細菌との共生

 細菌というと体に害を及ぼすものという印象が強いが、われわれ人類は永年に渡って細菌と共存してきた歴史を持つ。腸内フローラという言葉を聞いたことがある人もいるだろう。腸には100兆個を越すさまざまな細菌が棲んでおり、それら全体は腸内フローラと呼ばれる集合体を形成し宿主の腸と共生状態にあるのだ。最近ではそうした腸内フローラが人間の身体だけでなく精神状態にも深く関わっていることが明らかになってきている。

 腸には様々な機能がある。誰もが知っているのは栄養の吸収だ。だが、その機能が正常に働かないと体に不要なものまで吸収してしまう。そうして誤って吸収されたものが体中の細胞に徐々にダメージを与え、ガンやアルツハイマー病などの深刻な病気の原因となり老化を加速させていることがわかって来ている。

 一方、腸は免疫にも大きく関わっている。腸が作る免疫系は体全体の7-80%を占めており、もし腸の免疫機能がうまく働かなければ病原菌やガン細胞を適切に排除できないだけでなく、免疫が自分の体を攻撃してアレルギーや様々な免疫疾患を引き起こすことになる。

 さらにあまり知られていないが、腸には独自の神経系がある。神経系といえば脳や脊髄などの中枢神経を思い浮かべるが、腸の神経系は迷走神経と呼ばれる長い神経を介して中枢神経系とつながっており人間の精神状態に大きな影響を及ぼしている。

 緊張してお腹が痛くなったという経験は誰にでもあるだろう。腸内には無数の神経細胞があり、筋肉や免疫細胞、ホルモンなどをコントロールしている。うつ病は脳内でストレス物質をコントロールするセロトニンの不足が原因と言われているが、体内でできるセロトニンの80%以上は腸の神経細胞で作られているのである。

 興味深いのは以上のような腸のさまざまな働きは腸単独で行なっているのではなく、腸内に宿る細菌と腸の共生関係のなかで実現されているということだ。考えてみれば免疫のお膝元である腸内に膨大な細菌が棲んでいるというのは不思議なことだが、実際には細菌は腸の免疫系と絶妙なバランスを保ちつつ、腸の様々な機能をコントロールしているのだ。

 うつ病の原因は通常ストレスだとされている。だが、近年のうつ病の急増はストレスだけでは説明できないという。一方で食事の改善によりたちまちうつ病が治ったという例は珍しくない。食事は単に栄養となるだけでなく、腸内フローラに大きな影響を与えているのだ。近年、われわれの食事には腸内フローラにとって好ましくないものが増え、それがうつ病の急増の要因だと主張する学者も少なくないのである。

 このように腸内フローラの状態は宿主の心身に大きな影響を与えている。とはいえ、その細菌構成は人によって千差万別で、何が最適なのかは一概に言えない。ただ、腸内フローラの状態は食事に大きく左右され、抗生物質などの薬物により致命的なダメージを受けることは確かだ。もし心身の健康を望むなら、日頃からこの同居人と幸福な共生関係を保てるよう食生活には十分気を配る必要がある。

免疫系と「自己」

われわれは自分の体を自分のものであると考えているが、自分の体のなかで何が行われているかほとんど知らないし関心もない。例えば胃袋に送り込まれた食べ物を消化するために、どのように胃を動かして、どの細胞に消化酵素を分泌させるか指示を出す人などいないだろう。一度飲み込んだものは、とにかく胃や腸でうまく消化吸収されることになっている。全く「あなた任せ」なのである。

体内に侵入する外敵を24時間監視し、傷や病気を治してくれる免疫系は、壮大な宇宙にも匹敵する複雑かつ巧妙なシステムだが、われわれがその働きを意識することはほとんどない。最近、免疫系は単に外敵の侵入を食い止めるための仕組みではなく、「自己」を「非自己」から区別し、自分というものを規定するシステムとして捉えられている。なぜなら外敵を認識する大前提として、まず「自己」を正確に認識しなければならないからである。その上で免疫系は、何億という外敵を区別し、それを中和するための抗体を次々と作り出す。しかしながら、自己を死の危機にも陥れかねないこれらの外敵に対しても、われわれは認識することもなければ、攻撃するように指示を出すこともない。自分の体を自分のものとして守っているのは、免疫系というシステムなのである。われわれに宿る「意識」の働きは、言うまでもなく脳がつかさどっている。われわれは脳が主役だと思っているが、脳が作りだす「意識」は、何らわれわれの体を守る能力がないばかりか、脳自身も免疫系の外に置かれれば、たちまち外敵の餌食になってしまう。

黙々と「自己」を守るこうした免疫システムにもいつか崩壊の日が訪れる。老化がその働きを阻害し始めるのだ。免疫系の老化は、「自己」の認識エラーとして現れる。自分と外敵を的確に区別できなくなり、時に自分自身を攻撃し始める。免疫系の崩壊、それは「自己」の崩壊なのである。「意識」も老化の影響を避けられない。記憶や判断力といった脳の働きも、老化によって蝕まれていくからである。老化によって次第に「自己」を侵された肉体は、あるとき死によって一気に崩壊に向かう。「意識」は、その際もなす術がない。

客観的に見れば、老化を恐れる必要は全くない。われわれは子孫を残すことにより老化をリセットできるからである。免疫系は再び新たな「自己」を規定し、「意識」もまたゼロから人生を踏み出す。こうして「種」として生命をつないでいく「自己」にとって、われわれの「意識」が感じる死への恐怖など、まったく大したことではないのである。