コンピューター将棋

1996年、世界最強のチェスのチャンピョンがIBMのコンピューター「ディープブルー」に敗れ衝撃が走った。しかし、相手から取った駒を打つことができ、敵陣では「成る」こともできる将棋においては、展開ははるかに複雑で、その後10年間、コンピューターは人間に全く歯が立たなかった。ところが、昨年、将棋には全くの素人のコンピューター科学者、保木邦仁氏が作った将棋ソフト「ボナンザ」が彗星のように現れ、世界コンピューター将棋選手権を制すると、その腕前はプロにも迫ると評判になった。

そのボナンザが、先日、棋界のエース、渡辺竜王に挑戦した。当初の予想では、さすがに竜王の楽勝であろうと思われていた。しかし対局が始まると、この対戦に向けて改良を加えてきたボナンザは想像以上に強く、勝敗の行方は予断を許さないものとなった。観戦するプロの棋士達からも、「これほど強いとは...」と一様に驚きの声が上がった。結果的に、辛くも竜王が勝利したが、あと一歩のところまで追い詰められたきわどい勝負だった。

ボナンザは、差し手を何手か先までしらみつぶしに計算する全幅探索という手法を取っており、1秒間に400万局面を読むことができる。さらに、過去の有名棋士の対局を50万局以上記憶しているという。この膨大な数字を聞くと、むしろ人間が勝てるのが不思議な気がしてくる。将棋は通常、百数十手程度で勝負がつくが、もし最後まで読み切れるとすれば、勝負をする前にコンピューターの勝ちとなってしまう。しかし、1手ごとに駒の動かし方は何通りもあり、さらに取った駒をどこに打つか、敵陣に入った駒が成るか成らないかなどということまで考えると相当な数になる。10手先ではその10乗通りになり、たちまち気の遠くなるような天文学的数字になってしまう。コンピューターといえども、とても最後まで読みきるものではない。となると、何手か先まで読んだところで全ての局面を比較し、最も有利な手を選択しなければならなくなる。そこでボナンザは、駒の損得などを評価基準とし、さらに自ら記憶した50万局のデータを考慮して最善手を決定するようプログラミングされている。

しかし、実はそこに将棋ソフトの最大の弱点がある。過去の名人達のデータに照らし合わせて判断するとはいえ、コンピューターはあくまでも定められた基準に基づき比較するだけである。それに比べ、棋士はいわゆる「大局観」に基づき判断し、時に瞬間的に思わぬ手筋がひらめく。その思考の仕組みは未だに謎であり、コンピューターでの再現は全く不可能である。全ての局面を読むことはできなくても、集中した竜王の頭脳は、ボナンザがカバーする領域を超えて、さらに有利な手を見つけ出すことができたのである。

近い将来、コンピューターに人間が勝てなくなる日が来るかもしれない。しかし、将棋の面白さは勝敗だけではない。人間の鍛え抜かれた頭脳が見せる思考の妙にあるのである。コンピューターの力技がいくら進化したとしても、天才棋士の繰り出す絶妙の一手が魅力を失うことはなさそうである。

私的「椎名林檎」論

今年の2月、椎名林檎のニューアルバム「平成風俗」がリリースされた。このアルバムでは、猫顔の天才ヴァイオリン奏者、斎藤ネコ氏が、自らのマタタビオーケストラを率い、全面的にアレンジを担当していることでも話題を呼んだ。時を同じくして、NHKで深夜、「椎名林檎お宝ショウ@NHK」という番組が放映された。実はこの番組で、僕は椎名林檎がどういう顔をしているのか初めて知った。なにしろCDジャケットなどで見かける彼女は、いつもコスプレがきつく、その都度、全く別人のようで、たとえ目の前に座ったとしても、彼女であることには気がつきそうもなかったのである。しかし、テレビで初めて椎名林檎が話すのを目の当たりにした僕は、改めて確信した、やはり彼女はオカシイ、と。

「しかし、なーぜに、こんなぁにも目ぇーが乾く、気ーがするーのかしらねぇー」。セカンドアルバム、「勝訴ストリップ」の最初の曲、「虚言症」の、なんともけだるい出だしが流れ始めると、たちまち僕は全身に鳥肌が立ち、同時に郷愁に満ちた陶酔感に包まれた。奇妙な歌詞、独特の節回し、そしてなんとも不思議なメロディーが、麻薬のように僕の脳の奥にしみこんで行く。冷たい水が渇いた身体を癒すように、体じゅうの毛細血管の隅々まで染み渡って行く。それは、ずばり、僕が永い間、求めて続けてきた音楽だった。あまりにも自分の体質に合っているので、初めて聴いている気がしない。それは、なぜかこの21世紀に、突如として僕の目の前に現れたのだ。

彼女の音楽が僕の心に湧き興す胸騒ぎのような感動は、かつて20代の頃、僕が夢中になっていたアングラ劇に覚えたものと似ている。彼女の芝居がかった音楽世界が、僕の眠っていた記憶を呼び覚ましたのだ。だが、アングラ劇は、結局、僕の求めていたものを与えてはくれなかった。それを、彼女は何の苦もなく手品のように僕の前に出して見せたのである。「日常よりリアルな理想」だとか「現実より真実な嘘」といった厄介なものを。

「椎名林檎お宝ショウ@NHK」のなかで、「デビュー以来、ずっとズレていた」と彼女は語る。デビュー当時、高校の頃作った曲を数年を経て歌うことに、すでに大きなズレを感じていたようだ。さらに、自分の狙いとは別のところでもてはやされる。理解する人は少ないのに、なぜか支持者は多い。しかし彼女は、そうした周囲とのズレを、すべて受け入れる。「女だから」と彼女は言う。誰よりもおとななのに、いつも周りを煙に巻かずにはいられない彼女にとって、どうやらズレは自作自演のようである。

カラオケで歌える3-4分ほどの曲を作っている自分が、クリエイターと呼ばれるのはおこがましいと、彼女は言う。が、それは彼女独特のこだわりだ。クリエイターという称号すら受け入れ不可能なのが椎名林檎なのだ。しかし、だからこそ、彼女の胸のすくような完璧な音楽がある。永遠に朽ち果てることのない、椎名林檎の粋な世界があるのである。

1000m/20分

 ちらりと時計を見上げると、19分3秒を指していた。あと57秒。最後の50mだ。3秒の遅れくらい何とかなる。最後の力を振り絞って腕の回転を上げ、ビートを打つ足にぐっと力を込める。一瞬、脳が酸欠状態になるが、そのままゴール。時計を見上げると、20分ちょうど。遂にやったのだ!

 この数年、健康のために、毎週、1000mずつ泳ぐことにしている。当初は、風邪気味だとか、疲れているとか、何かと理由をつけては中断し、結局、月に1-2回も行けば良いほうであった。しかし、この2-3年は、海外出張など止むを得ぬ場合を除けば、ほぼ毎週行く習慣を身につけた。タイムのほうも、かつては、30分弱かかっていたが、ぐんぐん伸びて、昨年の始め頃には23分30秒程になっていた。そして昨年の年初の計で、無謀とは思ったが、1000m20分を切るという目標を掲げたのだ。

1000m20分というと、50mを1分のペースである。しかし、コースは一方通行で、ターンの度に隣のコースに移らなければならない。斜めターンは禁止で、25mごとに、コース変更のために1-2秒のロスが出る。1000mでは39回ターンをするので、それだけでも、40~80秒くらいのタイムロスである。従って、少なくとも50mを58~56秒くらいのペースで泳ぐ力が必要がある。さらにプールが込んでいると、他の人が邪魔になる。平泳ぎで一生懸命泳いでいる人を追い越そうとする時など、わき腹をキックされることもあり、実際には、さらにハイペースで泳がなければならない。

 毎回、苦しさに耐え、泳ぎのフォームを修正して、昨年の夏には21分30秒程度に達した。しかし、そこからがなかなか縮まらない。最初の100mは、ゆっくり泳いでも、50m50秒ほどのペースである。もし、このペースを維持できれば、16分40秒で泳げる計算だが、200mも行かないうちに腕が重くなり、後半の500mは、必死の形相にも係わらず、一向にペースは上がらず、無情にもずるずると後退してしまうのである。

ところが、昨年の11月18日に、突如として20分30秒という驚くべき(?)記録が出た。娘の競泳用のゴーグルを借りたおかげか、或いは、特別体調が良かったのか、原因は定かでない。しかし、それはフロックではなかった。その次の週には、冒頭に述べたように、さらに30秒短縮して、とうとう20分に到達したのである。

 年末年始の休みで体がなまり、今年に入って、また20分台に逆戻りしていたが、2月に入って、再び20分を切った。そして、先日、スイミングパンツを新調すると、なんと18分55秒とあっさりと19分の壁も突破してしまったのである。一体、記録はどこまで伸びるのか?もっとも、あと新調するとすれば、スイミングキャップだけなのだが...。

ホームベーカリーがやって来た

 昨年の大晦日の夕方、小岩駅の雑踏のなかで、雑煮用の餅を買い忘れていたことに気がついた。慌てて店を探したが、どの店もすでに売り切れ。しかし、正月早々、真空パックの餅も情けない。「だが、待てよ」と、手元に目が行く。その時は、上京した母と、暮れの東京見物の帰りだったが、手には大きな荷物を抱えていた。先ほど、秋葉原のヨドバシカメラで、衝動的に買ってしまったホームベーカリーである。そうだ、これは餅もつけるのだ。それを思い出して予定変更。餅の代わりに餅米を買って帰ることにしたのである。

 ホームベーカリーはもともとパンを焼くものだから、餅つき機能はあくまでおまけだ。元旦から、炊飯器の横に鎮座したホームベーカリーを見て、果たしてまともな餅ができるのかと心配になる。娘達は当てにしてない様子。ところが、である。作ってみると、歯ごたえ十分。予想をはるかに超える出来ばえなのだ。何しろつきたてである。市販のものより断然うまい。どうだ!と興奮気味のお父さんに、娘達はあきれ顔だが、ともあれ、我が家のホームベーカリーは、元旦の餅つきで、鮮烈なデビューを飾ったのであった。

 ホームベーカリーの本領は、もちろんパンを焼くことにある。材料の計量が少し手間だが、そこは同じくヨドバシカメラで購入したパンミックスを使って手を抜くことにする。となると、ほとんど何もやることがない。パンミックスと水200mlを容器に入れ、同封のイーストをセットすれば、蓋をしてスイッチを入れるだけである。朝、目覚めるころには、香ばしいパンの匂いが家中に充満する。肝心の味だが、市販のかなり高級な焼き立てパンにも引けを取らないレベルと言って良いだろう。

 しかし、ホームベーカリーの真骨頂は、何と言っても「具入りパン」にある。まずはレーズンパン。自分で作るとわかるが、レーズンは意外に高い。市販のレーズンパンにレーズンが少ないのはそのためなのだ。その点、自家製の場合、好きなだけ入れられる。その結果、これぞレーズンパン、と呼べるものが焼き上がった。さらに、無花果、チョコレート、ミックスフルーツ、キナコ、ベーコン、黒糖、バナナ、果汁などなど。生地にイチゴ練りこみドライイチゴを加えたイチゴパン、ソーセージ入りカレーパン、味噌パンなど、杉山家オリジナルのパンも続々と登場している。いずれも材料はケチらない。

 さらに、このホームベーカリーを使って、うどんやパスタ、ケーキもできる。早速、うどんに挑戦。もちろん、機械でできるのは、粉を練るところまでで、それを2時間ほど寝かせて麺棒で伸ばし、包丁で切らなければならない。太さも長さもまるで不揃いなうどんを、しかし、たっぷりの鰹節で取った関西風のだしをかけて供すると、家族一同、無言ですする。もっちりとしたうどんは、かむほどに味が出るのだ。そして思わず、「うまいねぇ、このうどん!」の声。ホームベーカリー恐るべしである。

生産消費者

新年は毎年、世界を様々な側面から分析する特集番組が多い。無くならない国際紛争や貧困。環境汚染や地球温暖化の問題。中国などの台頭に、日本は果たして生き残っていけるのか、などなど。しかし、今年はそうした問題にあまり目を向ける気がしない。世界が置かれている難しさは、その根本に富をめぐる熾烈な競争があり、それがなくならない限り、何をやっても無駄なような気がするからだ。冷戦終結後の新興国の台頭により、世界的に競争が激化している。旧来の先進国も、かつての優位を守ろうと必死だ。節度のない競争が、イラク戦争の泥沼を招き、弱者がその皺寄せを被っている。世界中に横行する無理は、いたるところに歪のエネルギーを蓄え、テロという形で爆発する。こうしてつかんだ富は、果たしてその人を幸せにするのだろうか?富をめぐる競争は、地獄に向かってまっしぐらに進んでいるように見えるのだが。

新聞に目を落とせば、最近は消費行動が複雑化して、消費者のニーズが読めないと大袈裟に嘆いている。99円ショップでキャベツを売ったところ、同じ99円なのに丸ごと1個より半分に切ったもののほうが多く売れたそうだ。単に、要らないものは買わない正常な行為に見えるのだが...。要らないものを無理やり売ろうとするから、消費行動が複雑に見えてくるのである。

そんな中、ある番組の「生産消費者」という言葉が目に留まった。もともとガソリンスタンドでガソリンを消費者自ら入れるような場合を指す。従来、売る側、つまり生産者が行っていたサービスを消費者が肩代わりする。要はセルフサービスである。しかし、最近、この生産消費の拡大は、生産者と消費者の壁を壊し始めている。

安全でおいしい有機野菜を食べるため、スーパーに頼らず、何人かで集まって生産者から直接買う人がいる。さらに、休日に自ら畑を耕して、自宅で食べる以外にも、インターネットで販売を始めている人も現れた。ボランティア活動も生産消費行為だ。定期的に自費でアフガニスタンに医療活動に出かける医師がいるという。自分にしかできない人助けは、何ものにも変えがたい充実感をもたらす。かつてなら、「趣味」という言葉で片付けられていたこうした行為は、生産でもなく消費でもない新しいパワーとして、徐々に世の中に浸透しつつある。

生産消費者は、自分が本当にやりたいことに時間を使う。要らない人に無理やり売るようなこともしなければ、競争で人を蹴落とすこともない。インターネットも、彼らを全面的に後押しする。生産と消費の意味を変える生産消費者は、将来、世界的な紛争を解決する切り札になるかもしれない。生産消費者ネットワークが育てたリナックスが、商業主義の権化マイクロソフトを震撼させたことは、それが夢ではないことを物語っている。

レクイエム

去る1116日、ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏で、モーツァルトのレクイエムを聴いた。周知の通り、レクイエムはモーツァルト最後の、そして未完の作品である。彼の死後、弟子のジェスマイヤーが補筆完成させたが、どこまでがモーツァルトの作であるか、永年議論の的となり、演奏者によっても、その解釈に大きな違いがある。かつて斬新な解釈により人々を驚かせたアーノンクールが、円熟期を迎えて、どのような演奏を聴かせてくれるかは、大きな関心を集めた。

レクイエムの冒頭の「入祭唱」と「キリエ」は、ほぼモーツァルト自身の手で完成されており、誰しも最も思い入れの強い部分だが、アーノンクールの演奏は意外にも淡々と抑え気味に始まった。しかし、続く「怒りの日」が激しい調子で始まると、音楽は一気に熱気を帯びる。クセが強いと言われるアーノンクールだが、手兵のコンツェントゥス・ムジクスによる贅肉をそぎ落とした演奏は、鮮やかにモーツァルトの意図を浮かび上がらせていく。その崇高な透明感に、次第に心を洗われるような感動が全身を貫いていった。ジェスマイヤーの補筆が増える後半部に入ると、多くの演奏が光を失うようにトーンダウンするのだが、アーノンクールの気合は全く衰えない。奉献唱の「主イエス・キリスト」の、沸き立つような生命力には、新鮮な驚きに打たれた。少なくとも演奏を聴く限り、アーノンクールはこの曲を完成された曲として弾き切っていた。

アーノンクールは、演奏に先立ち、次のように言っている。「モーツァルトにおいては、生活は音楽に何ら影響を与えなかった。10歳にして、人類に与えられたあらゆる感情を音楽で表現することができた彼は、たとえ母の死のような大きな不幸に直面したときでも、何事もなかったかのように作曲を続けた。しかしレクイエムにおいてだけは、彼は初めて自分の心を音楽に託したのではないか」、と。モーツァルトの生活における諸々の事件は、彼の心に感情を引き起こす前に、まず音楽の主題となって現れた。それはすぐに音楽的な必然性に突き動かされ、縦横無尽に展開された。そして、周りが悲しんでいるときに、彼の心はすでにフィナーレを駆け抜け、晴れやかな笑顔を見せられたのである。しかし、そんな彼にとっても、やはり自らの死は特別なものだったのだろうか。果たして彼は、この曲で自らの魂の安息を願ったのだろうか。

死に対して異常に敏感だったモーツァルトは、音楽的に人生の頂点にありながら、もはや避けられない自らの死を悟り、残る命のすべてを注ぎ込んだ。そんな曲を、死ぬ前に都合よく完成させられるはずはなかった。まさに未完であることこそが、このモーツァルト最後の作品の完成された姿なのである。

生物における「合目的性」

1965年にノーベル医学生理学賞を受賞したフランスの生物学者ジャック・モノーは、有名な「偶然と必然」という著書の中で、次のように言っている。「生物学が科学として成り立つためには客観性が必要だが、一方、生物は明らかに合目的的性格を持ち、それが生物であることの証でもある。そこに生物学が内包する矛盾がある」。ここで言う、合目的的性格とは、生物の振る舞いには、常に何からの目的があるように見えることを言う。

例えば、卵子と受精する精子は、頭部から生えた鞭毛を螺旋状にし、スクリュウのように回転させて前進するが、その螺旋の形状を流体工学的に調べてみると、精子が最も速く進める形状(ピッチと振幅)になっていることがわかる。卵子と受精できるのは何億もの精子のうち1個だけであるから、精子は出来るだけ早く卵子に到達しようとするわけである。さらに、卵子にたどり着いた精子は、一転して鞭毛の動きを回転運動から平泳ぎのキックのような前後の運動に変える。これについても流体工学的に調べてみると、今度は進む力が最も強くなる泳ぎ方になっているのである。卵子にたどり着いた精子が受精するためには、卵子の細胞膜を破って核に侵入しなければならない。そこで、もっとも推進力が得られる泳ぎ方に切り変えたのである。

精子に限らず、昆虫の行動にも、植物の種子を飛ばす方法にも、「なんと巧妙な!」と驚かされる振る舞いをしばしば目にする。そうした、「合目的的」振る舞いは、生物にしか見られないものであり、生物を非生物から区別するものと考えられてきた。

一方で、物理学に代表される現代科学の手法においては、客観性が重視され、分析的な理解を目指す。生物のあらゆる振る舞いや構造は、基本的にすべて物理法則に帰することができると考え、「目的」のような主観的な見方は極力排除しようとする。

20世紀に入り、量子力学が登場し、物理学が次々と自然の仕組みを解明していくなか、モノーの時代には、まだ、「生命」にだけは、物理学では説明できない何か形而上学的なものが隠され、それが生物の「合目的的」な振る舞いの起源ではないかという期待があった。しかし、その後の分子生物学の急速な発展は、そうした期待を次々と退けていった。結局、生命現象といえども物理学に矛盾するものは、何もみつからなかったのである。

しかしながら、生物の行動が単なる物理的な帰結だとすれば、何故その振る舞いは「合目的的」に見えるのか。分析的な方法は、永久にその疑問には応えてくれそうにもない。しかし、逆に、ア・プリオリに「合目的性」を仮定してみると、巧妙に物理法則を利用し、進化を続ける生物のしたたかな姿が見えてくる。宇宙さえも、実は生物に進化の舞台を与えるために生まれてきたのかもしれないのである。

100円ショップウォッチング

 最近の100円ショップの充実振りには目をみはるものがある。文房具や台所用品などはもとより、自転車関連やガーデニング用品、防災グッズなど、何でもある。先日は、カメのエサも見つけた。あまり買ったことはないが、地図や文庫本、CDや英語の教材、おもちゃなども着実に品揃えが増えている。

10年ほど前に100円ショップが登場した頃は、品揃えは主に景品でもらうアイデア商品のようなものばかりで、品質も粗悪だった。安いからといって買ってきても、結局は使えず、100円の限界を感じたものだ。しかし、最近はサイズもデザインも実用に耐えるものになった。5mの金属製メジャーや自転車用のLEDライトなども、よく100円で出来るものだと感心する。元来得意のアイデア商品も健在である。台所用のゴミ箱には、スーパーのレジ袋を引っ掛けられる爪がついているし、水拭きで何でも取れる新素材の雑巾なども、なかなかの優れ物である。

もちろん、必要なもの全てが100円ショップで揃うわけではない。特に、「良いものを永く」使う場合には不向きだ。ただ、普段の生活には、あれば便利なのだが、ないならないなりに済んでしまうものが以外にたくさんある。いちいち買い揃えると、結構、お金もかかるので、つい不便なまま過ごしている。そうしたものこそ、100円ショップの出番である。言ってみれば、生活をスムーズにするための潤滑油なのである。

ところで、100円という低価格を可能にしたのは、なんと言っても中国をはじめとする生産の海外シフトである。しかし、海外で作れば誰でも安くできるわけではない。100円ショップへの納品価格は35円程度であると言われている。その中には、製品本体だけでなく、包装コスト、現地の工場から日本の倉庫までの運賃、通関などの輸出入に伴う費用が含まれれる。そしてさらに、何よりも検品コストが必要となる。

確かに中国では、一袋100本入ったボールペンが100円で手に入るかもしれないが、そのうち何割かは、すぐに書けなくなってしまう。日本の品質基準をクリアするためには、必ず厳しい検品が必要である。しかし、品質に対する考え方が全く違う現地の人たちに任せても、なかなか品質の向上は難しい。場合によっては、日本人自ら、検品の陣頭指揮を執らざるを得ないだろう。しかし、それではコストは抑えられない。100円という制約の下で品質をクリアすることは、並大抵のことではない。

今や中国人自身が100円ショップで買い物をして帰るという。中国製にもかかわらず、日本で買ったほうがコストパフォーマンスが高いのである。100円ショップの製品は、まさに日本人がこの10年間に海外と協力して達成したコストダウンの結晶なのである。

受験

受験生とその親にとっては、目の前にそびえる受験は、あたかも人生の勝ち負けを決する天王山である。最難関の大学に合格すれば、何物にも代えがたい優越感が得られ、逆に落ちた者には、容易に回復できない劣等感が刻み付けられる。しかも、こうしてできた序列は一生消すことができない。そうした思いがひたすら受験生を駆り立てる。

しかし、受験は本来、あくまでも大学の選抜試験であり、それ自体が最終目標ではない。むしろ本人が優秀なら、どこの大学に行っても活躍できそうなものである。もし気にするなら、大学の研究環境、つまり教官の質や設備の良し悪しなどのほうがずっと重要ではないだろうか。しかし、受験生やその親の関心は大学の中身ではなく、あくまでも合格の難易度なのである。難しい大学に合格することにより得られる満足感は、大学で何をやるかということより遥かに重要らしい。なんとも奇妙な現象であるが、そこに受験の受験たる所以がある。

それにしても、そうした難関に合格することは、果たして世間で思われているほどのステイタスがあるのだろうか?今や昔のように、有名大卒の看板だけで一生飯が食える時代ではない。世の中はすでに実力主義の時代で、かつてのような学歴に対するこだわりはなくなりつつある。特に大企業でその傾向が強い。有名大卒の看板に、まだ黄門様の印籠のごとき輝きがあると思っているのは、全くの幻想と言ってよい。

もっとも、もし受験勉強が将来非常に役に立つものなら、競争心をあおり学生を必至に勉強に駆り立てる受験は、それなりに意味があるだろう。国民の能力向上のために、心身ともに成長する時期に適切な教育を施し、将来の飛躍の基礎を身につけさせることは理にかなっているし、そのためには競争も必要だろう。しかし問題は、受験勉強そのものに、そうした効果があるかということである。これには色々な意見があるだろうが、僕の考えでははなはだ疑問である。例えば、よく言われるように、受験英語は実践では通用しない。これを受験関係者は、受験勉強は基礎だから、将来、会話の勉強をすればよいと言うが、しかし、アジア諸国の中でも、大学生がろくに英語で議論もできないのは日本くらいのものである。世の中の急速な変化にもかかわらず、基礎だから、という理由で、旧態依然とした受験教育を続けることは、将来を担う若い才能を潰しかねない。

こうした難題を抱えた受験にどう臨むかは、当事者である子供だけでなく、その親にとっても大きな課題である。受験生の親が、自分の子供にどういうアドバイスができるかは、親がどう生きているかを試されてもいるのである。

毎日モーツァルト

今年はモーツァルトの生誕250周年である。NHKではそれにちなんで、「毎日モーツァルト」という番組をやっている。文字通り、1年を通して毎日1曲モーツァルトの曲を紹介していく番組である。当初は110分ではどんなものかと思ったが、毎日毎日、モーツァルトの曲が、その頃の生活とともに淡々と紹介されていくのを観るうちに、いつの間にか自分のなかに今までとは違ったモーツァルトが棲み始めているのに気が付いたのである。

ベートーヴェンやバッハの音楽は、彼らの人格と良く釣り合いが取れているように見える。しかしモーツァルトにおいては、その偉大な作品に比べ、あまりその人物像が浮かび上がってこない。永年の間にモーツァルト愛好家は、彼の音楽に対し、「完璧な調和」「無限に溢れる楽想」といったレッテルを貼り、彼を人智を超えた超人的な存在として崇めてきた。音楽の神童に、いつしか肉体は似合わなくなってしまったのである。

しかし、「毎日モーツァルト」における彼は、まさに生身の人間である。故郷のザルツブルクを飛び出し、職探しに奔走する彼は、今か今かと朗報を心待ちにする。職に就けない彼は、遂に恋人のアロイジアにも振られてしまう。父へ手紙を書くことすらできないほど落ち込むモーツァルト。そこには、傷つきやすく、しかし決して自らを偽ることのない、まさに彼の音楽そのもののような人間が横たわっているのである。

1887年、彼は大きな不幸に見舞われる。妻のコンスタンツェとザルツブルクの父の元に息子の誕生を報告し、ウィーンに戻ってきたときのことである。乳母に預けてあった幼い息子が、その旅の間に死んでいたのである。驚くべきことに、あの明るいK333のピアノソナタは、その直後にかかれたものらしい。番組で静かに流れ始めた第2楽章に、僕の心は惹き付けられる。

方向性のない主題は、まるで茫然としたモーツァルトの心を映しているようだ。穏やかだが、何かを回想するかのようなメロディーが胸をつまらせる。一瞬、曲は淀み、突如として抑えがたい激情がほとばしり出る。が、すぐにそれを振り払うように、音楽は再び前に進み始める。あたかも幸福は常に悲しみと隣りあわせであり、しかし、どんな悲しみも新たな希望への始まりだと言い聞かせるように。

モーツァルトの音楽の最大の魅力、それは、あらゆる苦労も美談も、その前ではわざとらしく見える程の、彼の音楽の説得力にある。しかし、それは空想の中で生まれたのではない。キリストに肉体があったように、モーツァルトという一人の人間がいたからこそ、彼の音楽がこれほど多くの人の心を動かすことができるのである。