最近の「原宿」事情

カメラを片手によく原宿に出かける。この街の空気の独自の肌触りに魅せられてもう何年になるだろうか。駅前に立ち、いつものように妙な安らぎを覚えると、たちまち海辺の亀のように雑踏の波にさらわれ、心地よい緊張感に包まれながらこの街をさまよい始める。

かつて原宿はといえば、遊歩道に多くのパフォーマーが押し寄せ、歩道の並木の下では、画家の卵が似顔絵を描いて修行を積み、その横では地面に座り込んだ若者達が自作のアクセサリーの店を広げていた。そうした場所には、必ず能天気で暇そうな連中がたむろしているのだが、彼らの多くはモデルやミュージシャン、デザイナーなど、それぞれの分野で成功を目指すアーティスト達で、分野を越えた出会いの場でもあった。演ずるものと観る者が熱気を帯びて渾然一体となる巨大な舞台、それが原宿だった。

この街に足を運ぶおしゃれな女性達もまた、自らの個性を街に向かって発信する者の一人だ。頬に開けたピアスひとつも、彼女らなりの表現なのだ。趣向を凝らしたファッショには、彼女達が思いを込めた感性がこぼれ出ている。「写真撮らせて」と声をかけるのは、そうした思いが僕の感性を振るわせた時。ぐっと迫ってピントを合わせ、大袈裟に肘を張って縦位置にカメラを構える。彼女達は一瞬戸惑いの中に嬉しさの混じった複雑な表情をみせるが、行きますよ!とかまわずシャッターを切るころには、撮らせてやるか、という優しささえも浮かべ、すでに一人のモデルとして可憐に自分を主張している。

しかし数年前、表参道の遊歩道が消えた頃から、こうしたどきどきする出会いの場は次第に失われつつある。原宿交差点のGAPの前では、以前にも増してファッション雑誌のカメラマンに声をかけられるのを心待ちにする男女でにぎわっているが、こうした連中は、かつて原宿にくる骨のある連中からは軽蔑されていた。彼らにとって商業主義に安っぽく使われるのはノーサンキューなのだ。ここ数年はかつては歩道を彩った露店も締め出され、代わりに高級海外ブランド店ばかり続々と進出している。原宿はもはや、個人が思い思いに個性を発揮できる街ではなくなってきている。そしてここに足を運ぶ者の意識も、以前とは変わってしまったのだ。かつての個性の街は、商業主義に飲み込まれ、巨大資本の金儲けに利用されるだけのつまらない空間となりつつある。

昨年の秋、永年に渡って原宿のシンボルだった同潤会アパートがとうとう取り壊された。跡地には日本の誇る世界的建築家、安藤忠雄氏がプロデュースする新たな施設ができるそうである。果たして彼は、かつて原宿で渦巻いていた個性の輝きを再びこの街に呼び戻すことができるのだろうか。それとも、もはやそれは古き良き過去となってしまったのだろうか。

大人のピアノ

 昨年のクリスマスの夜、人前で初めてピアノを弾くことになった。曲目はモーツアルトのピアノ協奏曲第23番の第1楽章。もちろんオーケストラではなくピアノの伴奏だが、初めての演奏会にしてはなかなかの大曲だ。いや、私の力を知っているものは皆思ったであろう、無謀だ!と。なにしろ私がピアノを習い始めたのは40歳を過ぎてからなのだから。本番は緊張でがちがちで、とても人様に聴かせられるレベルではない。しかし、舞台に立った15分間は、実に多くのことを教えてくれたのである。

 演奏会のプレッシャーは大きく、毎日、駆り立てられるように練習した。年末で仕事も忙しく、夜中の1時過ぎまで弾くことも珍しくなかった。おかげで本番直前にとうとう指を痛めてしまい青くなったが、不思議と疲れていても練習は苦にならなかった。もっと気楽にやれば、と言う人もいたが、本人はいたって充実しているのだから仕方がない。

何がそんなにおもしろいのか。好きな曲ほど意欲が湧くのは、音楽の持つ魅力に引っ張られている証拠であろう。演奏すると、聴くだけではけっしてわからないバッハやモーツアルトの世界が見えてくる。彼らの崇高な世界に一歩近づくことができるのである。

だが、これだけ夢中になれるのは、どうもそれだけではなさそうだ。練習自体が面白いのである。自分なりにいろいろ工夫して、弾けないところが弾けるようになっていくのが楽しくて仕方がないのである。弾けば弾くほど引き込まれていく中毒状態で、まさか命を縮めることもないだろうが、少し怖くなることもある。

ところでピアノの練習は指を鍛えていると考えがちだが、実は脳の鍛錬である。もちろん成長途上の子供の筋肉や骨格は、永年の練習によってピアノに適したものになっていくのであろうが、毎日の練習レベルで弾けないところが弾けるようになるというのは脳の学習による。練習とは指を動かすプログラムを脳に書き込んでいく作業なのである。

ただし、このとき主役となるのは大脳ではなく小脳である。小脳は運動能力、技術といったものをつかさどる場所である。体が覚えている、という言い方は小脳の働きを特徴的に言い表したものである。そして言語を習得する能力と同様に、この小脳の働きも子供のほうが大人よりずっと優れている。悔しいが、わが娘を見ていると納得せざるを得ない。しかし、大人だからそこそこ弾ければいいではないか、と言われるのも悔しい。小脳はともかく、大脳の働きは経験豊かな大人のほうがずっと優れているはずだ。そもそも音楽的な表現は大脳の役割である。練習を工夫しさえすれば、働きの弱った小脳を補えるに違いない。

しかし演奏会では、結局、自らの小脳の弱さを痛感する結果となった。練習のとき間違えたことのないような箇所でつぎつぎとミスが出る。どうやら、緊張すると大脳はうまく働かないらしい。練習では小脳への不完全な書き込みを大脳がカバーしていたのだ。しかし、そう気がついたのは本番の真っ最中で、すでに手遅れだったのだ。