夫しているつもりでも、実は根本的な問題には手がついていない場合が多い。永年やってきた自分のやり方に慣れ、工夫の仕方がいつしかパターン化しているのだ。実はそうしたことが知らず知らずのうちに自分の可能性を狭めているのではないか。無闇に頑張るだけでなく、たまには立ち止まって発想の転換を図ってみてはどうだろうか。

卒業

先日、長女が小学校を卒業した。一学年一クラスの小さな小学校なので、家族的な雰囲気の中、出席者一同、暖かい眼差しで一人一人の成長を祝福した。入場のときからすでに感極まって涙を流す子供達が多いなか、普段はあまり感情を表に出さない我が娘も涙をこらえるのに必死の様子だった。

子供達の涙につられるように、親達の胸にも熱いものが湧き起こる。つい先日、入学したばかりと思っていた子供が、いつの間にか見違えるように成長し、大きな怪我もなく、無事に卒業式に臨む子供の姿をみて喜ばない親はいないだろう。しかし、子供達の感慨は、親のそれとはちょっと違うようである。彼らにとって成長は当たり前で、昔の自分も今の自分も同じである。そんなことより、最近の友達同士の充実した時を思い、別れを惜しみ、将来に向けた期待と不安に胸を詰まらせているのである。そうなのだ。子供はいつの間にかおとなになっているのである。わが娘も、この2年ほどの間に、自分にとって何が大切で、どんな努力が必要なのか、自分なりの考えを持つようになった。子供の成長は、運動能力や知能だけではない。そうした心の成長に触れるとき、つくづくおとなになったと感じるのである。

娘の表情をビデオで追ううちに、いつしかかつての自分自身を思い出していた。いまから35年前、ちょうど大阪万博で日本中がお祭り騒ぎに沸いていた頃、僕は小学校を卒業した。僕の小学生最後の1年は充実していた。しかも、前年のアポロ11号の月着陸に刺激された少年の夢は、未来に向けて大きく膨らんでいた。にもかかわらず、卒業してから中学校に入学するまでの2週間あまりの間、一人で家にいると涙が止め処もなく溢れ出てきた。なぜだか良くわからない。確かに何もかもうまく行っているように見えた。しかし、心の中には何ともいえぬ空しさがあった。その後の人生に待ち受ける苦難を、僕はそのときすでに予感していたのかもしれない。

成長が必ずしも人生をらくにするわけではない。成長した心が、必ずしも現代の社会と折り合いをつけられるとは限らない。また、自らの理想と現実の間で葛藤しないとも限らないのである。娘はまだ出発点に立っているに過ぎない。今の彼女が、かつての僕自身と同じ不安の中にいないと言えようか。しかし、今振り返ると、そうした不安は、感受性が強い思春期を生きるものの特権である。僕はあえて娘に、大いに悩み大いに傷つけと言いたいのだ。それが、その後の人生に何ものにも代えがたい宝を残してくれるだろうから。

食在中国

ここは上海の中心部を走る南北高架道路の下。近くには高層マンションが建ち並んでいるが、大きな道路沿いのためか人通りは少ない。

昼を食べるために安食堂にふらりと入ってみたが、他に客は誰もいない。店員の視線が集中する中、レジの上にあるメニューをじっと見つめること5分、結局、小姐(店員)を呼び、「君が一番好きな麺は?」と聞いた。彼女が勧めたのは、その店で2番目に高い「青椒肚片麺」。青椒がピーマンであることはわかるが、肚片は一体何なのか。まあ、何が出てきても食べられる自信はある。

しばらくして現れたのは、やわらかく塩味で煮込んだ極厚の豚の胃袋(肚片)とピーマン、それに中国独特の小さい青梗菜の乗った麺だった。麺は細め、スープは骨付き肉のダシが良く効いた濃い目の塩味。無造作に半割りにした、ほとんど生のピーマンが、良く煮込んだ肚片と絶妙なバランスである。さすが小姐が勧めるだけのことはある。日本でこれだけのものを食べさせる店があるとすれば、相当の通が通う店だろう。値段もここでは9元(120円ほど)だったが、恐らく1000円から1300円はするはずだ。

中国に行くようになって、日本の中国料理には興味がなくなった。確かに、日本でも高級な店に行けば、味においては中国に負けない店もあるだろう。しかし、それはあくまで、たまに食べる「高級中国料理」だ。中国人には、日本のグルメのような意識はない。それでいて、毎日、当たり前のようにうまいものを食べ続けているのである。中国の料理には、中国人の貪欲な好みを吸収しながら発達してきた不気味とも言える迫力がある。

場所が変われば、そこにはまた独自の素材があり料理がある。以前、ベトナム国境近くの南寧という町に行ったとき、中華なべに水を張り、鶏を入れて、さっと煮立てただけの何の変哲もない料理が出た。味付けは塩だけである。最初は鶏の水炊きかと思ったのだが、主役はどうやらスープらしい。

そのスープを一口すすって愕然とした。信じられないようなダシが出ているのである。この地方は水がおいしく、また、地鶏も有名らしい。確かに素材がいいのだろう。しかし、さっと沸騰させただけなのに、なぜこのような味が出せるのか。僕は、その味を見極めようと何杯もおかわりしてみたが、結局、どうしてもその秘密を見極めることはできなかった。

最近、急速な経済成長ばかりが取りざたされる中国だが、このような食文化を持つ中国の魅力には計り知れないものが感じられる。安い労働力などという薄っぺらなものだけを見ていては、この国の真の底力を見逃すことになるだろう。