戦後60年

この夏は、戦後60年ということで、テレビでもさまざまな番組が放映された。そうした中で、日ごろは日常に隠されてしまっている戦争の影が、実は60年にわたって絶えることなく日本人の心の底に棲みつづけてきたことを改めて認識させられることになった。

 私の父は15歳のとき、予科練で終戦を迎えた。おそらく軍隊にかかわった人のなかではもっとも若い世代だろう。それだけに純粋で、軍国主義から受けた影響も大きく、50歳で死ぬまで永く一生尾を引いた。戦後の動乱の中で、学校も満足に卒業できなかった父にとって、予科練での8ヵ月間は、お国のために命を捨てる覚悟で臨んだ、精神的にも肉体的にも、人生でもっともひたむきに生きた時間であった。戦地に赴くことなく終戦を迎えたことは幸運としか言いようがないが、張り詰めた若い精神の糸は終戦によりプッツリと切れ、その後の人生において決して修復しきれない傷跡を残したのである。

 「靖国」の問題も、今年は多く取り上げられたが、有識者の方々の論議を聞くうちに、置き去りにされてきた日本人の心の戦後処理の問題が浮かび上がってくるように感じた。東京裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和条約で国際舞台に復帰した日本は、A級戦犯が引き起こした犯罪として戦争を清算し、復興に向けて歩み出した。しかし一方では、家族を失った悲しみ、死んだ戦友に対する生き残ったものの思い、戦争に負けた悔しさといった様々な思いは、簡単に消え去るものではない。そうした思いを、「靖国」という戦前の思想により吸収しようとしたところに、靖国問題の核心があるように思えた。結果的に、日本人は戦争に対する真の反省の機会を失ってしまったのである。

 今回、番組に出演した有識者の中にも、「お国のため」に死んだことは尊いことであり、戦没者の名誉のために靖国神社へ合祀するのは当然という意見が根強いのに驚かされた。戦後60年も過ぎ、本来ならば、日本は何ゆえ戦争という手段を用いざるを得なくなったのか、日本を戦争に導いた根本的な過ちとは何であったのかというようなことを、すでに詳しく分析し、国民一人一人がしっかりとした考えを持っていても良いはずである。そうした問題を棚上げし、不戦の誓いばかりしていても、軍国主義の亡霊は永久に消えはしない。

 戦争で心に傷を負ったのは日本人ばかりではない。日本以上に戦争で心に傷を負った中国や韓国の人からの批判に対して、首相の靖国参拝を単純に理屈で正当化しようとしても無理である。彼らの感情を尊重することは、戦争の当事者である日本として当然のマナーであろう。しかし、彼らが本当に望んでいるのは、日本人がもう一度真正面から戦争と向き合い、自らの過ちに気がつくことではないだろうか。

コスト競争の落とし穴

先日、かつて勤めていたハイテクメーカーS社で展示会を行ったが、全体的に元気がない。かつては日本の強さの象徴だった彼らも、今では韓国や中国のメーカーに追い上げられ、口を開けばコストの話ばかりである。ハイテクに限らず、現在、世界の市場は供給過剰であると言われている。メーカーは消費者が必要とする何倍もの製品を生産し、それを無理やり売ろうとしている。当然、価格は下落し、メーカーは一層のコストダウンを強いられる。こうしたコスト競争は、一見、消費者にとってありがたいことのように見えるが、実は逆に消費者離れを促進する原因となっているように思える。

電気製品の急激なコストダウンが始まったのは、バブルの崩壊期と重なる。景気の低迷で購買力が低下しはじめた1990年代のはじめ、各電機メーカーは、コスト低減のために競って生産の海外シフトを図った。その際、どこで誰が作っても同じものができるように、部品の共通化、一体化を推し進めた。当時始まったデジタル化による技術革新がそれを後押しした。AV機器の心臓部は共通化され、安いものでも十分なクオリティーが得らようになっていった。そして今や、メーカーや価格帯によらず、蓋を開ければ中身はほとんど同じである。こうして先端技術を投入し、ひたすら画一化によりコストダウンを図ってきた各メーカーが、今、他社と差別化できずに苦しんでいるのである。

現在、市場では、低価格品と高級ブランド品との両極化が進んでいる。低価格品では、必要最小限の機能のみを残し、コストを極限まで抑える。しかし、そうした安物にすべての消費者が満足するわけではない。そこでコストは二の次にし、消費者の満足度を第一に考えた製品の市場、つまり高級ブランド市場ができる。ブランド品というと、それを所有するステイタスばかりが強調されがちだが、真のブランド品とは、低価格品では決してかけられないコストを十分にかけ、低価格品では決して得られない満足を与えることができる製品を言うのである。

かつてハイテクという言葉は、技術の先進性をブランド化した言葉であった。他人より優れた性能を所有することは喜びであり、それによる価格の上昇は、むしろ所有する者に一種のステイタスをもたらした。しかし今やハイテクは、すっかりブランド性を失い、むしろ画一化の同義語になりつつある。

コストダウンに反対する人はいない。それはあたかも錦の御旗のようだ。しかし、その結果、企業は製品に魅力を吹き込む術を忘れしまった。消費者から見放された企業を待つのは、さらに厳しいコスト競争だけである。

石油がなくなる日

このところ石油価格は不気味な上昇を続けている。これまでひたすら増え続けてきた産油量は、ここに来てそのペースに翳りが見え始めている。多くの専門家の間では、今後の採掘技術の進歩を考慮しても、石油の産出量は現状がほぼ限界で、将来的に減少に転じ、2050年頃には今の半分くらいまで落ちるのではないかと予想されている。限りある資源であるにもかかわらず、人類は石油を使い放題使い続けてきたが、産油量の頭打ちという事態に至って、市場もとうとうその重大さに気が付いたのである。

もし突然、石油の供給がストップしたらどうなるか。クールビズで省エネする程度で済む話ではない。そもそも、20世紀の世界の人口の急増は、食料生産や物流などの能力が、石油という地下から湧き出た恩恵によって飛躍的に向上したおかげである。石油がなくなれば、途端に現在の世界人口をまかなうことはできなくなる。さらに、20世紀に人々の生活の質を劇的に変えた科学技術、そしてそれによる世界的な経済の拡大は、石油なくしてはありえなかった。現代社会は石油の上に成り立っていると言っても過言ではない。

もちろん石油はある日突然なくなるわけではない。それに向かう過程でさまざまな対策が打たれるだろう。石油に代わる再生可能な資源として、昨今ではバイオマス(生物資源)の有効利用を叫ぶ声も高い。しかし、これまで石油に頼ってきたものを、バイオマスですべてまかなうことは、量的にも質的にも到底無理である。石油はそれだけ並外れて手軽で便利な資源だったのである。ポスト石油社会においては生活の便利さは間違いなく低下する。人類は生活と価値観を大幅に変える必要に迫られるに違いない。

今後、石油をめぐる争いはますます熾烈になっていくだろう。イラク戦争が石油利権の獲得を目的にしたものであったことは周知の通りである。今後、石油の争奪戦が人類を戦争にすら巻き込んでいかないとも限らない。一方で、企業においては石油を使わない技術開発もすでに始まっている。自動車メーカーが省エネカーや燃料電池車の開発にしのぎを削っているのはその典型だろう。ポスト石油への対応は、石油が不足してからでは遅い。石油不足にいち早く対応できた企業のみが優位に立つことができる。石油がなくなる日を見据えての、企業間の生き残りをかけた壮絶な戦いはすでに始まっている。

石油の不足は、社会のパラダイムシフトを引き起こすに違いない。これまでのように大量生産し大量消費させたものが勝つ時代は遠からず終わるからである。その結果、人々の関心が物質的なものから精神的なものに向かうと期待するのは楽観に過ぎるだろうか。

おじさんのラーメン

まだ、僕が名古屋で中学生だった頃、夜も11時を過ぎたあたりに、家の近くでチャルメラを鳴らす屋台のラーメン屋さんがあった。当時からラーメン好きだった僕は、それを聞くたびに悶々としていたが、ある日、遂に我慢できず、弟と2人で寝静まった町に繰り出すと、闇の中に明るいガス灯に照らされ、白い湯気を立ち昇らせる屋台があった。

澄んだ醤油味のスープの中に、沸騰する大鍋で茹で上げた麺をさっと滑り込ませ、半割りの卵とチャーシュー、鳴門とメンマ、そして海苔を手早くのせ、湯気越しに、「どうぞ」と木製のカウンターに差し出すおじさんの仕草は、何の気取りもなく淡々としていた。しかし、その麺を一口すすって唖然とした。それは、最近のラーメンに良くある、「しばらくするとまた食べたくなる」というような曖昧な味ではない。はっきりとした主張がしっかり詰まっていた。複雑で深く、かつ完成された味だった。いったいどうすればこんな味が出せるのか。屋台の周りに漂う、腰が抜けるような濃厚で複雑なスープの匂いに、その秘密の一端が隠されていることは間違いなかった。

「こんな仕事してますがね、私、法政出なんですよ。」無口なおじさんが、他の客相手にふと口を開いたことがある。「大学出た後、親が出してくれた元手で事業を始めたけど失敗してね。それでも、サラリーマンにはなりたくなくて、小さくても一国一城の主にこだわって屋台を始めたんですよ。」おじさんを尊敬するわれわれには、おじさんのラーメンにかける自負がひしひしと伝わってきたものだった。

ある夜、すでに灯を消して足早に家路を急いでいたおじさんの屋台に、弟と2人で息を切らして追いつき、スープだけ飲ませてくれと頼んだことがある。おじさんは屋台を止め、再び店を広げると、丼にスープを注ぎ、いつもよりたっぷりネギを浮かせてくれた。そして、それを一滴も残さずに飲むわれわれを静かに見守っていた。値段を尋ねると、「また今度食べてくれればいいから」と言い残し、再び闇の町に消えて行った。

それから、12-3年ほど時が流れた。当時、すでに東京に住んでいた僕が帰省した折、かつての自宅の近くで、弟と2人でおじさんの屋台を待ち伏せたことがある。運良くその日、おじさんはかつてのように屋台を曳いて現れた。事情を告げると、「君達があのときの兄弟なのか!」と実に感慨深げに目を輝かせた。まさに夢のような再会だった。

その後、20年余り、うまいといわれるラーメン屋があると、まめに行ってみた。しかし、かつてのあの味に比較できるラーメンに出会ったことは一度もない。おじさんはまだ健在だろうか。そして、今でもわれわれ兄弟のことを覚えていてくれるだろうか。

発想の転換

先日、ピアノの練習で画期的な進歩があった。僕は昔から、譜面を睨んだまま、できるだけ手元の鍵盤は見ないで弾くようにこころがけてきた。大人になってから自己流でピアノを始めたため、それが正しい練習方法だと信じてきたのである。しかし、音程が大きく飛ぶような場合、鍵盤を見ないとどうしても音をはずすことが多くなる。先生は、そうしたときだけ手元を見るように勧めるのだが、永年見ない癖がついているので、下手に見ようとすると余計に間違える。先生と対策を練った結果、思い切って暗譜してみては、ということになった。譜面を全部覚えてしまえば、後はずっと鍵盤を見て弾けばよい。しかし、子供にとっては発表会の前に必ずする「暗譜」という作業を、僕は一度もしたことがなかった。案の定、やってみると大いに戸惑った。譜面を睨んで指の位置を探るのと、音を覚えて鍵盤を見て弾くのでは、全く異なる作業である。そもそも鍵盤を見て弾けば、間違えないのは当たり前ではないか。これでは練習した気がしない。満足感がないのである。

ところが、暗譜を始めるとすぐに思わぬことが起こった。単に音をはずさなくなっただけでなく、演奏が急に表情豊かになったのである。これには先生も驚いた。それまではどうやら、譜面を見て指に指示を出すのに、脳の全パワーを使い切っていたようである。簡単なところは問題ない。しかし、弾きにくい箇所に差し掛かると、指で鍵盤を探ることに集中しなければならない。肝心の音楽がお留守になるのは、考えてみれば当然のことである。傍で聴いていた先生は、僕の演奏が時として急にぶっきらぼうになるのになんとも言えぬ違和感を覚えていたようである。何かが欠けている。しかし、その何かが鍵盤を見るなどという初歩的なことだとは思いもよらなかったのだ。最近では、ピアノを弾く際、今まで感じたことのない音楽の豊かさを感じるようになった。一つ一つの音に気を配るようになり、フレージングは滑らかに、かつダイナミックになった。演奏に表情がないという永年の課題に対して、思わぬ形で大きく前進したのである。

一生延命やっているのに、なかなかいい結果がでない。今度こそ頑張ろうとよりいっそう努力はしてみるが、結果はやはり芳しくない。そうした場合、本人は自分なりに工夫しているつもりでも、実は根本的な問題には手がついていない場合が多い。永年やってきた自分のやり方に慣れ、工夫の仕方がいつしかパターン化しているのだ。実はそうしたことが知らず知らずのうちに自分の可能性を狭めているのではないか。無闇に頑張るだけでなく、たまには立ち止まって発想の転換を図ってみてはどうだろうか。

卒業

先日、長女が小学校を卒業した。一学年一クラスの小さな小学校なので、家族的な雰囲気の中、出席者一同、暖かい眼差しで一人一人の成長を祝福した。入場のときからすでに感極まって涙を流す子供達が多いなか、普段はあまり感情を表に出さない我が娘も涙をこらえるのに必死の様子だった。

子供達の涙につられるように、親達の胸にも熱いものが湧き起こる。つい先日、入学したばかりと思っていた子供が、いつの間にか見違えるように成長し、大きな怪我もなく、無事に卒業式に臨む子供の姿をみて喜ばない親はいないだろう。しかし、子供達の感慨は、親のそれとはちょっと違うようである。彼らにとって成長は当たり前で、昔の自分も今の自分も同じである。そんなことより、最近の友達同士の充実した時を思い、別れを惜しみ、将来に向けた期待と不安に胸を詰まらせているのである。そうなのだ。子供はいつの間にかおとなになっているのである。わが娘も、この2年ほどの間に、自分にとって何が大切で、どんな努力が必要なのか、自分なりの考えを持つようになった。子供の成長は、運動能力や知能だけではない。そうした心の成長に触れるとき、つくづくおとなになったと感じるのである。

娘の表情をビデオで追ううちに、いつしかかつての自分自身を思い出していた。いまから35年前、ちょうど大阪万博で日本中がお祭り騒ぎに沸いていた頃、僕は小学校を卒業した。僕の小学生最後の1年は充実していた。しかも、前年のアポロ11号の月着陸に刺激された少年の夢は、未来に向けて大きく膨らんでいた。にもかかわらず、卒業してから中学校に入学するまでの2週間あまりの間、一人で家にいると涙が止め処もなく溢れ出てきた。なぜだか良くわからない。確かに何もかもうまく行っているように見えた。しかし、心の中には何ともいえぬ空しさがあった。その後の人生に待ち受ける苦難を、僕はそのときすでに予感していたのかもしれない。

成長が必ずしも人生をらくにするわけではない。成長した心が、必ずしも現代の社会と折り合いをつけられるとは限らない。また、自らの理想と現実の間で葛藤しないとも限らないのである。娘はまだ出発点に立っているに過ぎない。今の彼女が、かつての僕自身と同じ不安の中にいないと言えようか。しかし、今振り返ると、そうした不安は、感受性が強い思春期を生きるものの特権である。僕はあえて娘に、大いに悩み大いに傷つけと言いたいのだ。それが、その後の人生に何ものにも代えがたい宝を残してくれるだろうから。

食在中国

ここは上海の中心部を走る南北高架道路の下。近くには高層マンションが建ち並んでいるが、大きな道路沿いのためか人通りは少ない。

昼を食べるために安食堂にふらりと入ってみたが、他に客は誰もいない。店員の視線が集中する中、レジの上にあるメニューをじっと見つめること5分、結局、小姐(店員)を呼び、「君が一番好きな麺は?」と聞いた。彼女が勧めたのは、その店で2番目に高い「青椒肚片麺」。青椒がピーマンであることはわかるが、肚片は一体何なのか。まあ、何が出てきても食べられる自信はある。

しばらくして現れたのは、やわらかく塩味で煮込んだ極厚の豚の胃袋(肚片)とピーマン、それに中国独特の小さい青梗菜の乗った麺だった。麺は細め、スープは骨付き肉のダシが良く効いた濃い目の塩味。無造作に半割りにした、ほとんど生のピーマンが、良く煮込んだ肚片と絶妙なバランスである。さすが小姐が勧めるだけのことはある。日本でこれだけのものを食べさせる店があるとすれば、相当の通が通う店だろう。値段もここでは9元(120円ほど)だったが、恐らく1000円から1300円はするはずだ。

中国に行くようになって、日本の中国料理には興味がなくなった。確かに、日本でも高級な店に行けば、味においては中国に負けない店もあるだろう。しかし、それはあくまで、たまに食べる「高級中国料理」だ。中国人には、日本のグルメのような意識はない。それでいて、毎日、当たり前のようにうまいものを食べ続けているのである。中国の料理には、中国人の貪欲な好みを吸収しながら発達してきた不気味とも言える迫力がある。

場所が変われば、そこにはまた独自の素材があり料理がある。以前、ベトナム国境近くの南寧という町に行ったとき、中華なべに水を張り、鶏を入れて、さっと煮立てただけの何の変哲もない料理が出た。味付けは塩だけである。最初は鶏の水炊きかと思ったのだが、主役はどうやらスープらしい。

そのスープを一口すすって愕然とした。信じられないようなダシが出ているのである。この地方は水がおいしく、また、地鶏も有名らしい。確かに素材がいいのだろう。しかし、さっと沸騰させただけなのに、なぜこのような味が出せるのか。僕は、その味を見極めようと何杯もおかわりしてみたが、結局、どうしてもその秘密を見極めることはできなかった。

最近、急速な経済成長ばかりが取りざたされる中国だが、このような食文化を持つ中国の魅力には計り知れないものが感じられる。安い労働力などという薄っぺらなものだけを見ていては、この国の真の底力を見逃すことになるだろう。

生涯の師 小林秀雄

生涯の師は誰かと聞かれれば、僕は迷わず小林秀雄と答えるだろう。直接面識もなく、ましてや師事したわけでもないが、彼の文章から受けた影響は、彼をそう呼ぶにふさわしいものがある。

それほど僕を惹きつける小林秀雄の魅力とはなんであろうか。彼は近代日本文学において、はじめて「芸術としての批評」を確立したと言われる人である。その対象は文芸に留まらず、モーツァルト、ゴッホなど分野を越えて縦横無尽に広がっている。彼のそれらの対象に対する造詣の深さは並み大抵のものではない。「ドストエフスキーの作品」を書くために、小林は「罪と罰」や「白痴」などの作品を、何十年もかけて何十ぺんと熟読したと言われている。ロシア文学の専門家といわれる人でも、ドストエフスキーの研究書の類は読んでも、こうした作品をそのように読み返すことはないそうである。彼はもとよりそうした専門家ではない。彼のあらゆる作品は、あくまでも彼が受けた強い感動から生まれているのである。しかも彼は言う、「優れた芸術に感動すると、何かを語ろうとする抑えがたい衝動が沸き起こるが、しかし口を開けば嘘になる。そういう意識を眠らせてはならない」、と。彼の創作は、常にそういう意識のもとで行われてきた。ここに小林秀雄の批評家としての独自性があるのである。

小林の「モオツァルト」に、次のような一節がある。「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていた事を思い出そう。彼の精神の自由自在な運動は、いかなる場合でも、音という自然の材質の紆余曲折した隠秘な必然性をめぐることにより保証されていた。」彼はあえて、これをモーツァルトの「自由」と呼んでいるが、これはまた小林自身が創作において目指した「自由」ではなかったか。そして、小林秀雄を読むものが常に彼の中に見つけ、惹き付けられて止まないものではないだろうか。

この十数年、生活上の卑近な問題に追われるうちに、彼のあまりにも純粋でひたむきな世界は、無意識の内に近づきがたいものとなっていた。しかし、先日、久しぶりに本棚の彼の全集を手に取ってみると、彼の文章は干からびた僕の精神を潤すかのように、たちまち体内に勢い良く流れ込んできて、若い頃、僕を夢中にさせた彼の鋭い直感が、実は小林秀雄という精神の成熟の上に築かれていたことを改めて知らされることになったのである。

「脱力」のすすめ

一年の計は元旦にありという。ここ数年、新年を迎えると努めてその年のテーマを決めるようにしている。決めるといっても何かに書くわけでもなく、途中で変更することも珍しくない。新たに思いつけばその都度付け足す。こんなルーズな一年の計だが、やってみると、それなりに効果はある。もし一年で終わらない場合は、もちろん次の年に繰り越しである。いずれにせよ自分のことだ。どうやろうが勝手なのである。今年のテーマはかねてから「脱力」にしようと思っていた。

「脱力」を大いに意識するようになったのは、昨年、ピアノのS先生に、散々手首の力を抜くように指導されてからである。手首の力を抜くとはどういうことなのか。力を完全に抜けばだらりとしてしまいピアノは弾けない。当初、何ともつかみかねたが、とにかく椅子から立ち上がって固まっている手首をぶらぶらさせたり、思い切って上下左右に動かしているうちに、それまでいくら注意してもつかえていた箇所が急に魔法のように通るようになり、力を抜くことの重要性を思い知らされることになったのだ。弾けないと、余計むきになって指をコントロールしようとする。しかし、コントロールしようとする思いこそが、実は手首を固まらせ、指の動きを妨げるのである。このピアノにおける体験は全く新鮮で、自分が人生でそれまで取ってきたアプローチの限界をはっきり悟らされることになった。つまり、ピアノに限らず、物書きにおいてもビジネスにおいても、自分が向上しようと取り組む全てのことに当てはまるように思えたのである。

「脱力」しなければならないのは、すでに余計な力が入っているからだが、そもそも理にかなった力の入れ方をするにはどうすればよいのか。ピアノにおいては、何をおいてもまずよく音を聴くことが大切だ。そして指を動かそうとするのではなく、イメージした音を響かせるよう心がける必要がある。それをピアノ以外のことにどうやって応用するかが、今年の課題である。何をやるにしても、無闇に力を入れる前に、何が最も大切であるかをはっきり意識しなければならないのは間違いない。

とはいえ、最初からあまり構えてみても始まらない。まずはいつも「脱力」を心がけることから始めよう。そして、時には億劫がらずに椅子から立ち上がり、手をぶらぶらさせてみるのである。

「本棚の本」

最近、8年ぶりに引っ越した。引越しといっても、マンションの2階から真上の3階に移っただけなのだが、家のすべての荷物を移動してみると、永い間、ひっそりと息を潜めていた記憶の箱が解かれ、忘れていた時間が蘇ってきた。

僕の部屋はやたらと荷物が多い。もともと多趣味なたちだが、多すぎる荷物はかえって自分の趣味を壊す結果となっており、今回の引越しを機に、何とか自分の感性にあった部屋に創り変えようと意気込んでいた。そのため、当面使わないものはひとまず捨てるという方針を立てて実行していった。8年前の引っ越し以来、大量の本が箱に入ったまま閉架式になっていたが、これにも原則を適用すると、本棚に並べられないものは捨てなければならない。しかし、こだわりのある本はなかなか捨てられない。必要な本がいつでもすぐに取り出せるよう整理するつもりが、結局、本棚に2列、3列と押し込められる形となってしまい、当初の感性にあった部屋には程遠い状況だ。しかし、そうして雑然と並べられた本を眺めたとき、思わず何ともいえぬ感慨と充実に捉えられていたのだ。

そうした書籍は、偶然読まれたものでも、他人に薦められたものでもなく、すべて自分で選んだものだ。改めて見ると、その選択には紛れもない僕自身の個性が表れている。分野は小説や歴史、評論などの文芸書から写真集や物理の本など多岐にわたっている。難しい本が多く、どの本にも苦闘した跡がある。何度も繰り返し読んだ物も少なくない。逆に、気楽に娯楽で読むような本はほとんどない。それだけに、一冊一冊に重みがある。

20代、30代と自分は何を考え、何を目指して生きてきたのか。当時は将来をどう思っていたのか。そこに並べられたそれぞれの本は、自分がどうやって生きて行こうか迷った足跡のようだ。何かを見つけるためというより、とにかく自分の幅を広げ土台をつくるために、直感のおもむくままに読んでいた。その後、時は予想以上に速く過ぎ去り、いろいろ寄り道もしたが、今、改めてそれらを眺めてみると、いずれの本も自分の血となり肉となり、今の自分はその土台の上に立って歩いているとはっきり感じるのである。

今度本棚に並んだ本のほとんどは、すでに何度か読まれたものだ。並べておいても、今後もう読むことはないかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、棚に並ぶ本はかつての自分の理想を語り、今の自分を再び揺さぶる。本棚の本が真価を発揮するのは、まさに読み終えた時からなのである。