祖母の教え

 先日、祖母が亡くなった。満97歳の大往生だった。この2-3年は、記憶があいまいで、自分の娘もわからない日もあったが、意識はしっかりしており、冗談を言って笑わせることも珍しくなかった。昨年末に、入っていた老人ホームで食事も水も取らなくなり、やむなく病院に入り点滴を受けることになったが、しばらくすると点滴も拒絶してしまい、その8日後に亡くなった。最後の日まで、見舞い客に対し必死に両手を合わせ、感謝の意を伝えようとしていた。

 祖母が自ら死のうとしたのは明らかだった。物欲がなく、ただただ自分の娘たちの幸せだけを願っていた祖母にとって、記憶が衰え、周りに迷惑をかけているのではないかという思いは耐え難いものだったのだろう。食事も水もなしの8日間は楽なはずはないが、病死でないため死顔はきれいで穏やかだった。身内だけで行った葬儀では、多くの曾孫を含め参列した親族はいずれも祖母に対しての暖かい思い出を胸にしていた。人の死に際しては、いつも何か虚しい思いを感じる僕も、最後まで自分の意思で生き切った祖母に対してあっぱれという思いに打たれ、何かすがすがしい気持ちさえあった。

生き物のなかで将来の死に対して恐怖や不安を抱くのは、恐らく人間だけだろう。死を恐れる理由はさまざまだろうが、その一つはいくら充実した人生を送ったとしても、死ねばすべてが失われてしまうという思いがあるからだ。いくら楽しかろうと、何かすばらしいことを成し遂げようと、次第に歳を取り、最後には死んでしまう。結局、全ては無駄ではないのか。そうした虚しさが、人の心に晴れることのない影を落とすのである。

 霊魂の概念は、そうした苦痛から逃れるために生まれたのだろう。死んでも魂が残るとなれば、死の恐怖は消える。確かに生命というのは不思議なもので、それまで生きていたものが、死んだ瞬間、ただの物体となってしまう。生き物に生気を吹き込んでいるのは霊魂であって、死によってそれが肉体から抜け出すと考えるのも無理はない。しかし残念ながら、誰もがそうした霊魂の存在を信じられるわけではない。

 われわれは親から生を授かったと思っているが、われわれの生命は実は40億年前に地球上にはじめて誕生し、それが進化しながら途絶えることなく綿々と受け継がれてきたものである。当初、単細胞生物は2つに分裂することで次世代へと生命をつないでいたが、今日では、60兆個の細胞がひとりの人間を支えるまでに進化し、この40億年という長い旅の最後の80年ほどを、われわれはひとりの人間として生きているのである。

人生とは、40億年に渡る生命の進化の結晶なのだ。人間として生まれた以上、すべての人にこの最後の80年間を生きるチャンスが与えられている。祖母はみごとに、その人生を締めくくった。そして、死について悩む前に、生きていることに感謝するよう、最後に僕に教えてくれたような気がするのである。

宇宙と生物

 かつての天動説の世界では、地球は宇宙の中心にあり、そこに棲む人間は神から選ばれた特別の存在であった。しかし、その後、科学の発展により、地球は宇宙にある無数の天体の一つに過ぎなくなり、宇宙の中心に君臨していたはずの人間は、いつしか広大な宇宙におけるちっぽけな存在に落ちぶれてしまったのである。しかしながら、一方で最近の科学の進歩は、逆にこの宇宙のなかでわれわれ人間がけっしてありふれた存在ではないことを示しつつあるように見えるのである。

その根拠の一つは、これまでのところ地球外に生物が存在する証拠が得られていないことである。度重なる探査にもかかわらず、あの火星にすら生物の痕跡は見つかっていない。宇宙から来る電波の観測からも、生物の存在を示すデータは得られていない。われわれは、この宇宙で唯一の生命体なのかもしれないのである。

そんなはずはない、という人もいるだろう。宇宙には無数の星があって、そのどこにも生物がいないなどということはありえない、と。しかし、果たしてそうだろうか。

この地球に生物が誕生したのは今から40億年ほど前だといわれている。この初期の単細胞生物は今の生物に比べ幾分単純だとはいえ、生物としての基本的な仕組みは同じである。細胞は、体外から素材とエネルギーを取り込むことにより、DNAに書き込まれた遺伝情報からさまざまなたんぱく質や酵素を巧みに作り出し、時として外敵から身を守り、子孫を残していく。しかし、この巧妙で複雑な生命現象が明らかになればなるほど、ある大きな疑問が頭をもたげてくる。最初の生物は、いったいどのようにして生まれたのか、ということだ。

生物が無生物から自然発生するものではないということは、今から150年ほど前に証明された。その後、生命現象のあまりにも巧妙なメカニズムがわかるにつれ、それはますますもっともなことだと思われるようになった。自然界の分子から偶然の化学反応によって突然細胞が生まれることなどとてもあり得そうもない。実際、この宇宙の全原子を考慮し、偶然の化学反応によって生物が生まれる確率を計算した人がいるが、この宇宙が1000兆回あったとしても、その確率は限りなくゼロに近いという結果だった。確かに、もし簡単に生物ができるなら、現在でも地球上のどこかで無生物から生物が次々と生まれてくるはずである。そうした話は聞かないし、たとえ現代の科学をもってしても、無生物から生物をつくることは不可能なのである。

だが、地球上にわれわれが存在していることも、紛れもない事実である。宇宙の歴史のどこかで、生物は確かに生まれたのだ。それはまれに見る偶然によるものだったのか、あるいは神様が何か特別な手を使ったのだろうか。

いずれにせよ、われわれは生きると言う宇宙の中でも相当に手の込んだ行為を日々続けているのである。そう思って、改めて自分の生を見つめ直してみるのも悪いことではない。

学歴社会

最近、ゆとり教育の反動で、高校も急速に受験教育に舵を切り始めている。だからと言って、都立高校に通う長女の話では、大学に行ってからのことや、就職を考慮してどの学部を選択すればよいかというような話は、やはりほとんどないと言う。教師たちの目は受験までで止まっていて、その先を見る余裕などないのだ。

かつて、学歴偏重が学生に強いる過酷な受験勉強を緩和しようと、高校入試に学校群制度が導入されたり、ゆとり教育が試みられてきたりしたが、結局、変わったのは高校の偏差値地図くらいのもので、相変わらず東大の威光が衰える様子はない。高校入試や小中学校教育をいくらいじっても、最後に控える大学入試がそのままでは何も変わるはずがない。そもそも国には学歴社会を本気で変えようとする気などないのである。

大学入試は、学歴社会を支えるために入念に準備された制度である。全国の生徒を一つの基準で判定する制度は他に類を見ない。全員が参加することは、一見公平に見えるが、そこで下される判定は、受験する本人に対しても、世間の眼に対しても、否が応でも序列の意識を刻み込む。小学校から高校まで、毎日のように勉強しろ!勉強しろ!と言われ続けたのも、ひとえに最後に入試が控えているからなのだ。

勉強ができる人を「頭が良い」と言う。そして本人も自分は頭が良いとか悪いとか思い込んでしまう。頭の良し悪しは学校の勉強だけで決まるわけではないのに、知らぬ間に勉強ができない奴は劣等生だとレッテルを貼られてしまうのである。学校教育の現場では入試と呼応して、子供の心に着々と学歴意識を植え付けているのである。

美術や体育などの教科は、英語や数学のような受験科目に比べて一段下に見られる傾向がある。これは、それらの教科が入試に組み込まれていないからである。実生活では、芸術鑑賞や健康の重要性は、英語や数学より劣るとは思えないが、記憶力と理解力を主に評価する大学入試には美術や体育はなじまない。一旦、受験科目からはずされてしまうと、そうした科目は無言のうちに差別され、軽視されてしまうのだ。

一旦、学歴社会ができると、親は子供を受験勉強に駆り立て、その子供が受験によって序列化されることによりますます学歴信仰が強まるというスパイラルが出来上がる。こうして学歴社会はますますゆるぎないものとなっていくのである。

学歴社会が生まれる背景には、権威に弱い日本人の国民性が透けて見える。自分で価値判断ができないから、お上が決めた価値観に従うのである。こうして見ると現代の学歴社会は、意外にも戦前の軍国主義教育の時代と、さほど変わっていないのかもしれない。

ゆとり教育が挫折し、再び復活の兆しが見える受験偏重教育。結局のところ、学歴社会を抜け出せないのは、単に教育制度の問題ではなく、東大ブランド以上の価値観を見出せない日本の社会の貧しさを象徴しているのではないだろうか。

ネットオークションの楽しみ

 ネットオークションはもともとフリーマーケットのインターネット版である。しかし、何しろネットの利用者は全国に広がっているので、不要な物が必要な人と出会う確率は圧倒的に高い。商品の種類も豊富なので、最近は日常的な買い物に利用する人も少なくない。

 オークションでは、当然、人気のある商品は高くなる。デジカメなどの人気家電やブランド品などは、量販店やブランド品専門店などに比べ、あまり割安とはいえない。逆に一般に人気のないものの中に面白いものがある。フィルム式カメラなどもその一つだ。デジカメの普及ですっかり人気がなくなり、物によってはタダ同然である。確かにデジカメは手軽に撮れるが、データをパソコンに保存してそれっきりになりがちである。フィルム写真では、現像するのが当たり前で、出来上がった写真を楽しむ機会はずっと多い。画質的にもまだデジカメより優れるフィルム式カメラは、狙い目商品の一つなのである。

ネットオークションでは、入札に際して実際に商品を手にとって確かめることはできない。出品者がネット上にアップした数枚の写真と商品説明だけが頼りである。従って出品者の信用が重要なポイントとなる。そのため、落札者は落札後、出品者を評価することになっている。この評価内容は公開され、次の入札者が参考にするので、出品者はできるだけ誠実に対応しなければならなくなる。評価システムはオークションにおける信用の要なのだ。

 オークションに出品しているのは個人だけではない。最近ではオークションの巨大な市場を狙ったオークションストアと呼ばれる専業業者も増えてきた。こうしたストアのなかには、驚くべき安さで大量のものを出品しているものがいる。ネットオークションでは、店舗が不要で、営業経費もゼロである。その分安くできるのは理解できるが、材料費さえ出そうもない商品がいくらでも出回っている。いったいどうなっているのだろうか。

それらの商品の多くは、倒産した企業や個人の動産競売品である。ただし、それは競売で落札されたものではない。競売品を落札すると、いらないガラクタも一緒に引き取らなければならず、その処分にコストがかかる。お金を払って落札していたのでは合わない。そこで彼らは、競売で落札されなかったものを、逆に処分費をもらって引き取ってくるのである。つまりタダどころか、お金をもらって仕入れているのだ。同時に彼らは、鉄くずなどを売りさばくルートも持っていて、オークションに出せない物も効率よくお金に換えているのである。

マーケットリサーチと宣伝広告が支配する現代の消費市場は、売る側の論理に支配され、掘り出し物に出会う機会など皆無である。信頼性に不安があるにもかかわらずネットオークションが賑わうのは、思わぬ商品に出くわす期待とオークション独特の駆け引きに、買い物本来の醍醐味を感じるからではないだろうか。

物理学におけるHOWとWHY

 20世紀初頭、物理学の世界では量子力学が出現し、原子レベルのミクロの現象が非常によく説明されるようになった。その結果、光は何なのか、なぜ金属は電気を通すのに水晶は通さないのか、あるいは、なぜ鉄は磁石にくっつくのか、なぜガラスは透明で金属はぴかぴかしているのかなどなど、さまざまな身近な現象も目からうろこが落ちるように理解できるようになった。さらに量子力学は、半導体に代表される人工的な材料の発明を可能にした。それがトランジスターのような素子開発につながり、さらにはテレビやコンピューターなどを次々と生み出して、現代のIT社会を造り上げたのである。

ただ、そうした大成功の裏で、物理学は不確定性原理、つまり粒子の位置と運動量(速度)を同時に正確には予測できないという制約を科せられることになった。今、目の前にあった電子が、次の瞬間には宇宙のどこにあるのかわからない。確率はわかるが、調べてみなければわからない。そんなことになってしまったのである。予測するのが商売である物理学にとっては、看板に偽りありである。それ以来、物理学者は、ずっとこのジレンマに悩まされ続けることになったのである。

不確定性原理は、理論的に導かれるものではなく、実際に電子などの振る舞いから出て来た制約である。そして量子力学は、その実験事実を満たすように作られたのである。しかし、なぜ不確定性原理が存在するのであろうか。実は物理学の世界では、この質問はタブーとなっている。事実がそうなのだから、そんな疑問は持ってはならないと戒める人もいる。ミクロの世界では、日常的な常識が通用しないのは当たり前だと言うわけだ。

確かに量子力学は大成功し、科学技術の飛躍的な進歩を可能にした。それとともに、当初は量子力学に異論をとなえていたアインシュタインのような人々も次第に姿を消し、物理学者はその気持ち悪さから目をそらすようになった。しかしながら、その有効性はともかく、この宇宙の基礎をなす理論が、そんなもどかしさを残したままで良いのだろうか。

物理学はHOWの学問だと言われてきた。これは、物理学の創設者、ニュートンが万有引力の法則を発見した際に、「なぜ、万有引力は存在するのか」という疑問を自ら封印し、物体の運動をいかに記述するかにとどめたことに始まる。なぜそうなっているかは、「神のみぞ知る」と言うわけだ。それ以来、物理学は数学を用いて自然現象をいかに(HOW)記述するかに努めて来た。量子力学の構築も、その典型的な例と言えよう。しかしながら、HOWに答えられれば、WHYは無視してもよいと言うことではない。ニュートンは、HOWの手法、つまり科学的な方法によって、ギリシア哲学以来のWHYのアプローチを超え、より深い自然の理解に到達したが、同時にそれはWHYに対しても大きな説得力を持っていたのである。

量子力学はHOWに対してすばらしい答えを出してきた。しかし、依然としてWHYに対して納得のいく答えを出せないとしたら、自然の根本を記述し、すべての科学の基本となる理論としては、やはり不十分だと言わざるを得ないのではないだろうか。

化石燃料の功罪

18世紀、蒸気機関の発明は石炭の利用の道を開いた。さらに19世紀に出現した内燃機関は石油の時代を切り開いた。こうした化石燃料の利用は、それまでの人類の歴史をすっかり変えてしまった。農耕社会から工業化社会への移行が急速に進み、そうした工業化がさらに化石燃料の使用量を増加させるというサイクルが回り始めたのだ。そしてそれ以降、人類は、化石燃料の使用量を増加させ続けてきたのである。

工業化の結果、人類は物質的に急速に豊かになった。飢えや寒さ、病気と言った、それまで人類を苦しめてきた様々な困苦を次々と克服し、人口は増加し寿命も延びた。過酷な労働からも解放され、自由な時間を享受することができるようになった。さらに、科学技術の飛躍的な進歩は、コンピューターやインターネットを産み出し、かつては誰も想像すらできなかったような便利で快適な生活が可能となったのである。

しかし一方で、工業化の急速な進展は、経済的な競争の激化を招いた。19世紀の帝国主義は、やがて20世紀前半の世界大戦へとつながっていくが、これを支えたのは、化石燃料による軍事力の飛躍的な拡大である。大戦が終わっても、経済戦争は終わることはない。かつての帝国主義が、天然資源を争うものであったのに代わり、貿易や資本投下という形で、工業生産のための安い労働力をいかに確保するかに焦点が移る。さらに20世紀後半になると、金融が経済戦争の最前線に躍り出る。われわれは化石燃料により、物質的に豊かな生活を手に入れた反面、熾烈な競争社会に身を置かざるを得なくなったのである。

しかしながら、現在、次の2つの観点から、人類は大きな転換点を迎えているのではなかろうか。まず、地球温暖化に代表される環境破壊の問題である。化石燃料が環境に及ぼす影響を無視して経済性を優先させてきた結果、いよいよそのツケが回ってきたのである。もうひとつは、経済戦争の激化により引き起こされた、資本主義の機能不全の問題だ。サブプライムローン問題に象徴されるように、最先端の金融工学を駆使し、あまりにも効率を追求した結果、市場原理がうまく働かなくなってきているのである。

これら2つの問題は、いずれもこの200年あまりに急速に拡大した化石燃料依存型社会の限界を示している。くしくもそうした中で、石油価格が急激に上昇を始めた。化石燃料に頼りすぎている現代社会の危うさを、市場が敏感に感じ始めたのである。

化石燃料を使い始める以前も、人類は永年にわたって幸福を追求してきたはずである。簡単に豊かさが得られる現代と異なり、当時の人たちはもっと深く幸福について考え、多くのことを知っていたに違いない。現代では、ダ・ヴィンチやモーツァルトのような天才が現れなくなったのも、物質的な豊かさに振り回され、本来持っていたパワーを現代人が失ってしまったからではないのか。

今、世界は技術の進歩で、快適さを維持したまま環境に良い暮らしを目指そうとしている。一方で、競争社会におけるリスク管理に躍起になっている。しかし、それらはいずれも対症療法ではないのか。化石燃料がなかった時代に人々がどう考えどう生きていたかを、原点に帰って見つめ直してみることこそ、今、本当に求められているのではないだろうか。

車社会の黄昏

 120km車に乗ると、年間2トンものCO2が排出される。家庭が車以外に出すCO2とほぼ同量が、わずか130分車に乗っただけで排出されるのである。これでは、汗をかいてエアコンの設定温度を上げ、照明をこまめに消して省エネに努めても、全てパーである。同じ一人を運ぶのでも、電車の場合、排出されるCO2の量は車の約20分の1で済む。なぜ車はこれほど多くのCO2を発生するのだろうか。

もともとエンジンよりモーターのほうがエネルギー効率が高い。しかも、線路を走る電車に比べ、道路をタイヤで走るため摩擦が大きい。にもかかわらず、体重60kgの人を運ぶのに常に1トン以上の鉄の塊を一緒に運んでいるのである。エネルギーロスが大きいのは当たり前である。確かにどこでも自由に行ける便利さはあるが、その代償として多量にCO2を排出しているわけである。今後、ハイブリッド車や電気自動車が普及しても、これほど重いものを走らせている限り省エネには限界がある。しかも、重量が大きければ、生産時に排出されるCO2の量も大きくなる。車1台を生産するのに約4トンものCO2が排出されているのである。さらに道路などの車のためのインフラ整備においても、莫大なCO2が排出されており、車社会は巨大なCO2の発生源になっている。

1859年、アメリカのペンシルベニア州で始めて石油が掘削された。当時、石油の主な用途はランプであった。しかし、1879年、エジソンの電球が発明されると灯油の需要は落ち込み、石油産業は破産しかける。それを救ったのが車の発明である。車の石油使用量はランプの比ではなく、世界の石油需要は飛躍的に増大する。まさに車は石油大量消費時代の扉をあけたのである。

しかし、いまやガソリン価格は高騰し、温暖化防止でCO2の発生を抑えなければならない。石油を大量消費する20世紀型の車社会は大きな転換期を迎えている。ガソリンの急激な値上がりにより、6月のアメリカでの新車の販売台数は前年比で18%も落ち込んだ。すでに先進国では車離れが始まっているのである。また、世界のあちこちの都市で路面電車が復活し、パリのようにレンタル自転車網を整備して市内の自動車通行量を30%も減らしたところも出てきている。近い将来、人間の移動手段は劇的に様変わりする可能性がある。

単に移動手段を変えるだけでなく、移動そのものの必要性も見直されている。ある国際企業は、会社が排出するCO2の量を減らすためにTV会議を導入し、海外出張を大幅に減らした。IT化が進んだ今日の情報化社会では、果たして毎日会社に出社する必要があるかどうかも疑問である。すでに大企業では、本格的に在宅勤務を検討し始めている。

今後、移動にともない排出されるCO2は徹底的に削減を求められていくだろう。そうした中で、将来の車の姿は果たしてどのようなものになっていくのだろうか。少なくとも多量のCO2を撒き散らしながら風を切って走る鉄の塊がステータスであった時代は、早晩、終わりを告げるのではなかろうか。

グールドのゴールドベルク

 1955年、後に20世紀を代表するピアニストの一人となる無名の22歳の青年がレコードデビューを果たした。曲目はバッハのゴールドベルク変奏曲。当時、チェンバロで弾くのが常識だったこの曲をピアノで弾くことにレコード会社は猛反対したが、それを押し切っての録音だった。しかし、発売されるやいなやそのレコードは世界的なセンセーションを巻き起こし、グレン・グールドの名は一躍世界にとどろくことになったのである。

この演奏は、チェンバロによる従来の演奏に比べてテンポが異常に早い。そもそも、難曲とされるこの曲をこのようなテンポで弾こうとする無謀なピアニストは、それまで誰もいなかった。リピートもすべて省き、息もつかせぬ速さで疾走していく。これがもし一回限りの生演奏だったら、単にそのテクニックに唖然とするだけで終わってしまうであろう。だが、幸いなことにレコードは繰り返し聴くことができる。グールド自身、それを前提としていたに違いない。繰り返し聴くうちに、この演奏の凄さがわかってくるからである。非常に早いテンポにもかかわらず、全くテクニックの乱れは見られない。対位法の各声部は完全な独立性を保ち、しかも互いに精神的に深く絡み合っている。何度聴いても、常に彼の理想はさらにその先を行き、バッハへの深い理解と確信を思い知らされるのである。

 グールドは、30代になって、何の前触れもなく、突然、演奏会から完全に身を引いてしまった。自らの世界の追求を妨げるさまざまな雑音を遠ざけ、スタジオに篭り、録音によってのみ、その音楽を世に問うことにしたのだ。スタジオでの演奏風景を見ると、その集中力には思わず戦慄を覚えるほどで、孤高の天才が目指した高みは計り知れない。だが、そうした極度の集中は、次第にグールドの肉体を蝕んで行ったのである。

1981年、26年ぶりにグールドはゴールドベルク変奏曲を再録音することになった。この変奏曲は、最初と最後のアリアと、それらに挟まれた30の変奏からなるが、新録音ではこのアリアのテンポが極端に遅くなっている。「以前の録音はテンポが速すぎて、聴く人に安らぎを与えることができていない」という反省から、それを聴き手に表明する意図があったと思われる。グールドにとって再録音は非常に珍しい。彼は、「前回の録音では、30の変奏それぞれがばらばらに振舞っていて、元になっているバスの動きについて思い思いにコメントしている」と、以前の録音に対する不満が再録音の理由だったとしている。

この再録音を記録した映像からは、彼はすでに曲を解釈したり表現したりするという次元を超え、曲と一体化しているように見える。そして、あたかも神に問いかけるかのように、自らが生涯最も愛してきた曲に穏やかに問いかけ、応えを聞き、心ゆくまで語り合っているかのようである。

この録音について、音楽評論家の吉田秀和氏は、「生涯にわたって猛烈な憧れをもって探してきたものがどうしても見つからない。そこで彼は、もう一度出発点に帰ろうとしたのではないか」と述べている。録音の翌年、グールドは脳卒中で亡くなった。天才音楽家は、その生涯をかけて探し求めたものを、最後にこのアリアと30の変奏に託したのである。

エスカレーターの誘惑

 毎日1時間ほどかけて通勤する東京の50代の男性の体力は、小学校高学年の児童より勝っているという。毎日、駅の階段を上り下りしているためらしい。サラリーマンの涙ぐましい姿が目に浮かぶ話だが、最近、JRなどの駅におけるエスカレーターの普及が目立つ。これで少しは「痛勤」が緩和されそうだが、せっかく鍛えられたオジサン達の体力はどうなってしまうのだろうか。

エスカレーターは階段の上り下りの負担を軽減するためのものだが、最近ではバリアフリーの観点から設置される場合も増えた。しかし、単にそれだけの理由で多額の費用をかけてエスカレーターを設置しているわけではない。

 エスカレーターが設置されると大半の人は、かなり遠回りになってもエスカレーターを利用し、階段は途端に利用者が減る。何も言わずに動いていても、エスカレーターが人を引き寄せる力は絶大なものがある。エスカレーターを設置する側は、当然、そうした利用者の心理は計算済みで、人の流れをコントロールすることが彼らの目的なのである。

 それにしても、日頃から健康のためにジムに通っている人でも、平気でエスカレーターを利用するのには驚かされる。楽なものが目の前にあれば利用するのが当然であって、階段を上っていれば逆に物好きと見られかねない。それが社会的常識であって、メタボ解消に階段の利用を勧めてもあまり効果はなさそうである。

そうした常識に異を唱えるのが、高齢者のことを考えて「天命反転住宅」を設計する世界的芸術家、荒川修作氏である。この住宅は今流行のバリアフリー住宅ではない。それどころか、この住宅はいたるところバリアだらけなのである。平坦な場所はほとんどなく、家の中の移動はほとんど斜面か段差の上り下りだ。シャワーを浴びるときも足を踏ん張っていなければならない。なにゆえこんな住宅を作ったのか。

人は歳とともに筋肉が衰え、運動が億劫になる。それがさらに筋肉の衰えに拍車をかけ、怪我や病気の原因となる。その結果、本来、寝たきりになるような歳でもない人が寝たきりになっているのが現状である。バリアフリーの発想は、逆に体力の衰えを促進し、結果的にバリアを高くしているのだ。荒川氏はこの住宅で、人間が本来持っていた感覚を呼び起こし、さらには新しい感覚を生み出す必要性を強調する。楽なことが快適な生活であると信じて疑わない現代人の発想の貧しさを強烈に皮肉っているのである。

エスカレーターが設置されれば、誰も階段を上らなくなり、体力が落ちる。マイナスであるのもかかわらず、それに逆らうことはできない。現代人は無節操に便利さを求めることで、知らぬ間に衰えているのである。これは単に個人の体力の問題だけではない。石油を使い、電気を使い、ひたすら便利さを追求してきたことで、地球環境は蝕まれ、全人類が自らの寿命を縮めているのである。

何の疑問もなく便利さを受け入れる精神構造が改められることはあるのだろうか。現代人の弱点を見透かすように、エスカレーターは今日も静かにあなたを誘っている。

情報依存症

先日新聞に、現代の若者は「はずれ」を極端に嫌う、という記事があった。店に入るにも必ず「あたり」の店に入りたい。旅行に行くにも「あたり」の宿に泊まりたい。そこで事前にしっかり情報を集める。現代はネット社会である。ガイドブックだけの時代と違い、ブログなどからすでにその店や宿に行った人の感想も簡単に入手できる。意外性は求めない。評判の店に行き、評判どおりの味を楽しみ、評判どおりだ!と感じられれば最高なのだ。ふらりと出かけ「勘」に頼って店に入ることなど、彼らにとってはとんでもないリスクらしい。

インターネットの普及にともない、世間に飛び交う情報量は飛躍的に増大した。その中から必要な情報を得るために、検索エンジンは今や生活必需品となっている。実際に現場に行って良いものを探すためには、良し悪しを見抜く力が必要だが、検索エンジンを用いた情報収集ではそうした能力は必要ない。検索のスキルが高い人、つまり辞書を引くのが早い人ほど短時間で目的の情報を探し出すことができる。ワインのおいしいレストランを見つけるのに、ワインの味がわからなくても良いのである。しかし検索される側も、検索に引っかかりやすくなるようにあの手この手を使って工夫している。本当においしいワインを提供するかどうかは二の次なのだ。結局、検索した本人は豊富な情報を駆使してワインのおいしいレストランを見つけ出したかのように錯覚しているが、実は非常に限られた情報に誘導され、選ばされているだけなのである。

情報への依存は、何も個人レベルのことではない。現在、あらゆる業界でマーケットリサーチを行い消費者のニーズを探っている。しかし、最近はヒット商品が出てもすぐに飽きられてしまうという声をよく耳にする。一方で1950年代のデザインがもてはやされているという。当時はマーケットリサーチなど無縁で、企業は知恵を絞って自らのこだわりを製品にぶつけていた。もちろん、思い入れが空振りし、「はずれ」に終わった例も多いだろう。しかし当時の商品に込められた作る側の思いの強さは、今の商品には決して求められない魅力となっている。情報に頼る現代の企業は消費者の飽きやすさを嘆く前に、自分たちの商品に、はたしてどれだけ思いを込めているか反省すべきではないだろうか。

情報への依存度が高まると、情報が作り上げた社会を次第に本物の社会であるかのように思い込むようになる。世界各地で起こっている温暖化による砂漠化も、内戦による苦しみも、実際にそこに行ったことがないのに知っていると錯覚する。今、世界中の人々が、そうしたバーチャルな社会に住むようになっているのである。ゲーム依存の人が現実とゲームの世界を混同するように、バーチャルな社会では自らの能力を見誤りやすい。どこかの大統領が、誤った情報におどらされ、まるでゲームのように軽率に他国に攻め入ったのも、またマネーゲームが泥沼のようなサブプライムローン問題を引き起こしているのも、社会のバーチャル化を象徴しているように思える。情報は安全を約束する保険のように思われてきたが、情報への過剰な依存は逆に世界を不安に陥れているのである。