EASTEINの響

しばらく前から家内の実家で内輪のミニ音楽会(公開練習会)を始めたのだが、我が家から運んだ古い電子ピアノの音がひどく、かつ弾きにくいのが悩みの種だった。そこで、先日、思い切って中古のピアノを買うことにした。

諸事情あってあまりお金はかけられない。ネットで出物を探してみたが、なかなか意にかなったピアノは見つからなかった。だが、2週間ほど経った頃、あるオークションサイトで格安のピアノが出品されているのを見つけた。

早速、家内と一緒に畑に囲まれた出品者の家を訪ねた。そのN氏の本業はフリージャズドラマーで、副業で要らなくなったピアノを引き取り修理して格安で提供しているようだ。自身のドラムも木をくり抜いて自作したものだと言う。

まず10台ほどの未整備のピアノが所狭しと置かれた倉庫に案内された。そこにはオークションでも見かけたEASTEIN(イースタイン )もあった。

今では日本でピアノといえばヤマハかカワイ製だが、戦後しばらくは他にも多くのピアノメーカーがあった。現在ではそのほとんどが姿を消してしまったが、そうしたメーカーによって作られたピアノの中には今でも評判の名器が存在する。東京ピアノ工業のEASTEINもそうしたピアノの一つだった。

ピアノの音というのは個々でかなり違いがある。だが、我々が楽器店で触る機会のあるヤマハやカワイのアップライトピアノの音はなんとも面白みがない。今回は年代を経たさまざまなピアノに触れられる滅多にない機会だ。好みの音色のピアノに出会えないものかという密かな期待があった。

EASTEINの象牙の鍵盤を押してみると、奇しくもその音色は僕好みだ。ただ、傷みがひどい。鍵盤蓋は何か高温の物が置かれたのか表面が溶けている。足は犬にでもかじられたのか大きく削れている。N氏は、修理には手間がかかり過ぎるため、あくまでも部品取り用で修理はしないと宣言していた。

やむなくすでに修理済みの他のピアノを見せてもらったが、なんとも先ほどのEASTEINが気に掛かる。N氏もこちらの熱意に圧されたか、最後には最低限の整備でよければということで修理を引き受けてくれることになった。

2ヶ月後、修理を終え見違えるようになった超重量級のEASTEINが家内の実家に運び込まれた。N氏の話では、外見はひどかったがアクションや弦など内部の状態は思いのほか良かったようだ。

2度の調律を経てEASTEINはついにその味のある音を響かせた。それは爽やかで、僕は背中を押されるように感じた、「さあ表現したまえ!」と。

追いつめられる労働者

先日、NHKで映画監督の是枝裕和氏が永年師と仰ぐイギリスの巨匠ケン・ローチ監督と対談する番組があった。

二人は永年家族が映す社会の姿を描いてきた。是枝監督は、あらゆる共同体の中で人がすがる最後の共同体が家族だと言う。その家族が今や崩壊の危機にさらされている。現代社会の過酷な就労環境のなかで、家族は精神と肉体をすり減らし、ついには家族同士で罵り合いを始めるに至る。

人類は、永年経済発展を続け飛躍的に豊かになったはずだ。それなのになぜ世界中で多くの人々がこれほど追い込まれているのだろうか。ローチ監督によれば、それは結局、経済的な競争が原因なのである。

企業はあらゆる技術、手法を用いて競争に勝ち抜こうとする。コンピューターやIT技術が進歩すると、そうした技術をいち早く取り込んだGAFAなどの大企業が市場において圧倒的な支配力を持つようになり、それ以外の企業と労働者はそうした巨大企業に奴隷のように従わざるを得なくなってしまった。

さらに中国などの新たなプレイヤーも台頭し競争に拍車をかけた。資本主義市場になだれ込んだ巨大な労働力が世界中で労働者の賃金を圧し下げたのだ。

弱者はもはや強者に対抗できず、自分よりさらに弱いものから搾取するしかない。勝ち組は負け組に対して自己責任だと突き放し、弱者は自らを責めるしかない状態に追い込まれていく。

本来ならば国家がそうした不平等を正すように努めるべきだが、今の国家は勝ち組優遇である。その方が政権維持に有利だからだ。しかもその事実を有権者に巧妙に隠し自分に批判が向かないようにしている。ある首相はこれまで一貫して経済優先を唱えているが格差が縮まる気配はない。にも関わらず選挙には勝ち続けているのだ。

富裕層はボランティア活動などでしばしば弱者に施しを与えているが、彼らが最も嫌がるのは弱者が力を持つことだとローチ監督は指摘する。だからこそ富裕層は国家とも手を組み自らの王国を守ろうとする。

こうした現状に労働者たちが気づいていないことが最大の問題であるとローチ監督は訴える。労働者を追い込んでいるのは、彼らから労働力を不当に盗んでいる大企業とそれを擁護する国家なのだ。労働者に現状に気づいてもらうためにローチ監督は映画を作り続けているのだ。気づきさえすれば、SNSを通じて労働者自身が声を上げることは十分可能なのである。

現地で感じた米中貿易戦争

 この8月に1年ぶりに中国を訪れた。行くたびにその発展の速さに驚かされる中国だが、今年はいつもとは少し事情が違う。このところ急速にエスカレートした米中貿易戦争は、中国にどのような影響を及ぼしているのだろうか。

 福建省から上海に移動したが、いずれも街は大いに賑わっており貿易戦争の影は全く感じられない。ただ、話を聞いてみると、貿易額急減の煽りを受け、輸送関連の会社などではすでに倒産するところも出てきているらしい。

 米中貿易戦争について今回特に印象的だったのは、「中国政府は絶対に妥協しないだろう」と誰もが口を揃えていたことだ。同時に彼らはアメリカも絶対に折れないだろうと見ている。

 アメリカは、自分たちが取った措置は中国の不公正な貿易と違法な情報収拾に対する制裁であると主張している。だが、実際は経済的に強くなった中国がアメリカの覇権を脅かすと一方的に危機感を募らせているのであって、アメリカの主張は言いがかりに過ぎないと中国人は思っている。

 かつて日本が貿易戦争でアメリカに叩かれた時、多くの日本人は良いものを安く売って何が悪いと感じた。今の中国人が抱いている感情もそれに似ている。自分たちは努力を積み重ねてきた。その結果、中国の力がアメリカを凌ぐほどになったからと言って、何故、理不尽なバッシングにあわなければならないのか。

 もっとも、今の中国はかつての日本に比べてはるかに強大だ。アメリカが脅威を感じるのも無理はない。だから、アメリカも決して妥協しないだろうと彼らは思っているのだ。

 では、この経済戦争は、今後、どのように展開していくのだろうか。米中いずれかが勝利し、どちらかが衰退するのだろうか。あるいは互いに別々の道を歩み世界は二分されていくのだろうか。それについては誰もが口をつぐんだ。だが、中国が負けるとは誰も思っていない。  

 中国滞在中、香港のデモもテレビを賑わしていた。当然、放送は中国寄りで、デモ隊の暴力で負傷した警官をクローズアップし、暴力は許せないと訴えていた。また、デモのアメリカ陰謀説もまことしやかに報じられていた。

 だが、香港のデモに対しては理解を示す人も少なくない。中国への返還後、50年間は高度な自治を認めたはずなのに、なぜ中国政府は約束を違えて自治権を脅かす政策を次々と押し付けるのか。そこには中国国内に対しても強権的な態度を強めつつあるこのところの習近平政権に対する反感が見え隠れしていた。

再始動

 今年の5月に名古屋の平田温泉という銭湯で1ヶ月間写真展を開いた。

 前回の写真展から3年が経っており、今回は新作を展示するつもりだったが、なかなか撮ることができず、結局、昔の写真を使うことになった。かつて苦労して撮った写真が日の目を見るのは嬉しいが、新作を発表できないのはなんとももどかしかった。

 最近、写真を撮っていないのにはいくつか理由があった。僕の写真の撮り方は、主に街で出会った人に頼んで撮らせてもらうか、街行く人をそのままをスナップするかのいずれかだ。だが、どちらの場合も昨今うるさい個人情報が気に掛かる。

 技術的な問題もあった。かつてはマニュアルカメラに単焦点(35mm)レンズ、モノクロフィルムというのが僕のスタイルだったが、時代はデジタルに変わった。デジカメは便利だが、その安直さになんとも言えない違和感があった。

 だが、そんなことも言っていられない。なんとか写真展に新作を加えようと、一念奮起して機材を買い揃え、デジカメ片手に再び街に繰り出したのだ。

 レンズは1635mmの超広角ズームを選んだ。超広角では被写体が小さくなるので、ぐっと近寄る必要がある。撮影後、近づいてくる相手にぶつかるくらいでないと迫力ある写真は撮れない。

 当初は慣れないデジカメに手こずったが、次第にかつての撮影時の感触が戻ってきた。デジカメならではの高度な機能も慣れるにつれそのありがたみを実感するようになった。

 個人情報に関しては、もちろんうるさい輩はいるが、最近は所構わずスマホで写真を撮るのが当たり前になっているためか、むしろ以前よりも撮られることに慣れているように感じられた。

 こうしてなんとか写真展に新作を3点追加することができた。同時に自らの写真ライフを再びスタートさせることができたのである。

 さらに、これを機にインスタグラムへの投稿を始めた。当初は仲間内でインスタ映えを競う自己満足の場かと思っていたのだが、始めてみてみて驚いた。そこはプロ、アマを問わず世界の写真家がクオリティーを競い合う夢のギャラリーだったのである。

 投稿写真は膨大な数だが、気に入った写真家をフォローすることにより、その写真家がアップすると同時に自分に送られてくるようになる。つまり次第に自分の好きな写真が自分のところに集まる仕組みになっているのだ。逆に自分の写真も自分をフォローしてくれる人(フォロワー)が常にチェックしており、下手な写真はアップできない。

 従来、プロの写真はレベルが高く、アマチュア写真とは一線を画していると信じられてきた。しかし、インスタグラムにはプロには撮れそうもない質が高く個性溢れた膨大な写真が、日々、投稿されており、プロの写真の権威は急速に陳腐化しそうだ。今まさに写真の可能性が大きく拡がろうとしているのだ。    (Instagram ID:ebiman_stasta)

米中貿易戦争の行方

 先日のG20でアメリカは中国製品に対する追加関税措置の実施を延期した。だが、これで米中貿易戦争が収束に向かうと考える人は誰もいない。

 アメリカの中国に対する要求の中には、国営企業優遇の廃止など国家体制に関わるようなものが含まれている。中国がこれを受け入れないことはアメリカも十分承知しており、その上で無理難題を押し付けているのだ。 

 中国国民は政府に対して豊かさは期待するが、政府から干渉されることは決して快く思っていない。共産党に従うにはそれを上回る経済的な豊かさを求めているのだ。この30年間、共産党はその声を叶えるべく中国を発展させてきたのである。

 その間、世界はグローバル化し、インターネットを通じて世界中の情報が入ってくるようになった。中国では表向きはGoogleYouTubeInstagramなどは禁止されているが、お金を払ってアプリをダウンロードすれば見ることができる。さらに、人々は自由に世界中を旅するようになり、今や中国人は世界の様子を最も肌で感じている国民と言っても良い。中国国内ではグローバル化した国民と旧来の共産党一党支配体制が共存しているのだ。

 これまで習近平体制はこの現状を成功と捉えてきた。国家指導の元、経済は世界のどの国よりも発展し、豊かになった国民はグローバル化しつつも現体制を受け入れている。これはまさに現共産党が描く理想像ではないか。

 だが、世界は中国だけで成り立っているわけではない。中国の繁栄は世界各国との関係のなかで成り立っているのだ。資本主義はとりもなおさず競争社会だ。誰が中国の一人勝ちを黙って見過ごすだろうか。アメリカが牙をむくのは時間の問題だったのである。

 アメリカが最も脅威と感じているのは国家資本主義の想像以上のパワーだ。だが、それをやめろと言っても中国が従うわけがない。そこでアメリカはまず関税によって貿易に打撃を与え中国経済の発展を鈍らせて共産党の支配体制に揺さぶりをかけようとしているのだ。

 中国ではあまりにも急激な発展によりその裏で様々な問題が生じている。豊かになるに従い大卒人口は急増したが、それに見合った就職先が十分にない。永年の一人っ子政策は人口構成を歪にし高齢化が急速に進行している。高級車が道路を埋め尽くし豪華なマンションが林立する一方で、社会の歪みは増大し至るところで国民の不満が蓄積しているのだ。

 それをこれまで生活レベルの向上と将来への期待によって抑え込んできたのだが、もし経済に陰りが見え、国民が将来不安にかられるようなことになれば、共産党への不満は一気に高まるに違いない。また党内の習政権批判が高まり権力抗争に火が付くかもしれない。

 事態はすでに単なる貿易戦争ではなく体制間の衝突になっている。中国は自国のAI技術の優位性などを誇示し一歩も引かない姿勢を見せているが、これまでの成長戦略は大幅な見直しを迫られるだろう。その結果、国家資本主義の勢いが弱まり、西側との共存路線に緩やかに移行していくことをアメリカは狙っているのだろうが、その行方は全く見通せない。

遺伝子スイッチと「意識」

 以前、『「意識」は何のためにあるのか』というエッセイを書いたことがある。生物の最小単位である細胞にはわれわれのような高度な「意識」はないだろうが自力でしっかりと生きていける。一方、高度な「意識」を持つわれわれは、飲酒やダイエットなどで肉体を痛めつけたり、時には戦争を起こして命を落とすこともある。脳によって生じる「意識」は生物にとって果たして本当にプラスになっているのだろうか。

 ところが最近、遺伝子スイッチというものの存在を知り、意識の役割について改めて考えさせられることになった。

 これまで遺伝子には、生命活動のためのあらゆる情報が含まれており、生物は一生その情報にしたがって生きていくしかないと考えられていた。ところが最近、遺伝子にはいくつもスイッチがあって生活環境によってそれがオンになったりオフになったりするということがわかってきたのである。つまり自分の遺伝情報は常に変わっているのだ。

 生活は意識的に変えることができるから、人は自分の意識によって遺伝子のスイッチをオンオフし、人生を遺伝子レベルで変えられる可能性があることになる。われわれは親から受け継いだ遺伝子情報に生涯支配されるわけではないのだ。

 従来、進化というのは遺伝子の突然変異により起こると考えられてきた。だが、遺伝子スイッチがあれば誕生以降も生物の遺伝子の働きは変えられ、言わば生まれてからも進化できるということになる。もし、自分の子供が誕生する前に意識的に自らの遺伝子を進化させておけば、自分の子供に進化した遺伝子を受け継がせるということもあり得るのだ。

 さらに想像を広げれば、個人の進化は社会の進化を促すことにもなり得るだろう。社会の変化に遺伝子が関わってくるのだ。そして意識の力で遺伝子に引き起こされた進化は、今度は逆に意識自体にもフィードバックされるだろう。人類の急速な進歩を可能としたのは、遺伝子スイッチによるそうした進化の仕組みが関わっているのかもしれない。

 もともと単細胞生物といえども無生物とは異なり何か意識的なものを感じさせる。だが、そのレベルでは意識はまだ遺伝子スイッチの状態に影響を与えることはできなかったのではあるまいか。しかし、進化により脳が発達し「意識」が生まれると、われわれは自らの周りの環境を意識的に変えることができるようになり、その結果、遺伝子スイッチのオンオフに「意識」が関与するようになって来たのではないか。

 もし、そうであるとすれば、「意識」は単に人間的な行動の源となっているだけでなく、生物の進化を担っているのではなかろうか。これまで進化は偶然の突然変異によって引き起こされ、そこには「意識」が関与する余地はないとされて来たが、実は意識と進化は密接に結びついているのではないか。

 遺伝子スイッチについてはまだ研究が始まったばかりで、あまり想像を逞しくするのは良くないかもしれない。今後の研究の進歩を冷静に見守りたい。

国家の質

 利息がゼロなら借金は怖くはない。国の借金は地方も含めると1000兆円を超えているが、政府は様々な手立てで金利を抑え込み、借金を減らそうとする気配は全く見られない。

 だが、もし何かのきっかけで金利が上がり始めれば、利払い費が増え借金は雪だるま式に増え始める。国といえども借金は期日が来れば返さなければならず、返済が滞れば国といえども破産するしかない。

 安倍政権下の金融緩和では、日銀が借金を肩代わりすることで金利を抑えてきた。だが、日銀は無限にお金を刷れるわけではない。やり過ぎれば円に対する信用が失墜しインフレを招く。通常、インフレが起きそうになれば金利を上げ金融を引き締めるが、金利を賄うためにお金を増刷するような状況ではそれも不可能だ。これまでは何とかコントロールされて来たが、今の日本はいつ何時金利上昇とインフレの嵐にさらされるかもしれない危うい綱を渡っているのだ。

 こうした財政状況を改善するために事あるごとに持ち上がるのが消費税の増税である。だが増税は有権者には人気がない。そこで安倍政権は2度にわたり増税を先送りし、その代わりさらに借金を増やせるよう日銀による大量の国債の買取り、マイナス金利政策という奇策を押し進めて来たのだ。だが、一方で異常な金融政策に対する危惧も高まり、とうとう消費増税を受け入れざるを得なくなったのである。

 では、増税か借金かどちらがいいのだろうか。何かおかしくはないか。実はそこには肝心の議論が欠落しているのだ。

 政府は国民から税金を徴収し、それによって国民にサービスを提供している。もし徴収した税金に見合った素晴らしいサービスが提供されるのであれば、多少の増税も国民は受け入れるはずだ。2019年度の国家予算は100兆円を越えた。これは4人家族あたり330万円を政府に支払っている計算だ。国民は果たしてそれに見合ったサービスを受けているだろうか。

 政府は社会福祉費の増加を理由に長年国債を増発しつづけ国民からお金を吸い上げて来た。そして、それが限界に近づくと今度は消費増税である。取れるところから徹底的に吸い上げようとする姿勢がそこには見える。だが、そうして吸い上げたお金は一体何に使われているのだろうか。本来、最も議論されるべきはそこではないのか。

 政府の予算には無数の既得権者がぶら下がっている。その見返りとして政府は彼らの支持を受け政権を維持している。権力拡大のために既得権者を優遇し弱いものにツケを回す政府の体質が莫大な借金を積み上げて来たのだ。国民から徴収し、本来は国民のために平等かつ有効に使われるべきお金はそうして至るところで無駄に使われているのである。

 単に増税の是非を問うても答えは出ない。問題は国家の質にあるのだ。予算を国民生活のためにどれだけ有効に使えるかが政府の質、そして国の質を決める。国民はその点にもっと厳しい目を向けるべきではなかろうか。

銭湯の思い出

 風呂に入っている時に良いアイデアが浮かんだという話はよく聞く。入浴中、われわれの精神は何か独特の状態になるのだ。そして、もしそこが銭湯ならば、立ち込める湯気と反響するざわめき、何ともいえない気だるさが、さらに心地よい世界にいざなってくれる。

 子供の頃、毎日のように通っていたのは近所の米野湯だった。今はもう取り壊されてしまったが、廃業後もテレビロケに使われたこともある風情のある銭湯だった。

 脱衣所から浴場への入り口には石と盆栽で作られた小さな庭があり、浴場に入ると真ん中に大浴槽、奥の壁沿いにぬる目の湯、電気風呂、薬湯の3つの浴槽があった。

 子供はまず自然を模した石組のあるぬる目の湯から浸かると決まっていた。最初から熱めの大浴槽に入れるようになれば、それはもう大人の仲間入りをしたということだった。

 電気風呂には左右に木製の枠に覆われた電極があり、そこに手を近づけると痺れて動かせなくなるほど強力な電圧がかかっていた。壁には心臓の悪い人は入浴を控えるようにと物々しい注意書きがあったが、なぜか効能については全く記憶がない。

 米のとぎ汁のように白濁した薬湯は米野湯の名物だと母から聞いていた。その「薬」はしばらくすると底に沈んでしまうので、入る前には浴槽の傍らにおかれた重い木製の器具で攪拌しなければならなかった。その際、舞い上がる香りが今でも忘れられない。

 銭湯は体を洗ったりお湯に浸かったりするだけの場所ではない。休日ともなれば一番風呂に行って水中眼鏡をつけて潜ったり、自作の戦艦のプラモデルを浮かべたりとやりたい放題だった。ある休日、まだ明るい時間だったが、友達が大勢来ていた。そこで僕は、以前から温めていたある実験を実行に移すことにしたのだ。

 まず、僕が電気風呂に入り、強烈な痺れに耐えながら電極に体をくっつける。その状態で手を伸ばして浴槽の外の友達の手を掴むと友達も痺れる。こうしてどんどん列を伸ばし、どこまで電気が届くのか調べたのだ。途中、友達だけでは足りず他のお客さんも動員して列を伸ばして行ったが、とうとう先頭が番台の横の出口のところまで達しても、まだ「痺れてる!」と叫んでいる。電気風呂恐るべし!想像以上の結果に僕が大満足だったことは言うまでもない。

 銭湯といえば、湯上りに飲む冷たい牛乳が格別だった。コーヒー牛乳、フルーツ牛乳も捨てがたいが、僕の一押しは何と言ってもカスタード牛乳だった。卵、牛乳、バニラが渾然一体となった甘みとコクは比類がなく、多少高くても納得だった。先日気になり、ネットで調べてみたが見つからなかった。今あればヒット間違いなしだと思うのだが。

 銭湯は帰り道も楽しかった。風呂桶を抱えたまま洋品店を覗いたり、夏場には裸電球の下で店開きする金魚すくいに興じた。横ではかき氷も売られ、さながら夜祭だった。

 銭湯には日常とはまた別の独自の時間が流れていた。そこで毎日過ごした体験は僕の心に他ではけっして得られない特別の思い出を残してくれたのである。

 何事も一見順調に見えるときほど、隠れたところで問題が蓄積されているものだ。

 史上稀に見る急速な発展を成し遂げてきた中国だが、そこにはいくつかの理由がある。1978年、当時の国家主席、鄧小平の号令のもと改革開放政策が始まった。しかし、政治体制の違いやインフラの不備などにより当初は海外からの投資はなかなか進まなかった。だが、WTOに加盟した2000年頃から投資は加速し海外の技術を急速に吸収し始める。これにより中国は技術開発の時間を大幅に短縮し短期間に発展できたのである。

 さらに共産党一党支配の下ではインフラ整備が非常に効率的だ。市民がごねると立ち退きが滞り道路建設がストップしてしまう他の資本主義国家に比べ、国家が描くデザインに従いインフラ整備が速やかに進む中国では同じ予算を投じても効率が桁違いに良いのだ。

 企業の発展においても国家の指導のもとに無駄な競争を避け、効率の悪い企業は容赦無く潰して来た。その結果、瞬く間に世界有数の企業が多数育ってきたのだ。 

 習近平が国家主席になった2013年にはGDPはすでに日本を抜き世界第2位となっていた。その後も中国の勢いは止まらず、習主席が2期目を迎えた2018年にはアメリカに迫る大国に成長していた。経済規模だけでなく技術的にも多くの分野で世界のトップレベルに達し、生活文化も先進国と遜色なくなった。もはや世界一の覇権国家になる日も遠くはないという雰囲気にあふれていた。

 一方で習主席は就任以来、腐敗撲滅の旗印のもと政敵を次々と粛清し、自らの政治基盤の強化に努めてきた。国民もかつての貧しい中国を世界トップレベルまで引き上げてくれた政府を評価していた。共産党の管理に息苦しさも感じるが、もっと豊かになれるならやむを得ないと考えていた。

 そうした状況に自信を深めたのか、習主席は2018年の3月、憲法改正に踏み切り、それまで2期10年だった国家主席の任期を撤廃してしまったのだ。だが、これに対して普段あまり政治に関心を示さない中国市民がSNSを通じて一斉に批判した。国家主席の任期はかつて毛沢東への権力集中が進み過ぎ文化大革命の悲劇を招いたことへの反省から定められたものだった。市民の頭にはかつての忌まわしい記憶が蘇ったのだ。

 そうした矢先、思わぬ方向から別の強烈なパンチが飛んできた。アメリカが仕掛けた貿易戦争だ。もちろん中国もそうした攻撃に対し永年備えてきた。だが、今や世界中の産業が中国に依存し、どの国であれ敵対すれば自分の首を絞めるだけだという楽観論が支配的だった。だが、中国の拡大に対する世界の警戒感は想像以上に高まっていたのだ。

 現在中国では、他国ではスタンダードとなっているGoogleYouTubeが国家によって規制され使えない。これまで中国の国家体制は奇跡の発展の原動力となって来た。だが、さらなる拡大の前には体制の違いという壁が立ちはだかる。それに対して果たして中国はどう動くのか。中国の発展、そして世界の行方は、今、大きな転機を迎えているのである。

人間の時間、猫の時間

猫はいつものんびりしているように見える。だが、猫自身は特にのんびりしているつもりはないだろう。朝起きて会社に急ぐ必要もなく、夕飯の支度に追われることもない。気ままに生きる彼らをみてわれわれが羨ましがっているだけなのだ。

猫も夜になればどこかに出かけて行くし、道を渡るときには間合を測って身構える。彼らにもそれなりの時間感覚はありそうだ。では猫の時間と人間の時間は何が違うのだろうか。

猫には時計を見る習慣はない。いちいち今何時か気にしたりはしない。だが人間も常に時計を見て時間を確認しているわけではない。階段を降りる時、いつ足を前に出すかいちいち時計を見る人はいない。日頃の行動の多くは感覚的に行われ、猫とさほど変わらないのだ。

そもそも人間はいつから時計を気にするようになったのだろうか。人間にとって最初の時計は太陽だったと思われるが、当初は大まかな目安程度だったろう。明るくなったので活動し、日が傾けば危険を感じ家に帰る。この時点では猫とさして変わりはない。

しかし、あるとき人間は太陽の動きを正確な時間の目印、つまり時計として使おうと思いついたのだ。1日を時間の物差しにより分割し、いつ頃が狩りに適しているか、作業を終えるまでにどのくらいかかるかなど、生活の中に本格的に時間が入り込んできたのだ。

一方、太陽が毎日昇っては沈むうちに次第に季節が変わり、しばらくすればまた同じ季節が戻ってくることにも気がついただろう。そしてそれに合わせて冬に備え食料を蓄えることなども学習して行っただろう。それには1人の人間の力だけでは無理で、何代にもわたる経験の積み重ねが必要だったかもしれない。

こうして人間は太陽の運行を元に時間という物差しを作り、その物差しを日頃から意識して暮らすようになった。猫とは一線を画すようになったのだ。

さらに村のような社会ができると村の人たちが同じ時間を共有する必要が出てくる。さもなければ待ち合わせもままならないからだ。太陽の位置は見る場所によって変わるので日時計が作られ、そこから得た時間情報を村全体で共有するために定期的に狼煙を上げたり鐘を鳴らすような工夫もしただろう。複雑な社会の構築には時間は不可欠だったのである。

一旦時間が共有されると、今度はそれに合わせて生活しなければならなくなる。店はいつでも開いているわけでもないし、会議に遅れることは許されない。社会的な利便性のために作り出した時間に今度は人間が逆に支配されることになったのだ。

過去や未来という概念も時間の物差しを持つようになって初めて生まれたものだ。自分の記憶と過ぎた去った時間を組み合わせることで過去が生まれ、来たるべき時間に何が起こるかを想像することにより未来が生まれる。従って、猫には過去や未来もありそうもない。

現代人は富を生み出すために時間をいかに効率よく使うかを日夜追求している。一方、時間があるからこそわれわれは未来を案じ過去を懐かしむことができる。富への欲望も情緒豊かな文化も実は時間により生み出されたものなのだ。